
日記 | ここは平和に、暴力で決着をつけようか
ハインラインのSF小説「宇宙の戦士」で、
「暴力が歴史上多くの問題に決着をつけてきたのは事実である」という一節がある。
立場の強い者や有利に立つ者が、
半ば独裁的に暴力を行使することは、
国を統治したり平和を維持するためには、端的且つ明確である。
マキャベリの君主論、
エヴァンゲリオンの人類補完計画、
デスノートの夜神月の裁き
はたまた、もののけ姫のエボシの神殺しも、
平和という目的のために行った暴力的行為と言えよう。
私は今、2人の娘の母親である。
母親である以上、我が子に対してしつけや教育をし、彼女らを「社会的人間」として形成させる義務がある。
しかし、最近の娘たちの反抗ぶり、怠惰ぶりには目に余るものがあり、このままでは最悪、家庭崩壊という想定もあり得る。
家庭の平和を維持すべく、私は母親として、
暴力による統治を決断した。
その名も「バブちゃん計画」である。
この計画において行使される「暴力」とは、肉体的な苦痛を与えるものではない。
娘たちの「思春期という自尊心」を、徹底的に解体・無効化する「精神的な制圧」である。
娘たちが反抗的な態度を示し、あるいは片付けや宿題といった義務を放棄し、怠惰に耽る時。
私は彼女たちを、社会的人間として振る舞える「個人」として扱うことをやめる。
知性と言語が未発達と位置付けし「保護すべき乳幼児」というカテゴリーへ再定義する。
散乱した衣服、放置された宿題に対し、私は冷徹に、「暴力」を執行する。
「ほらー、めっだよー。ズボンはきれいきれいに畳んで、ないないしようねぇ?」
「宿題さんが、やってやって〜って、えんえんしてるよぉ?」
これは、単なる幼児語ではない。
「自分は大人になりつつある」と自負する彼女たちに対し、その成長を全否定し、自分たちは母親の庇護下にあるという、無力な存在へと引き戻す行為なのである。
彼女たちがどれほど論理的に反抗しようとも、あるいは激昂しようとも、私は一切の対話を拒絶し、聖母のような微笑みを浮かべて
「よしよし、眠いのかなぁ?ネンネしたいのかな?」
と返す。
言葉の通じない乳児として扱われる屈辱は、いかなる叱責よりも鋭利なナイフとなり、彼女たちのプライドを切り刻むだろう。
これが私の選んだ暴力による統治計画だ。
思春期の複雑な自意識を、幼稚な「バブちゃん言葉」で完全に封じ込める。
家庭内の秩序は、彼女たちがこの屈辱的な「バブちゃん」の地位から脱却すべく、
自ら進んで「社会的人間」としての振る舞いを選択するまで、断固として継続されるのである。
私は、性格診断ではINTPであり、分析やロジックは得意分野だとされる。
即ち、この計画は「完璧」である。
⋯⋯そのはずだった。
計画開始当初、娘たちの顔には確かに屈辱と混乱の色が浮かんでいた。
普段は「フリーザ」、機嫌がいいときは「ムスカ」、説教中は「鬼舞辻無惨」のようだと言われている私が、いきなり「バブちゃん言葉」を使用し始めるのだから当然である。
この暴力に対し、彼女たちは激昂し、あるいは絶句し、怯え、その自尊心は計画通り切り刻まれているかに見えた。
戦略は、勝利を収めるはずだった。
しかし、いかに優れた統治理論であっても、被支配者の「適応」という、生き延びる上での本能とも言える反応を、完全に見落としていた。
しばらくすると、彼女たちはその「乳児という特権階級」に居直り、私の統治権限を逆手にとり始めたのである。
「バブちゃん返し」
私の「バブちゃん言葉」に対し
「バブちゃんだから、ママ、やってくだちゃい」
「バブちゃんだから、わかりまちぇん」
と、切り返す。
次女に至っては体を丸め、親指を咥えて上目遣いまでするという、完全なる成長の後退を、自ら行なっているではないか。
こうして、この「バブちゃん計画」という名の完全だったはずの絶対王政は、母と娘が共にバブちゃんに後退しただけの、シュールレアリズムの雰囲気を漂わせ、無政府状態へと飲み込まれた。
私の知性は、彼女たちの圧倒的な「図太さ」という暴力の前に、なす術もなく沈黙を強いられたのである。
私の誤算は、彼女たちに「羞恥心」という弱点があると信じたことだ。
しかし、思春期という嵐の中を生きる彼女たちは、生き残るためなら自尊心すらも「バブちゃん」に変換し、私という独裁者を逆照射する鏡へと変貌を遂げたのである。
⋯⋯クソっ。
こうなったら、いっそ
明日の朝ごはん、
離乳食にしてやろうか⋯⋯。