
瞑想哲学 序章 大自然の倫理
私たちが「倫理」という言葉を耳にするとき、多くの場合それは人間社会の規範を意味しています。
嘘をつかないこと、互いを尊重すること、他者を傷つけないこと。
それらは人間という存在が、互いに共存し、秩序を維持するために編み出した約束事であります。
しかし、視線を社会から一歩外へと移し、大自然に目を向けたとき、そこに人間的な倫理は存在しません。
ライオンは飢えを満たすために獲物を狩り、シマウマは生きるために草を食べる。
強きものが弱きものを喰らうことは、人間から見ると残酷でありますが、大自然の中では生命の連鎖の為に欠くことのできない必然でもあります。
自然界に善悪は存在しません。
そこにあるのは、ただ循環と均衡の力学です。
では、この無言の秩序を「倫理」と呼ぶことはできるでしょうか。
人間が考える人間社会の倫理とは違う、もっと根源的な規範。
それは、生命が生命を支え合い、全体として調和を保つこと。
奪うことも与えることも、死すらもその調和の一部として受け入れられる。
人間の死も例外ではありません。
大自然は常に「全体」を見ています。
個体の苦しみや幸福を超えて、大自然の循環が続くことこそが大切なのです。
ですから人間社会だけと言う狭い範囲のものではありません。
この大自然の倫理は、人間の言葉で言えば 「調和・バランス」 に近いと思います。
それは道徳的な「正しさ」ではなく、存在を繋ぎとめる為に「必然」であると考えます。
要するに、全ての生命を含めた大自然の調和とバランスであり、全ての生命が存在してゆく術なのです。
私は、日々の瞑想の中で、大自然と調和することにより、エイブラハムで言う「宇宙の法則」を、人間が使う「倫理」と言う言葉と重ね合わせて、「大自然の倫理」として捉えています。
私の人生哲学は、この調和とバランスが根底にあります。
たとえば、対人においても、調和とバランスが大変重要なのです。
そして、幸福と言うものを掴むためにも、かなり重要になります。
エイブラハムで言う、「波動を整える」と同意だと思います。
私の瞑想は、当初の瞑想法に、「ジョセフ・マーフィーの法則」「量子力学」そして「エイブラハムの宇宙の法則」が加わり、現在の瞑想法と進化しました。
「進化」とはおこがましいかもですが、私はそう信じています。
今日から、瞑想による大自然との調和により得た哲学をシリーズとして始めたいと思いますので、見つければ眼を通して頂ければ大変うれしいです。
どうか皆様よろしくお願い致します。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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