
鳥男
買い物に行った妻がカツオのたたきを買ってきた。
カツオパーリナイの合図である。
付け合せの玉ねぎをごく薄くスライスして水にさらし、暫く置いた後渾身の力を込めてぎゅっと絞る。ここで手を抜くと子供たちが「辛い」と怒って食べなくなるし、絞りが甘いと水っぽくなる。
生姜をまるまる一本、ついでにニンニクもすりおろす。大根おろしみたいに生姜を使うので、ここでケチらないことが重要だ。ニンニクは大人しか使わないのでそんなにいらない。チューブとすり下ろしたてでは香りが全く違う。
カツオを薄くスライスする。本当は厚手で行きたいが、あっというまに食べ終わってしまう。食感を損なわない程度の厚さにする。
そうしてたまに使う実家から引き継いだ妙に豪華な絵柄の大皿に盛り付ける。
食卓に出すと子供たちは大喜びだ。
小皿にカツオと玉ねぎを取ると、そこに生姜をたっぷり乗せて、ごま油と醤油をちょっぴりかける。そしてそれらを一口で頬張る。さながら和風カルパッチョだ。
「美味しいね!」
次女がぷくぷくの頬をゆるませてニコニコと笑う。
カツオのたたきって殆ど和風カルパッチョだよね、なんて話していると思い出す事がある。妻が若い頃バイトしていたイタリアンレストランのお客様だ。
そのお客様は毎度同じメニューを頼んでいたらしい。カルパッチョだ。
毎度独特のイントネーションで「カウパッチョくだしゃい」と言っていたらしい。そのせいで妻のバイト先ではそのお客様が来ると店員同士で「カウパッチョさん来たよ」と言い合っていたらしい。妻が白目を剥き顎を尖らせて「カウパッチョくだしゃい」と大袈裟な声マネをしながら楽しそうに話す横で、昔の私は腹を抱えて笑っていた。しかし現在の私はこの話を聞くたびに戦慄している。
私が店で認知されるのが嫌いな理由がここに詰まっているのだ。あだ名なんて絶対につけられたくない。
一時某カレーチェーンにハマっていた事がある。それこそ毎日のように昼になると足繁く通い、同じメニューを注文した。チキン煮込みカレーだ。カレーに溶け出したチキンの旨味がたまらない。やがて店員が意味ありげな目線をこちらに向けるようになったが、あえて気づかない振りをしていた。挨拶なんかしてなるものか。
そんなある日、ちょっと贅沢をしてやろうと考えた。ボーナス日だ。
営業車でカレー屋さんに向かいながらオーダーを考える。チキン煮込みカレー3辛、パリパリチキンとゆで卵乗せだ。辛口のカレーも卵の甘みで和らげられる。パリパリチキンのパリパリっぷりがたまらない事だろう。決まった。隙のない注文だ。
店に入り、注文を取りに来た店員に淀み無く注文する。
「チキン煮込みカレー3辛、パリパリチキンとゆで卵トッピングで」
「はい畏まりました」という店員の顔を見ると明らかに笑いを堪えるような顔をしている。「あれ」と思いながらそのままオーダーを取った店員がバックヤードに入る様子を横目で見ていると、バックヤードから何やら笑い声が聞こえてくる。嫌な予感がする。これは聞かないほうが身のためだぞ、と思うが、心と裏腹に耳の感度が普段の2倍くらいになっている。
すると、「鳥まみれじゃねぇか」という店員の笑い声が聞こえてきた。
それを聞いた瞬間「たしかに」と笑いそうになったが、そこからの記憶があまりない。
ボーナス日に奮発したカレーだったが、殆ど味がしなかった。
きっとカウパッチョさん宜しくあだ名が付けられているに違いない。
以後そのお店に行くことはなかった。
カツオのたたきを食べながらカウパッチョさんの事を考える。
もう私はカウパッチョさんの話で笑うことは出来ない。