
見ること聞くこと考えること感じること書くこと読むこと夢見ること
見ること聞くこと考えること感じること書くこと読むこと夢見ること
人は何かをいつでもしている。ぼくはふと思った。現実を作り上げているのは人と人の間にあるなにものかだと。そうして見たり聞いたりしたことを我々は変換していると。つまり実際にあったことごとの書き換えを行っている。実際にあったことは実は人には正確に認識できない。関係性の中でそれらは確実なものとはならない。
人間同士はよく似ている。しかし違う。またその人の物理的な位置によって変わってくる。似ているが違っている。違っているが似ている。日本人同士ならその共通点も多いだろう。しかしやはり違っているのだ。その違いが世界を構成している。緻密な世界だ。この世界のすべてを描写することは人間には不可能だ。だから我々は身近なところからしか何事もできない。
見たものが絵画だったとして、その絵画の価値は誰が決めるのだろう。美術館に備わっていることだけで、その絵画はある一定の評価を受けている。だがぼくらが感じているのはなんだろうと思う。誰しもが高い評価を与える絵画。それらは何を意味しているのだろうか。そこには何か特別な力が働いたことのように思われる。時代の流れ、つまり時間。収集家の審美眼。だがどれもはっきりしたことは言えそうにない。
ヴァン・ゴッホは生前、売れた絵は一枚きりだった。それも弟のテオを介してである。今日の高い評価は何故生まれたのだろう。ぼく自身、ゴッホの絵は好きで展覧会にも足を運んだが、この天才ゴッホはなぜに生前はまったく評価を受けなかったのだろうか。ゴーギャンからは評価を得たが、その時代の美術を扱う画商からは評価を得られなかったのだろうか。
ぼくは観てきたもの、聞いてきたもの、所謂体験したことを言葉へと変換し続けてきた。それはありとあらゆるものから得たものだ。そこで何かを感じ(意識されないまでも)何かを文字として表す。また普段の会話も得たものから囁かれる。自分を中心として表現されるが、それらすべては自分以外の何者か何物かによって得られたものの再構成であったのだ。
人にはそういう部分があり、それをぼくらは普段何気なく使っているのだ。自然な表現をぼくらは口で文章で身体で表現し、意識に昇ることなくあり、それらをぼくらは日常と呼んでいる。しかしながらそれらは人間世界を構築しているひとつのエネルギー体だといえよう。
人間の尊厳というよりも人間の生命の有り様が、世界中の人々と繋がることを自然と認識せずに行っているのだ。これらの不思議は人間の本質を超えた何か人間にしか備わっていない崇高な能力だと思われる。人一人が世界という人間の生命体の一部で、人間種という生き物を存続させてきた。生命の生き死には何万何十万と毎日あるだろうが、それらは云ってみれば、世界の変化を意味する。
人間の一人はひとつの世界で、一人失うとその世界は実は変わってしまっているのだ。それらにはぼくらは気づくことはない。だが決定的に違った世界を我々は感じることなく生きているのだ。ぼくらは意識に昇る事象はそう多くはないのだ。言動もまるで決められたようにシステマティックに行われている。それが複雑な訳は個々人が物理的距離の中に存在し、個別であるがゆえに複雑で多様な世界を構成するのだ。
また日常の文字やそれに纏わる会話などすべてが、ある種のエネルギーを持っている。そのエネルギーとは命であるから、命がある者は命をある者に何らかの影響を与える。
どんな優秀な人でも多くの人から影響を受けたからこそ優秀となり得たのだ。生まれつき優秀だったわけではない。多くの人、物から影響を受け、その頻度、つまり感受性が高まったのだ。それ故、人から見てあの人は優秀であると言われたりすることがあり得る。どれだけ人のエネルギーに接することができたか、そのもらい方によって人は決まってくるのかもしれない。
人が人であることに於いて 穴田丘呼
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