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「私、薬剤師なんで。 〜桜ノ町薬局、本日も平常運転〜」第1話 薬は、薬の話じゃない

    あらすじ

    「私、薬剤師なんで。」

    東京郊外、商店街の桜ノ町薬局。管理薬剤師の柏木千晶(33)は、処方箋の向こうにある生活を見逃さない。夜中に階段を降りる老人の足元、三冊に分かれたお薬手帳、閉まったままの蕎麦屋——薬を渡すだけが、仕事ではないからだ。

    だが千晶には、大手チェーン勤務時代、ある出来事から逃げるように現場を離れた過去がある。

    駅前に迫る大手ドラッグストアの出店。赤字の施設在宅。迷いながら育つ新人薬剤師と登録販売者。小さな薬局の一日一日を積み重ねながら、千晶は問われ続ける。あなたはなぜ、ここにいるのか。

    これは、一度逃げた薬剤師が「ここで続ける」を選び直すまでの物語。


    白い薬歴画面が、まぶたの裏に立ち上がる。

    保留音。蛍光灯の白。番号札の赤い数字。排紙のかすかな震え。千晶は処方箋と薬袋を見比べ、右下の余白を指先で押さえていた。

    確認したはずだった。

    印鑑が紙に触れる。小さな音のはずなのに、胸の奥だけで大きく響く。遠くで、誰かが「次の方」と言った。顔は上がらない。

    朝が来るたび、その白さだけが先に目を覚ます。

    *

    柏木千晶(かしわぎ・ちあき)は、桜ノ町薬局の裏口を開けた。

    消毒用エタノールと紙の匂い。会計と保険請求を処理するレセコンが奥で低く唸り、受付プリンターが試し打ちの紙を一枚吐く。

    (梅雨と処方箋は、どっちも止んでくれない)

    月曜の朝は、雨上がりの匂いから始まる。アパートから自転車で12分。商店街を抜けてくる間に水たまりを三つ踏んで、クリーニング店の前では店主が濡れた段ボールを畳んでいた。白衣の袖に腕を通すと、身体がいつもの位置へ戻っていく。

    試し打ちの紙は、まだ誰の名前も背負っていない白さで、排紙口に半分だけ残っていた。千晶はその紙を抜き、裏返して電話用のメモ束へ入れる。空欄の紙は、朝のうちはただの節約だ。けれど昼前には、患者の訴え、医師への確認、折り返しの時間、家族へ伝える一言がそこに並ぶ。薬局の一日は、白い紙の端から動き出す。

    待合の椅子を拭くと、雨で湿った傘立ての底が鈍く光った。誰かが傘を置く前から、水の跡だけが先に待っている。

    壁の掲示板には、開設許可証と並んで小さな札が掛かっていた。

    ——管理薬剤師 柏木千晶。

    毎朝視界に入る、自分の名前。慣れたはずなのに、椅子を拭く手の高さから見上げると、ほんの少し他人の名前に見える。

    「おはようございます」

    「おはよう、柏木さん。今日、内科の予約、多いわよ」

    福田芳江(ふくだ・よしえ)が、市販薬の棚の前で絆創膏とマスクを補充しながら言う。棚の乱れと患者の機嫌を、だいたい同じ精度で読む人だ。

    「朝から景気のいい話ですね」

    「景気はよくないけど、早めに知っておくのは大事」

    (そういう正論で今日も殴ってくる)

    ここに来るのは、処方箋を持っている人だけではない。風邪薬を選びに来る人、マスクだけ買っていく人、湿布の場所を聞きに来る人もいる。桜ノ町薬局は、調剤と物販と相談が、ひと続きの空間に置かれている場所だった。

    受付カウンターでは、浜口柚衣(はまぐち・ゆい)がコピー機の前で眉間に皺を寄せている。白衣の胸で、「登録販売者 浜口」の名札と小さな「研修中」のシールが一緒に揺れる。

    「ゆいちゃん、また紙詰まり?」

    「紙詰まりじゃないんです。最後まで出る気はあるんです。でも、最後の5センチで諦めるんです」

    「コピー機の人生相談は勤務時間外にして」

    奥では、二代目オーナーの楠山啓一郎(くすやま・けいいちろう)がPCに向かっていた。白衣の胸ポケットに、黒、赤、青のボールペンが三本。画面には細かい数字の並んだ表が開いている。

    「楠山さん、点数表マスタ、山は越えましたか」

    「山は越えた。沼が残ってる」

    「届出ですか」

    「届出と、俺の腰」

    「湿布ならOTC棚にあります。オーナー割引はありません」

    楠山は答えず、画面の数字へ目を戻す。数字の中身を、千晶は聞かない。聞かなくても、背中の丸さでだいたい分かる。

    裏口が勢いよく開いたのは、その直後だった。

    「すみません、遅刻してません!」

    春日樹(かすが・いつき)が白衣を抱えて飛び込んでくる。若手薬剤師2年目。

    浜口がコピー機の前から顔を上げた。

    「柏木さん、判定お願いします」

    「午前8時50分前なので、記録上は間に合ってる」

    「記録上って言い方、怖いです」

    「薬剤師は記録が命」

    浜口が真顔で頷く。

    「春日さん、ギリギリですよ」

    「ゆいちゃんに言われると、今日ほんとに危なかった感じがします」

    「感じじゃなくて事実」

    朝礼は短い。長くすれば、開局に食い込む。

    「今日は内科の予約が多いそうです。算定で迷ったら、その場で止めてすぐ相談してください。あとで直すより、止めるほうが早いです」

    春日が小さく「はい」と言い、浜口は端末の横に付箋を貼る。楠山が何も言わずに頷いた。

    白衣の袖を直しながら、春日が千晶のほうを見る。

    「柏木さん、休日何してたんですか」

    朝礼の空気が、半歩だけ止まった。

    「33独身、薬包紙折ってますけど、なにか」

    沈黙、三秒。四秒目に浜口が吹き出す。

    「薬包紙、休日に折るんですか」

    「折る。散剤を包む、白い小さな紙。あれ、無心になれる」

    「趣味なんですか」

    「趣味って言うと急に悲しくなるから、精神統一ってことにしてる」

    福田が肩を揺らした。楠山は表情を変えずに口を挟む。

    「柏木、薬包紙より、お前の有給消化のほうが心配だ」

    浜口が二度目に吹き出し、春日だけが、なぜか感心した顔をしている。

    (そこ、感心するところじゃない)

    午前9時。

    自動ドアが開き、最初の患者が入ってきた。受付で浜口が処方箋を預かり、福田が端末を叩く。奥では春日が薬棚の前で、箱の名前と処方箋の文字を見比べている。

    「春日、そっちの処方、日数もう一回見て」

    「はい。14日分、朝食後、4剤です」

    「よし。鑑査台へ」

    9時半には梶浦七実(かじうら・ななみ)も出勤して、鑑査台に入った。

    「おはよう、柏木ちゃん。今日は混むんだって?」

    「福田さん情報です。覚悟してください」

    桜ノ町内科クリニックの午前ピークが近づくにつれ、待合の椅子が一つずつ埋まり、プリンターが紙を吐く間隔が短くなる。

    「お電話ありがとうございます、桜ノ町薬局でございます」

    浜口の電話の声が一オクターブ上がり、福田はマイナンバーカードの確認と会計の間を滑るように行き来する。マスクだけ買っていく常連が、棚の前で福田に会釈した。処方箋だけではないのが、この店の朝だ。

    いつもの一日が始まる。いつものを、ちゃんとやる。それが今日の私の仕事。

    午前10時15分。

    自動ドアの開く音に、濡れた傘のしずくが一つ混じった。

    千晶は薬歴を開く。薬歴は患者ごとの服薬記録で、薬局のカルテみたいなものだ。薬の内容だけでなく、過去に確認した体調や生活上の注意も残しておく。

    (菅野さん。三週間ぶり)

    7年来の常連。処方箋とお薬手帳はきちんと持ってくるが、自分から体調を話す人ではない。こちらが持っているのは、処方の間隔と、毎回きちんと持参されるお薬手帳の記録くらいだ。

    視線を受付へ向けると、福田の手が補充の箱の上で一瞬遅れ、春日の顔がわずかにこわばるのが見えた。誰もが、菅野宗明(すがの・むねあき)の機嫌の波を知っている。

    菅野は帽子を取らなかった。目も合わせない。ぶっきらぼうに処方箋とお薬手帳をカウンターへ置く。

    「眠剤出してもらった。さっさと作ってくれ」

    浜口の受付の声が、一拍遅れる。

    菅野は折り畳み傘を持ったまま、窓際の長椅子に腰を下ろした。傘の先から、床に小さな水の輪がひとつ落ちる。

    *

    午前2時43分、菅野宗明は目を覚ました。

    寝室の闇は、ぬるい。隣の布団で、妻の和子(かずこ)が静かに寝息を立てている。枕元の時計の蛍光針は、2時43分。今夜も、これで二度目だ。

    下腹がじわりと張っている。膀胱の重さが、布団の中でだんだん輪郭を持つ。起き上がろうとして、一瞬、視界が揺れた。

    畳に手をつき、息を止める。落ち着いてから、慣れた手つきで枕元の小型ライトを点けた。黄色い小さな円が、布団の端と畳の目だけを照らす。和子の顔には届かない角度だ。

    立ち上がると、膝がわずかに鳴る。

    寝室の戸を開け、廊下へ出る。階段の手すりに右手を置き、一段ずつ踏み板の感触を確かめた。手すりを握る手に、自分が思っているより体重が乗っている。

    1階のトイレの蛍光灯は、まぶしい。白い光が目に刺さる。用を足す間も、身体が軽く揺れた。手すりをつかむ。転んだことは、まだない。まだないが、そう言い切るたびに、足の裏が少し頼りなくなる。

    布団へ戻っても、眠りは来ない。和子は隣ですぐ眠るのに、自分だけ三時間眠れない夜が、もう二週間続いている。

    朝になったら、沢田先生に眠剤を頼もう。

    そう決めても、天井を見つめる目は閉じられない。

    *

    「菅野さん、こちらでお話伺います」

    千晶は服薬指導用の立ちカウンターを手で示した。カウンター脇の、小さく区切られた場所。患者と一対一で話すための場所だ。待合のざわめきから半歩だけ離れる、それだけで声の通り方が変わる。

    菅野は帽子をかぶったまま、のろのろとカウンターの前に立つ。

    「なんでわざわざそっちに行かなくちゃいけないんだ、めんどくせえ」

    低い声だった。

    「いつもみたいにできてから渡してくれりゃいいんだよ」

    春日の手が、鑑査台の上で一瞬止まる。分包機から出た透明な分包紙が、台の上でかさりと鳴った。

    千晶は表情を変えない。

    (菅野さん、今日、機嫌悪いな)

    でも、処方箋を見るのが先。

    「今日は新しいお薬が一つ追加されてるので、少しだけ確認させてください」

    菅野は返事をしない。折り畳み傘をカウンターの脇に立てかけ、帽子のつばを親指でなぞって、ふっと窓の外へ視線を逃がす。毎回きちんと持ってくるお薬手帳だけが、この人の生活を少しずつこちらへ渡してくれる。

    処方箋には、いつもの4剤が並んでいる。血圧の薬、コレステロールの薬、前立腺肥大の薬、胃酸を抑える薬。すべて朝食後1錠。

    そこに、今回の睡眠導入剤が1錠、就寝前14日分。

    菅野宗明、78歳。体重は少なめ。前立腺肥大の薬を併用中。

    胸の中で、小さく警鐘が鳴る。

    機嫌が悪い理由は、睡眠不足かもしれない。ただの気分かもしれない。でも、今日の判断軸はそこじゃない。

    「菅野さん、最近、寝つきが悪いんですね」

    「ああ、寝つけねえんだよ。沢田先生に頼んだら出してくれた。それだけだ」

    「先生に出していただいたお薬ですね。少し、お聞きしてもいいですか」

    「何を聞くんだよ。薬、もらいに来てるだけだぞ」

    春日の視線が、今度ははっきり上がった。受付プリンターの紙を吐く音だけが、妙に近く響く。

    千晶は手元で処方箋の角を合わせる。

    菅野は怒鳴っていない。悪意もない。ただ、薬局に来て、処方箋を出し、薬を受け取る。その流れの中に、自分の生活の話まで入ってくるとは思っていないだけだ。

    それは、患者の落ち度じゃない。

    「菅野さんの今のお体の状態、確認させてください。お薬を安全に飲んでいただくために必要なんです」

    菅野はしばらく黙った。指先が、帽子のつばの縫い目をなぞる。

    「……短くしてくれよ」

    「はい」

    千晶はペンを持つ。薬歴の入力画面ではなく、まず手元のメモ。患者が話し始める瞬間にキーボードを叩くと、音だけで距離ができることがある。

    メモ用紙の角を親指で押さえると、紙がわずかに波打った。千晶はその癖をならし、ペン先を菅野のほうへ向ける。

    「菅野さん、夜中にお手洗いで起きられること、ありますか」

    菅野の眉が寄った。

    「……そんな細かいこと聞いてどうすんだ、早くしてくれよ」

    「菅野さん、これ大事なことなので。3分だけください」

    声は上げない。急かさない。引きもしない。

    菅野は千晶の顔を一瞬見た。いつもより細い目の奥に、疲れが滲んでいる。すぐにまた、窓の外へ視線を戻す。

    短い沈黙。

    「……ある。最近、2回か3回くらいかな」

    「前立腺のお薬、お飲みですよね。夜中、お手洗いに立たれた時、立ちくらみが出ないか、念のため確認させてください」

    「そうなんだよ。先生にも前から相談してる」

    ここで、ほんの少し声の角が落ちる。

    「寝室は1階ですか、2階ですか」

    「うちは戸建てでね。寝室は2階で、トイレは1階だよ」

    「夜中、階段を降りているんですね」

    「そうだね。家内はもう寝てるから、起こさないようにそうっと降りる」

    「布団から起き上がる時や、階段の途中で、ふらつく感じはありますか」

    菅野の親指が、帽子のつばで止まった。

    「……最近、ちょっとな。手すりに体重を預けないと、不安なことがある。転んだことはないんだけど」

    言ったあと、菅野は口を結ぶ。文句ではない。言い訳でもない。自分の体が、前ほど信用できない。その事実を、初めて外に出した顔だった。

    千晶は頷く。

    「ありがとうございます。大事な確認でした」

    菅野にはいったん待合で待ってもらう。帽子をかぶったまま、窓際の長椅子に腰を下ろし、濡れた折り畳み傘をきちんと巻き直してから、膝の横に立てかける。文句は言う。だが、物を雑には扱わない人だ。

    千晶は薬歴画面に向かった。

    整理する。

    数字だけなら、薬歴の上の数行で済む。78歳。夜中に2、3回起きる。寝室は2階、トイレは1階。階段を降りる。最近、ふらつく。

    そこに、新しい睡眠導入剤が乗る。この系統は、ご高齢の方では転倒リスクの観点から慎重な投与が求められている。夜中、薬の効き残りと立ちくらみが重なったら。階段の上で重なったら。

    (転倒は、骨折の入口。骨折は、寝たきりの入口)

    ペン先が、止まる。

    (……止める)

    「柏木さん」

    春日が、薬袋の束を置いて寄ってきた。声は小さいが、目は真剣だ。

    「眠剤って、出てる人多いですよね? なんで、菅野さんの場合は気になるんですか?」

    ど直球。いい質問。今日も真正面から来る。

    「薬そのものだけなら、ここまで止めない」

    春日はポケットから付箋を出した。もうメモする気でいる。

    「薬そのものだけなら?」

    「重なり。年齢、夜中の移動、ふらつき、新しく足される薬。眠剤にもいろんな系統があって、ご高齢の場合、この系統は転倒の観点で注意喚起されてる。絶対だめって話じゃなくて、菅野さんの場合は条件がそろっちゃってるの」

    春日は付箋に大きな字で書いた。

    重なり。

    字が大きい。圧がすごい。

    「……それで、止めるんですか」

    「止めるとは限らない。沢田先生に状況をお伝えして、別の選択肢もあるか相談する」

    「春日さん、薬局で見るのは、錠剤だけじゃないのよ」

    横から福田が、にこにこしながら入ってきた。受付カウンターで会計を締めながら、耳はちゃんとこちらにある。

    「家でどう動くかまで含めて見るの」

    春日は顔を上げた。

    「それ、柏木さんがさっき菅野さんに聞いてた、寝室からトイレまでの動線とか」

    「そう」

    千晶は薬歴メモを持って、奥のPC前の楠山のところへ向かう。

    「楠山さん。菅野さんの今日の眠剤、別系統も含めて疑義照会します」

    「理由は」

    「夜間に階段移動があります。ふらつきも本人から確認しました」

    楠山は画面の処方内容へ目を移した。

    「前立腺肥大の薬もあるな」

    「はい。重なるのが怖いです」

    「よく見てたな。沢田先生に相談しよう」

    「患者さんへの説明は、薬剤名より転倒リスクを中心にします」

    「それでいい」

    疑義照会とは、処方箋の内容で気になる点を、薬剤師が医師に確認する仕事だ。処方箋をそのまま流すか、一度止めるか。その境目で、電話一本が重くなる。

    千晶は薬歴画面を開き、メモを手元に置いた。調剤室側の子機を取り、通話ボタンを押す。

    姿勢を正す。

    「桜ノ町内科クリニックです」

    「桜ノ町薬局、管理薬剤師の柏木です。本日処方の菅野宗明様の件で、沢田先生に疑義照会させてください」

    「申し訳ありません、先生、いま診察中でして。折り返しでもよろしいですか」

    電話の向こうで、クリニックの待合のざわめきが薄く聞こえる。月曜の午前。向こうも、山の上だ。

    「承知しました。お昼までにいただけると助かります。桜ノ町薬局の柏木まで、お願いします」

    電話を切ると、福田が在庫棚の前から含み笑いを漏らす。

    「沢田先生は折り返しちゃんとくれるから上等。整形外科の佐々木先生なら保留音10分よ」

    (10分で済めば勝ち)

    問題は、待合の菅野だった。確認に入る間にも、待合の時間は止まらない。処方箋は受付に積まれ、菅野の傘の先から、水滴が床に触れるか触れないかのところで丸く震えている。

    千晶はカウンターを出て、窓際の長椅子へ向かった。

    「菅野さん。今日のお薬、念のため沢田先生に確認を取らせていただいています。先生がいま診察中で、折り返しのお電話待ちです」

    菅野の眉間に、皺が戻る。

    「は? 変えるかどうかも決まってないのか。いつまで待たせるんだ」

    「申し訳ありません。決まり次第、お電話を差し上げます」

    「電話はいい」

    菅野は膝の横の傘をつかんで立ち上がった。

    「15時にまた来る。それまでに決めとけ」

    それだけ言って、帽子のつばを下げ、自動ドアの向こうへ出ていく。傘の先が床を一度だけ叩いた。

    春日が鑑査台の向こうで、小さく息を吐く。

    「……怒って、帰っちゃいましたね」

    「期限をくれたの。あの人なりに」

    言いながら、千晶は壁の時計を見る。文句は言っても、約束を破る人ではない。15時までに、答えを作ればいい。

    浜口が受付の端から、小声でつぶやく。

    「沢田先生、早く折り返しくれますように……」

    「祈るより手を動かす。18番の方、呼んで」

    「はいっ」

    午前の山は、まだ続いている。番号札が進み、白カゴが流れる。千晶は手を動かしながら、耳の半分を受付の電話に残していた。

    午前10時40分。

    二人分の投薬を終えたところで、受付の電話が鳴った。浜口が取り、すぐに千晶へ目配せする。

    「沢田先生です」

    千晶は子機を受け取り、メモを手元に置いた。

    「お電話ありがとうございます。柏木です」

    「はいはい、菅野さん? どうしました」

    沢田雅臣(さわだ・まさおみ)院長の声は早い。早いけれど、雑ではない。診察の合間を縫って、折り返してくれたのだろう。電話の向こうには、次の患者を待たせている診察室の気配がある。

    「本日処方の睡眠導入剤についてです。菅野さん、78歳で前立腺肥大の薬を併用されています。ご高齢の場合、この系統は転倒リスクの観点で注意喚起されておりまして」

    「うーん」

    沢田は、すぐには頷かなかった。

    「菅野さんなあ。二週間眠れてないって言うんだよ。眠れないのも、体に悪いよ」

    処方した医師には、処方した理由がある。電話の向こうの「うーん」は、面倒がっている音ではない。眠れない害と転倒の危険を、同じ天秤に載せている音だ。

    だから千晶は、薬の名前ではなく、生活の絵を渡す。

    「菅野さん、夜中にお手洗いで2、3回起きられています。寝室が2階、トイレが1階の戸建てで、夜中に階段を降りているそうです。ご本人から、最近、手すりに体重を預けないと不安だと伺いました。転んだことは、まだないそうです」

    短い間が、電話の奥に落ちる。

    「……夜中に、階段か」

    電話の奥で、天秤が傾く。

    「それは見ておいたほうがいいな。別の系統でいこう。ふらつきの出にくいやつ。柏木さん、よく拾ったね」

    「ありがとうございます。今回の睡眠導入剤は別の系統へ変更、14日分で承ります」

    「うん、よろしく。菅野さんに、飲み始めは特に注意するように言っといて」

    「お伝えします」

    通話を切った瞬間、春日が小さく息を吐き、浜口もようやく肩の力を抜くのが見えた。

    千晶は奥の楠山へ声を投げる。

    「沢田先生から折り返しいただきました。別系統へ変更です」

    「在庫は」

    千晶が答えるより先に、受付から声が飛ぶ。

    「別の系統のほう、うちに在庫あるわ。今日、全量出せる」

    福田が棚を見もせずに言う。

    「進めてくれ」

    楠山は画面から顔も上げない。任せる時は、最後まで任せる人だ。

    「春日、菅野さんの分、疑義札を外して、変更後で準備」

    「はい」

    春日が赤い疑義札を外す。札が外れても、確認は終わりではない。患者に届く前なら、いくらでも直せる。外した札を置く時、春日の親指が赤い角を折り曲げかけ、慌てて力を抜く気配がした。

    「変更後、14日分。用法は就寝前で同じです」

    「日数と用法、処方箋の訂正内容と照合して。鑑査は私が見る」

    「はい」

    白カゴがひとつ、棚の定位置に収まる。約束の15時まで、まだ4時間以上ある。答えのほうが、ずいぶん早く着いた。

    *

    13時過ぎ、休憩室。

    春日は紙コップのコーヒーを両手で持ち、浜口は弁当箱の蓋を開けたまま、まだ箸を持っていない。

    「柏木さん、菅野さんっていつもあんな感じなんですか」

    春日が、いつもより少し声を落とした。

    千晶はマグカップに湯を注ぐ。

    「今日が一番強かったかな。7年来てるけど」

    「7年……」

    浜口が小さく言って、おずおずと顔を上げる。

    「わたし、受付で、固まっちゃって……」

    「いいよ、それは普通。私も薬剤師なりたての頃は固まってた」

    浜口の目が少し丸くなる。

    「柏木さんもですか」

    「固まるよ。患者さんに強く言われたら、誰でも」

    「僕、鑑査台から見てたんですけど、柏木さん、声色全然変えなかったですね」

    「変えるとね、向こうも余計強く来るから。プロの平常運転は、こっちの武装」

    浜口がすぐメモ帳を開いた。

    「プロの平常運転は、こっちの武装」

    「ゆいちゃん、休憩中までメモしなくていい」

    「忘れたくないので」

    その声が、まだ少し震えている。震えたままでも、メモは取れる。今日の浜口は、ちゃんと仕事を覚えた。

    春日は紙コップの縁を両手で包んだまま、姿勢を正す。

    「柏木さん、なんでそこまで踏み込むんですか。処方箋に書いてあるんだから、出せばいいじゃないって、思う人もいると思うんですけど」

    休憩室の空気が、ふっと静かになる。

    「薬剤師は、最終ゲートなの」

    春日が、メモを取らずに聞いている。

    「処方は医師。受付は事務。最終チェックは、薬剤師。私が見逃したら、患者さんに渡る。患者さんは、私たちを信じて、何の疑いもなく飲む。患者さんに渡る前に止められるのは、私たちだけ」

    言い終えてから、千晶は自分のマグカップを見た。口に出すと寒い。けれど、寒くても本当のことはある。

    「……まあ、いつもこんな大袈裟に止めてるわけじゃないけどね。今日の菅野さんは、止めるべき場面だったってこと」

    そこへ梶浦が顔を出した。

    「柏木ちゃん、名言出てるよ」

    春日が慌ててノートを閉じ、浜口もとうとう笑う。張りつめていたものが、弁当箱の湯気と一緒にほどけていく。

    「午後もちゃんと手を動かして」

    「はい!」

    春日の返事だけが、妙に大きい。

    *

    午後の準備が始まり、春日と梶浦は調剤室へ戻った。浜口も受付に出ていく。休憩室に一人残った千晶は、窓の外の梅雨空を見た。

    雨は弱い。降っているというより、空気に細い水分が混じっている。

    前の店にいたころ、私はこんなふうに患者と話していなかった。

    番号札を呼ぶ。処方箋を流す。声を拾う前に次の番号を呼んで、違和感の前に待ち時間を削る。少なくとも私がいた店舗では、それが正しさみたいな顔をしていた。

    あの店では、たぶん今も、番号札の音だけが正しく響いている。

    (沙織は、たぶん、いまもそう思ってる)

    窓の向こうで、電線についた雨粒がひとつ落ちる。

    (私は、逃げた。そして、ここにいる)

    その先は考えない。考える代わりに、調剤室へ戻って菅野の薬歴をもう一度開く。午前のやり取りと、沢田から返ってきた内容、変更後の薬の在庫。

    これくらいは、できた。今日は、それでいい。

    *

    午後3時。

    桜ノ町薬局は、午前とは別の顔で混んでいた。桜ノ町内科の午後診組がぽつぽつ流れはじめ、整形帰りらしい人が処方箋を膝に置いたまま腰をさすっている。受付前の長椅子には、濡れた折り畳み傘が三本並ぶ。

    「柏木さん、52番の方、次いけます」

    浜口の声に返事をしながら、千晶は入口の自動ドアへ目をやる。

    菅野宗明が、立っていた。

    午前と同じ薄い帽子。同じポロシャツ。同じ、きれいに畳まれた折り畳み傘。布は午前よりいくらか乾いている。

    (来た。約束通り)

    「菅野さん、お薬ご用意できています」

    浜口がいつもの受付の声を出す。午前に固まった顔とは違っていた。ちゃんと戻っている。

    (えらい)

    千晶は鑑査済みの薬袋の入った白カゴを取り、カウンターへ向かった。

    「お待たせしました。沢田先生にお薬の件で確認させていただいて、今日の睡眠薬は、別の系統のものに変更になっています」

    菅野の声が硬くなる。

    「やっぱり変えたのか。沢田先生が出した薬だぞ。なんで薬剤師がそんなこと言うんだ」

    午前に「決めとけ」と言って帰った人の、決まったことへの反発だった。千晶は声量を変えない。

    「菅野さんの夜中の動きと、ふらつきのことを、先生に共有しました。今回のお薬は、その点を慎重に見たい内容だったんです」

    「……先生は、なんて言ったんだ」

    「変更したほうがいい、とご返答をいただきました」

    菅野が目を上げる。怒りではない。考えが追いついていない顔だ。さっきまで千晶を係のように見ていた目が、急に別の輪郭を探しはじめる。

    「……先生が、認めたのか」

    「はい」

    「薬剤師が、医者にそんなこと言えるのか」

    「私、薬剤師なんで。処方の最終確認も、仕事のうちです」

    決め台詞のつもりはない。事務連絡と同じ温度で言う。菅野はしばらく黙り、店内の奥で分包機が短く唸った。雨粒が自動ドアの外側を下りていく。

    「……そうかい」

    小さな返事だ。納得したわけではない。けれど、拒絶だけでもない。その隙間があれば、今日は十分だった。

    (この人が今、納得しなくてもいい。今夜、転ばなければ、それでいい)

    「変更後のお薬、14日分です。飲み始めてから、朝のふらつきや転びそうな感じがあれば、すぐお電話ください」

    「……ああ」

    声はまだ硬い。けれど午前のように、こちらを押し返す硬さではなかった。

    千晶は薬袋の角を整え、最後に一つ、言う。

    「それと、夜中に起きる時は、立ち上がってすぐ動かず、手すりを使ってくださいね。念のため」

    菅野の指が、薬袋の端で止まる。

    ほんの一拍。

    店内の音は止まらない。分包機は動き、春日は鑑査台の向こうで処方箋をめくり、福田は受付の横で次の患者を案内している。

    それでも千晶には、その一拍だけが妙に長く聞こえた。

    菅野は薬袋を見下ろしたまま、ゆっくり息を吐く。

    「……あんた、そこまで考えてくれてたのか」

    千晶は、返事をしそこねる。

    「俺は、薬剤師なんて袋詰めだと思ってた」

    春日の手が、奥で止まった気配がした。

    「処方箋見て、薬詰めて、渡してくれりゃいいって、ずっとそう思ってた。……まあ、家内に言われるまでもなく、少しは分かってたのかもしれねえけどな」

    菅野は、帽子のつばに指先で触れる。

    「悪かったな」

    大きな声ではない。謝罪というより、自分の中で長く置きっぱなしにしていたものを、やっと手放したみたいな声だった。

    千晶は、喉の奥に引っかかったものを一度飲み込む。

    こういう時、薬剤師は笑いすぎてもいけない。泣くのはもっと違う。患者が差し出した言葉を、こちらの感情で大きくしすぎない。

    だから、少しだけ声を柔らかくした。

    「……いえ。お薬を安全に飲んでいただくのが、私たちの仕事ですから」

    菅野は短く笑う。照れを隠すような苦笑だった。

    「家内に怒られるんだよ。『あなた、薬剤師さんに失礼でしょ』って、いつも」

    その言い方に、午前にはなかった温度が混じる。

    「奥様もお元気ですか」

    「ああ、元気だよ。膝が少し痛むって最近言ってるけどな」

    「気になることがあったら、いつでも相談してください。お薬以外のことでも」

    「ああ」

    菅野は薬袋を両手で持つ。それから、頭を深く下げる。

    「次回もまた、ここに来るから」

    声は低かった。薬袋を持つ指に、もう一度だけ力が入る。

    「お待ちしてます」

    菅野はもう一度小さく頷いて、自動ドアの向こうへ出ていった。湿った午後の光が、帽子の背に薄く乗る。

    ドアが閉まる。

    待合のざわめきが戻ってくる。プリンターが紙を吐き、浜口が「次の方、お預かりします」と声を出し、春日が止めていた手を慌てて動かす。

    何も変わらない。薬歴は減らないし、残業も消えない。15時台の山は、まだ半分も越えていない。

    それでも、菅野が出ていったあとの床に、水滴はひとつも残っていない。あの人は最後まで、濡れた傘の先を自分の膝の側へ寄せていた。

    千晶は、その見えない変化を拾うために、菅野の薬歴へ今日の内容を打ち込む。

    薬歴のどこにも、「次回もまた、ここに来るから」なんて項目はない。

    「柏木」

    一段落した頃、楠山の声が肩越しに届いた。

    「よくやった」

    千晶は画面から目を離さず、短く返す。

    「いえ、当たり前のことを」

    「当たり前を、当たり前にやれるって、案外難しいんだよ」

    褒め言葉というより、確認に近い声だ。千晶はEnterキーを押す。

    「柏木さん」

    春日の声が、薬歴入力の手元から飛んできた。視線は画面に貼りついたままだ。

    「薬剤師って、すごい仕事ですね」

    「そう思えてるうちは、まだ大丈夫」

    「え」

    「たまに、そう思えなくなる日もある。でも、こういう日は、ちょっともつ」

    春日は黙り、三秒後、自分のノートに何かを書きはじめる。

    「春日。そこ、メモするほどじゃない」

    浜口が受付で吹き出し、福田が「はいはい、笑ってないで次」と紙をそろえた。それから古いタオルを一枚取って、傘立ての水受けを拭きに行く。誰かが礼を言ったからといって、薬局が急にきれいな場所になるわけではない。

    午後の山は、まだ終わらない。

    *

    17時半を過ぎると、店の中に一度だけ、夕方前の浅い谷が来た。

    千晶は薬歴を打ち、残っていた鑑査を片づけ、在宅セットのラベルを確認する。手元には紙、画面には文字、耳には患者の名前。今日もいつものように、仕事は細かい。

    細かいから、見落とす。細かいから、拾える。

    在宅セットを整理していた福田が、ふと窓の外へ顔を上げる。

    「あらま、商店街の角の空き地、測量してる人がいるね」

    「え?」

    「ほら、青果の田中さんが2年前に閉めた、あの跡地」

    千晶は窓の向こうをちらりと見た。白い仮囲いの前で、作業服の人影が二つ動いている。

    春日が「お先に失礼します!」と、元気だけは満タンのまま帰っていく。浜口はOTC棚の前で、乱れた箱をひとつずつ正面へ戻している。胸の研修中のシールが、夕方の光を鈍く返している。

    「ふーん、何が建つんですかね」

    福田はラベル束をそろえながら、のんびり首を傾げた。

    「さあねえ、コインパーキングかしら」

    受付の浜口が、会計トレーを戻しながら小さく笑う。

    「だったら助かりますよね、駐車場狭いし」

    千晶は「そうだね」とだけ返して、薬歴画面へ視線を戻した。

    19時、閉店。シャッターを半分下ろす頃には、雨は完全に上がっていた。

    白衣を脱いでロッカーの扉を閉めると、肩が重い。ふくらはぎも張っている。朝からずっと立っていた足が、帰りの自転車を想像して小さく文句を言う。

    「お先に失礼します」

    「おつかれさま。柏木さん、今日はよく止めたわね」

    福田の声に、千晶は振り向かずに片手だけ上げる。

    商店街の路面には、まだ水が残っていた。角を曲がる手前で一度だけ振り返ると、シャッターの隙間から、楠山の席の明かりがまだ漏れている。

    自転車を押して歩くと、角の空き地の前に出る。

    白い仮囲い。その面に、掲示板の枠だけが付いていた。中身はまだ、何も貼られていない。

    千晶の足が、一拍止まる。

    (楠山さんの画面の、あの細かい数字を思い出した)

    理由は、自分でもうまく言えない。空っぽの枠と経営の数字に、つながりなんてないはずだ。千晶は小さく首を振って、サドルにまたがる。

    湿った夜風が頬に当たった。惣菜屋の油の匂いが薄く残る通りを、シャッターの音が一つずつ閉じていく。

    薬は、薬の話だけでは終わらない。

    朝、春日の前で言ったことが浮かんで、千晶はペダルを踏みながら、心の中でもう一度言ってみる。

    (33独身、薬包紙折ってますけど、なにか)

    少しだけ、笑える。

    (……ま、いいか。私、薬剤師なんで)

    街灯が、水たまりの中で細く揺れていた。


    「私、薬剤師なんで。」をなぜ書くのか、AIとどう作っているのかは、こちらの記事に書きました。

    続きはこちらです。

    第2話では、新人薬剤師・春日樹が、患者の怒りの奥にある「生活」を初めて見ることになります。
    まだ何も知らない彼が、桜ノ町薬局で最初に拾ったものの話です。

    「私、薬剤師なんで。」は、こちらのマガジンにまとめています。

    #創作大賞2026 #お仕事小説部門

     
     
    現役薬剤師・著者。薬局の見えにくい仕事を、物語と安全な実践知にして届けています。 お仕事小説『私、薬剤師なんで。』全9話公開中(note創作大賞2026応募作)。 Kindle『薬剤師、AIはじめました』著者。 薬局の仕事、AI時代の創作、安全なAI活用について発信しています。

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