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四人の影を踏む ― OasisとThe Beatles

    2016年、ポール・マッカートニーは英国の音楽誌『Q Magazine』のインタビューで、オアシスが犯した最大の過ちは、ビートルズより大きな存在になると宣言したことだ、と語った。

    質問は、ブリットポップ全盛期にオアシスがビートルズの模倣だと評されていたことについて、ポール自身はどう思っていたかというものだった。

    ポールは模倣だという見方を否定した。オアシスは若く、新鮮で、良い曲を書いていたと評価している。
    そのうえで、彼らの最大の過ちはビートルズを超えると宣言したことだったと語った。
    超えること自体は構わない。しかし、一度そう口にすれば、その後の活動はすべて、その言葉に照らして評価されることになるという。

    この回答には、質問そのものから少し距離を取ったところがある。
    ポールはオアシスの音楽的な独立性を認めながら、彼らの創作ではなく、自己評価の表明を問題にした。

    世間では「ポールにしか言えない」「絶対的強者の余裕がある」といった反応が見られる。大口を叩いた後輩に対する、達観した先輩の忠告として受け取られているのだろう。

    しかし、そこにはもう少し複雑な関係がある。

    オアシスはビートルズを超えると宣言した時点で、自分たちの価値を測る基準としてビートルズを選んでしまった。
    どれほど優れた作品を発表しても、それがビートルズを超えるものだったかという問いがついて回る。

    しかも、比較された側には、その比較自体を論評する余地がある。
    ポールは挑戦を受けて立つ必要がない。オアシスを称賛しながら、その発言を過ちだったと評することができる。

    達観した忠告として成立しながら、同時に、自分たちの歴史的な優位性を示す発言としても機能している。
    相手を否定することなく、相手が持ち出した比較を利用して、評価する側に立つことができるのである。

    それも、模倣疑惑を否定した直後に。

    先人を超えるという野心

    1994年9月号の『Guitar Magazine』に掲載されたインタビューで、ノエルは、ビートルズより大きくなろうとしないのであれば、音楽は単なる趣味になってしまうという趣旨を語っている。
    先人から影響を受けるだけでなく、彼らを上回ろうとする意思が必要だという考えも示していた。

    ノエルはビートルズ好きを公言しており、彼らから受けた影響も隠していない。
    音楽が過去の蓄積の上に成り立つことを理解しながら、その先へ進もうとしていた。

    偉大な先人を称賛するだけなら、客席から拍手を送る立場でもできる。
    しかし、同じ舞台に立つ創作者にとっては、憧れだけでは済まない。
    自分もそこへ到達し、さらに先へ進むという野心が必要になることもある。

    ノエルの発言には、そうした創作者としての自負があったのだろう。

    興味深いのは、同じインタビューで彼が語った作曲観である。
    ノエルはバート・バカラックやジミー・ウェッブを引き合いに出し、誰もが口ずさめる普遍的な楽曲を書きたいと語っている。

    複雑さや難解さを追求するのではなく、多くの人に親しまれ、長く記憶に残るメロディを作ること。
    その理想は、オアシスの楽曲にもよく表れている。

    ノエルがビートルズを超えたいと考えていたからといって、ビートルズと同じ方法で音楽の可能性を広げようとしていたとは限らない。
    彼が目指したのは、ビートルズに匹敵する普遍的な楽曲を生み出し、同じほど大きな存在になることだったとも考えられる。

    ポールとノエルの発言も、野心の是非をめぐって対立しているわけではない。ノエルが創作者として必要だと考えた野心を、ポールは否定していない。ただ、それを公言したときに生じる不利益を指摘している。

    もっとも、ノエルがどのような音楽を理想とし、実際に何を生み出したかという問題は、この二人のやり取りだけでは見えてこない。

    時代の異なる音楽を比較すること

    ビートルズとオアシスのどちらが優れているのか。そうした比較は、そもそも同じ条件で成立していない。

    ギャラガー兄弟が1960年代に活動していたとしても、現在知られているオアシスの楽曲をそのまま作ることはできなかっただろう。彼らが影響を受けた音楽の多くは、まだ存在していなかったからだ。

    逆に、ジョン・レノンやポール・マッカートニーが1990年代に若手アーティストとして登場していたなら、ビートルズとは異なる音楽を作っていたはずである。
    パンク、ニューウェーブ、オルタナティブロック、電子音楽など、彼らの時代には存在しなかった表現が、創作に影響しただろう。

    音楽家の才能は、時代から独立して存在するものではない。
    何を聴き、何を学び、どのような技術や文化に触れたかによって、作品の姿は変わる。

    商業的な成功も同様である。

    ストリーミングの月間リスナー数や再生回数を持ち出し、どちらが偉大かを論じる意見がある。
    しかし、活動を終えたバンドと、再結成公演などによって新しい注目を集められるバンドでは、聴衆に接触する機会が違う。

    配信時期、ファンの年齢構成、推薦システムなども数字に影響する。
    現在の人気を示す指標が、そのまま歴史的な功績の尺度になるわけではない。

    楽曲の好みなら、個人の感性で判断できる。
    一方、音楽史に何を付け加えたかという問題は、作品の成立過程と、その時代に何が新しかったのかを見なければならない。

    ノエルの才能やオアシスの成功を認めることと、ビートルズの音楽史上の功績を評価することは、両立する。

    開拓するビートルズ、選び取るオアシス

    ビートルズとオアシスの創作には、音楽的な蓄積との向き合い方に大きな違いがある。

    ビートルズは開拓し、オアシスは選び取った。

    ビートルズも、何もないところから音楽を生み出したわけではない。
    アメリカのロックンロール、R&B、ブルース、カントリー、ミュージックホールなど、多くの音楽を吸収していた。

    初期にはそうした音楽の影響が色濃く表れている。
    しかし、活動を重ねるにつれて、作曲や編曲、録音技術そのものを変化させていった。

    『Rubber Soul』『Revolver』『Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band』『Abbey Road』へ至る変遷には、成功した方法を維持するよりも、新しい表現を探ろうとする姿勢が見える。

    『Tomorrow Never Knows』では、反復するリズムにテープループや加工された声を重ね、従来のロックバンドの演奏とは異なる音響を作り出した。

    一方『When I'm Sixty-Four』では、クラリネットを用いたミュージックホール風の編曲によって、古風で軽妙な世界を描いている。

    『Eleanor Rigby』の弦楽八重奏や『A Day in the Life』の管弦楽による上昇音型も、楽曲ごとに異なる発想があり、その発想に合わせて構造や音響を変えている。

    深刻な題材にも、滑稽な表現にも踏み込んだ。新しい録音技術を使うこともあれば、過去の音楽様式へ立ち返ることもあった。
    ビートルズの創作は、特定の方向に限定されていなかった。

    一方、オアシスが登場した1990年代には、ロックはすでに多くの様式を獲得していた。

    ビートルズ、グラムロック、パンク、英国のギターポップなど、先人が切り開いた音楽を、ノエルは選び取ることができた。

    その中から自分の感性に合うものを組み合わせ、優れたメロディと結びつけた。ノエルの作曲能力が高く、オアシスの独自性が成立していることに疑いはない。

    ただし、既存の様式を洗練させることと、表現の可能性そのものを広げることは、異なる仕事である。

    『Definitely Maybe』には『Rock 'n' Roll Star』『Live Forever』『Supersonic』など、力強い旋律と厚いギターサウンドを結びつけた楽曲が並ぶ。

    続く『(What's the Story) Morning Glory?』では、『Wonderwall』『Don't Look Back in Anger』『Champagne Supernova』など、より幅広い聴衆に届く楽曲が生まれた。アコースティックギターやピアノ、弦楽器も使われ、音楽的な幅は広がっている。

    しかし、その変化は、バンドの作曲方法や美学を根本から作り替えるというより、ノエルの持つ旋律の強さを、より大きく、効果的に届ける方向へ進んだものに見える。

    その選択は、誰もが歌える普遍的な楽曲を書きたいという本人の理想とも一致している。

    オアシスが確立した様式を維持したことには、明確な作曲上の価値観があったのだろう。
    だからこそ、その仕事とビートルズの全方位的な探究との違いは、単なる能力の優劣には還元できない。

    楽曲の個性と、アーティストの一貫性

    ビートルズの楽曲は、旋律の動かし方、リズム、和声、構成が非常に多彩である。
    『Yesterday』『Eleanor Rigby』『Penny Lane』『Come Together』を並べても、同じバンドの作品とは思えないほど性格が違う。

    それでいて、カバーによって歌い手や編曲が変わっても、楽曲そのものの個性が失われにくい。

    ABBAやカーペンターズにも、似た魅力がある。

    ABBAは華やかなダンスナンバーから哀愁のあるバラードまで、旋律と楽曲構成の幅が広い。
    カーペンターズは外部の作曲家による作品も多いが、リチャード・カーペンターの編曲とカレンの歌唱によって、異なる楽曲を独自の音楽世界にまとめ上げた。

    曲ごとに異なる個性がありながら、アーティストとしての一貫性がある。

    オアシスにも優れた楽曲は存在する。
    ただ、ノエルのメロディには一定の作曲上の癖があり、ギターの厚い音響やリアムの歌唱も相まって、楽曲同士の印象が似通いやすい。

    『Live Forever』と『Wonderwall』では編成も曲調も異なるが、平明な旋律を反復によって印象づけ、聴衆が一緒に歌える大きな流れを作る点には共通性がある。

    そこにはノエルの強みがある。
    一方で、ビートルズのように、次の曲で何を始めるかわからないという予測不能さは、オアシスには比較的少ない。

    異なる曲を作っても一貫した個性が見えることと、一貫した様式の中で優れた曲を生み出すこと。
    両者は似ているようで、音楽的な射程が異なる。

    音楽に没頭できた時代と、選択肢に囲まれた時代

    この創作上の違いには、世代による情報環境の変化も関係しているのではないか。

    ビートルズが育った1950年代の英国にも、音楽以外の娯楽は存在した。
    しかし、現在と比較すれば、若者が日常的に接する情報や文化的な選択肢は限られていた。

    ジョンやポールはレコードを聴き、曲を覚え、演奏し、作曲を重ねた。ハンブルク時代には長時間の演奏を繰り返し、膨大な楽曲を身体に染み込ませていった。
    音楽を聴くことと演奏すること、新しい曲を作ることが密接に結びついていた。

    限られた楽曲を何度も聴き、構造を覚え、自分の演奏に取り込み、さらに変形させる。
    その反復には、多くのジャンルを知ることとは異なる蓄積がある。

    ギャラガー兄弟が育った1970年代から80年代には、ロックだけでも数多くの様式が確立されていた。
    音楽以外の若者文化も多様化し、音楽家は豊かな選択肢に囲まれるようになっていた。

    それは創作上の恩恵である一方、既存の様式を利用するだけでも、自分の音楽を成立させられる環境でもあった。

    情報が豊富になれば、それだけ表現が豊かになるとは限らない。
    さまざまな音楽を知っていることと、それぞれの音楽がどのように成立しているかを理解し、自分の技術として消化することは別だからだ。

    ビートルズには、ジョン、ポール、ジョージという異なる作曲家の存在も大きかった。三人の関心や作曲上の個性は必ずしも一致せず、そこにジョージ・マーティンの音楽的な知識と技術が加わった。

    異なる才能が互いに刺激し合い、ときに競い合う環境は、一人の作曲家が持つ美意識だけでは到達しにくい領域を生み出したのだろう。

    ビートルズが特異だったのは、音楽的な選択肢の少ない時代に活動したことよりも、当時得られたものを徹底して吸収し、そこから新しい表現を作り続けたことにある。

    現代の音楽文化と、見えなくなる開拓者

    音楽文化は、異なる文化との接触によって発展してきた。

    ロックもヒップホップも、複数の音楽的な伝統が交わる中で成立している。
    文化的な純粋性に固執すれば、外部からの刺激によって生まれる表現の可能性まで失われてしまう。

    しかし、異なる文化を取り入れることと、その文化が築いてきた功績を自分のものとして扱うことは違う。

    現代の音楽産業では、制作技術の発達と分業化によって、既存の音楽を再構成することが容易になった。楽曲だけでなく、歌唱スタイル、ダンス、ファッション、映像演出までを統合し、世界市場に向けて提供できる。

    K-POPは、そうした制作と流通の仕組みを高度に発展させた例の一つである。
    ヒップホップ、R&B、ダンスミュージック、ストリートファッションなど、先行する文化から多くの要素を取り入れ、洗練された商品として提示している。
    その制作能力や市場開拓の成果には独自の価値があるが、既存の文化を効果的に再構成した功績と、その文化を生み出した功績は区別されるべきだろう。

    K-POPによる黒人音楽文化の借用について、文化的な功績の扱いをめぐる批判が起きてきたのも、その境界が曖昧になるためである。
    法的な盗用に当たらなくても、文化的な来歴や先人の貢献が十分に認識されているとは限らない。

    さらに、後から登場した作品が大きな成功を収めれば、その表現の代表者として認識されることもある。
    元の文化を知らない聴衆にとっては、現在流行している作品こそが、その表現の原型に見えてしまう。

    若い頃に最初に親しんだ音楽は、その後の美意識の基準になりやすい。
    例えば、K-POPからR&Bに親しんだ聴き手が、後になって先行する米国のR&Bを聴いても、最初に親しんだ音楽の方を洗練されていると感じることは十分にあり得る。

    現在は過去の音源に容易にアクセスできるが、それだけで音楽史の変遷を理解できるわけではない。
    当時何が新しかったのか、どのような表現が先に存在したのかを知らなければ、現在の完成された作品だけが評価の対象になる。

    再生数や話題性は可視化される一方、その表現を成立させた歴史は見えにくくなる。

    昨今『ジョジョの奇妙な冒険 Part7 スティール・ボール・ラン』のED曲への起用で賛否を呼んだ千葉雄喜の音楽にも、現代の音楽消費を考えるうえで興味深い特徴がある。

    『チーム友達』に代表される、短い言葉の反復、単純なリズム、キャラクター性を強く打ち出した表現は、即座に印象を残しやすい。
    そうした性格は、話題となったED曲を含め、彼の楽曲にも通じるものがあるように感じられる。

    しかし、覚えやすさと、音楽としての表現の豊かさは必ずしも一致しない。

    ヒップホップでは、韻やアクセント、声の強弱、拍との関係、言葉の置き方が表現そのものを形作る。
    少ない言葉の反復であっても、その構造や歌い手の経験、思想によって複雑な意味を持つことがある。

    単純な言葉が、単純な表現になるとは限らない。

    千葉雄喜の楽曲については、そうした表現の奥行きよりも、フレーズのわかりやすさやキャラクター性が前面に出ている印象が強い。
    独特の語感によって曲を成立させていても、そこから音楽的な発見や、言葉によって掘り下げられた世界がどれほど生まれているのかについては疑問が残る。

    広く知られることと、表現そのものに新しい価値を加えることは、異なる成果である。

    もちろん、オアシスの創作をこれと同列に扱うことはできない。
    ノエルは自ら楽曲を書き、普遍的なメロディを生み出す作曲家として実績を残している。

    しかし、既存の音楽的な蓄積を利用できることと、その蓄積をどこまで発展させられるかという問いは共通している。
    新しい時代に登場したというだけで、その音楽までが新しいとは限らないのである。

    全方位へ広がるビートルズと、掘り進めるレディオヘッド

    オアシスと同じ1990年代の英国から登場しながら、異なる創作の方向へ進んだバンドにレディオヘッドがいる。

    初期にはギターロックを中心とした音楽を作っていた彼らは『The Bends』『OK Computer』を経て、『Kid A』では電子音楽や実験的な音響へ大きく舵を切った。

    この変化は、単に新しいジャンルを取り入れたことでは説明できない。

    トム・ヨークは、自分の表現したいものに対して、従来の方法が十分でなくなれば、その方法自体を変えていく。

    『The Bends』で見られたギター中心の表現は、『OK Computer』では複雑な構成と音響によって変容し『Kid A』ではギターや従来の歌唱形式が中心である必要さえなくなった。

    それでも、作品を貫く関心には一貫したものがある。不安、疎外感、孤独、現代社会やテクノロジーへの違和感。
    トム・ヨークの音楽は、それらをさらに深く表現するために変化してきたように見える。

    ただし、その探究の射程はビートルズとは異なる。

    ビートルズは実に雑多である。恋愛、日常、幻想、皮肉、郷愁、滑稽さ、社会への関心など、多様な感情や題材を扱い、それぞれに異なる音楽的な形式を与えている。

    深刻な作品もあれば、童謡のような曲もある。新しい音響に踏み込むことも、古風なポップソングを作ることもあった。

    ビートルズは全方位へ広がり、トム・ヨークはひたすら深く掘り進める。

    レディオヘッドの音楽は作品ごとに姿を変えても、トム・ヨークの精神世界から大きく離れることはない。
    その関心を追究するために、自らの表現を壊し、作り直してきた。

    オアシスはまた別の方向を選んだ。

    ノエルは自分たちの得意な様式を確立し、その中で楽曲の完成度を高めた。
    誰もが口ずさめる普遍的な楽曲を作るという理想に照らせば、その選択には一貫性がある。

    同じ時代に豊かな音楽的蓄積を利用できた二組が、ここまで異なる創作の道を歩んだことは興味深い。

    ブラーもまた、英国のポップスやロックの歴史から多くを選び取り、それらを時代の感覚に合わせて再構成したバンドだった。
    デーモン・アルバーンはその後、Gorillazなどの活動を通じて異なる音楽へと関心を広げたが、外部の音楽から受ける影響を柔軟に取り込む性格は一貫している。

    多くの音楽を知ること自体が、独創性を保証するわけではない。
    そこから自分の表現をどう変えるかによって、創作の行方は分かれていく。

    オアシスの音楽と、ギャラガー兄弟の尊大さ

    オアシスに対して感じる違和感は、楽曲と本人たちの言動との間にもある。

    オアシスの音楽はギターの音が厚く、リアムの歌唱には独特の気だるさと反抗的な雰囲気がある。
    しかし、楽曲そのものは意外なほど聴きやすく、安定している。

    ノエルのメロディは素直で、サビの展開もわかりやすい。
    ロックとしての力強さはあるが、音楽的な緊張や危うさを積極的に追求するタイプではない。
    むしろ、耳当たりのよいロックである。

    たとえば、フー・ファイターズのように、演奏の熱量を高め、リズムの推進力や静と動の切り替えによって感情を直接的に表現するバンドとも違う。

    ノエルの楽曲にはロマンチシズムがあり、感傷的な表現も少なくない。
    それなのに、ギャラガー兄弟の態度は皮肉っぽく、常に少し距離を取っている。

    情熱がないわけではない。むしろ、それを正面からさらけ出すことに、どこか照れや抵抗があるように感じられる。
    ある種のツンデレ的な気取りと言ってもよい。
    英国ロックには、感傷を皮肉や不遜な態度で包む伝統がある。オアシスもその延長線上に位置づけられるだろう。

    ただ、ギャラガー兄弟の場合は、その態度と自己評価の大きさが、音楽そのものとの落差を生んでいる。

    彼らは挑発的で、尊大で、ビッグマウスである。ところが、楽曲自体は比較的保守的で、聴衆にとって親しみやすい。

    音楽における冒険心よりも、本人たちの言動の方が過激に見えるのである。

    もちろん、ノエルはその親しみやすさを重視していた。普遍的なメロディを書くという作曲観に照らせば、過度な実験によって楽曲の魅力を損なわないことにも意味がある。

    それでも、ビートルズを超えるという宣言と、確立したオアシスの様式を守り続ける姿勢との間には、奇妙な隔たりがある。

    ビートルズは、メンバーそれぞれに強い自負や癖がありながら、音楽においては実に自由だった。甘いラブソングも、滑稽な題材も、実験的な音響も、同じバンドの作品として成立させてしまった。

    オアシスには、自分たちらしい格好よさを維持することが、かえって表現の範囲を狭めているようなところがある。

    ノエルの作曲能力を考えれば、もっと異なる方向へ進む可能性もあっただろう。
    しかし、オアシスとして獲得した音楽的な個性を大きく変えることはなかった。

    その一貫性は彼らの強みであり、同時に限界でもあったように思える。

    先人への敬意と、創作者としての自己評価

    ノエルがビートルズを超えると宣言した背景には、先人を敬愛しながら、その先へ進もうとする野心があった。

    過去の偉業を絶対視し、そこを超えることなどできないと考えていたなら、そもそも創作者として同じ舞台に立とうとはしなかったかもしれない。

    ただし、ノエルが重視していたのは、誰もが口ずさめる普遍的な楽曲を書くことだった。

    彼はその理想を、オアシスの音楽でかなりの程度実現した。
    『Live Forever』『Wonderwall』『Don't Look Back in Anger』などは、発表から長い年月を経ても多くの人に歌われ続けている。

    その成果を、創作上の冒険が少ないという理由だけで軽視することはできない。

    一方、ビートルズが音楽史に残したものは、普遍的なヒット曲だけではなかった。彼らは作曲や編曲、録音の方法を次々に変え、後続の音楽家が利用できる表現の選択肢そのものを増やしていった。

    オアシスの功績を認めても、この違いは残る。

    ノエルがビートルズを超えようとしたとき、何をもってその到達を測ろうとしていたのだろう。

    誰もが知る楽曲を書くことなのか。巨大な聴衆を獲得することなのか。それとも、音楽表現の可能性を広げ、後に続く創作者の選択肢を変えることなのか。

    ノエルは先人の影響を理解しながら、そこから自分の美意識に合う音楽を選び取った。その選択によってオアシスという個性を確立し、大きな成功を収めた。

    しかし、ビートルズという存在の大きさは、人気や楽曲の普遍性だけでは説明できない。先人から受け継いだものを変形し、それまでになかった表現へと発展させたことに、彼らの歴史的な功績がある。

    ノエルが掲げた野心と、ノエル自身が価値を置いた音楽との間に矛盾があるとは限らない。むしろ、彼は自分の理想に忠実だったともいえる。

    ただ、その成果をビートルズとの比較によって測ろうとすると、普遍的な楽曲を生み出した功績と、音楽の可能性を拡張した功績が、同じ物差しに置かれてしまう。

    四人の影

    ポールは、オアシスの才能を認めている。模倣だとも言わなかった。
    それでも、彼らの最大の過ちはビートルズを超えると宣言したことだと語った。

    ノエルにとって、その宣言は創作者としての野心の表明だったのだろう。
    憧れの対象をただ称賛するのではなく、自分もそこへ到達しようとする意思があった。

    一方、ポールは、その野心を否定することなく、発言の軽率さを指摘できた。

    比較された側は、自分たちの功績を改めて証明する必要がない。
    相手の才能を称賛し、野心を認め、その宣言が招いた結果まで論評できる。

    ノエルはビートルズの音楽を愛し、そこから多くを受け継いだ。
    独自の楽曲を生み出し、巨大な成功を収めてもなお、その関係は消えなかった。

    そして、ビートルズを超えると宣言したことで、彼は自分の音楽がどれほど遠くへ届いたのかを、四人の残した影の中で問われ続けることになった。


    補遺 私が創作に求めるもの

    私が音楽に求めるものは、完成された様式の心地よさだけではない。
    音楽によって、どこまで異なる世界を描けるのか。
    既存の表現をどこまで変形し、未知の領域へ踏み込めるのかということに、強く惹かれる。

    その意味で、ピンク・フロイド、レディオヘッド、Museには、共通する創作の精神を感じている。

    ピンク・フロイドは、音楽を一つの巨大な世界として構築した。
    『The Dark Side of the Moon』や『The Wall』では、個々の楽曲だけでなく、音響や構成、物語、社会批評が結びつき、アルバム全体が一つの芸術作品として成立している。
    音楽の中に思想や物語を組み込み、聴く者をその世界へ引き込んでいく。

    レディオヘッドは、その系譜をより内面的な方向へ進めたように思える。
    トム・ヨークは、不安や疎外感、社会やテクノロジーへの違和感を、従来のロックの形式に収めようとはしなかった。
    表現したいものに合わせて、音楽そのものを変えていく。ギターや歌唱のあり方さえ変化させながら、ひたすら一つの方向を掘り進めている。

    Museは、そうした音響的、思想的な要素を、劇的なエネルギーとして外側へ解き放つ。
    マシュー・ベラミーのクラシック音楽への素養、技巧的なピアノやギター、過剰なまでの音響演出には、壮大さと狂気、美しさが同居している。
    社会や権力への批評も、単なる歌詞の主張にとどまらず、音楽の構造や演出と結びついている。

    ピンク・フロイドは世界を構築し、レディオヘッドはその深部を探り、Museはそこにある緊張を外へ爆発させる。
    それぞれ方法は異なるが、いずれも既存のロックの様式に収まることを目的としていない。

    一方、オアシスの壮大さは、多くの人が同じメロディを共有することから生まれる。巨大な会場で観客が一斉に歌う光景は、その音楽が持つ普遍性をよく示している。ノエルが理想とした、誰もが口ずさめる楽曲の到達点でもあるのだろう。

    しかし、私が創作に期待しているのは、そのような一体感や親しみやすさとは少し異なる。

    美しいものには不穏さが潜み、壮大なものには孤独がある。
    音楽は必ずしも聴き手を安心させる必要はなく、ときには不快さや違和感を残してもよい。
    その表現によって、それまで気づかなかった感情や世界の見え方に触れられることの方が、私には重要である。

    ビートルズに惹かれる理由も、そこに通じている。
    彼らは一つの美学を深めるだけでなく、まったく異なる表現へ次々に踏み込んだ。軽妙さも深刻さも、滑稽さも実験性も、同じ創作の中に存在している。

    私にとって創作の魅力は、完成された形式を繰り返すことよりも、その形式によって何ができるのかを問い続けるところにある。
    受け継いだものを大切にすることと、その先に進むことは矛盾しない。

    むしろ、先人が何を成し遂げたのかを深く理解するほど、まだ誰も踏み込んでいない領域が見えてくるのではないか。

    そこにこそ、私が創作に求める自由がある。

     
     

    penry

     
     
    カカポのように舞い、キーウィのように刺すー 文芸批評と社会小論。多声と沈黙が交わる静かな断片を届けます。 中の鳥はチップを投げてもらえると餌にありつけます。 英語版(Medium)はこちらから https://medium.com/@bulbulbeads

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