
「どうしたい?」のかわからないとき。モヤモヤをそのままにする選択
休日の朝、少しだけ遅く目を覚ましてベッドの中でぼんやりとしているとき。あるいは、仕事帰りの電車に揺られながら、窓に映る自分の顔を眺めているとき。
ふと、「自分はこれから、どうしたいのだろう」という問いが頭をよぎることがあります。
世の中を見渡せば、「やりたいことを見つけよう」「自分の意志を持とう」という前向きな言葉があふれています。
SNSを開けば、目標に向かって情熱を燃やしている人や、自分の好きなことをはっきりと主張して楽しそうに生きている人たちの姿が目に飛び込んできます。
そんな光景を目にするたび、明確な「こうしたい」という意志を持てない自分に、静かな焦りを感じる人がいるかもしれません。
問いかけに対して、心に浮かぶのは真っ白な空白。
あるいは、輪郭のぼやけた灰色の霧のような感覚ばかり。
焦って心の奥底を探ってみても、自分を突き動かすような確かな声は、どこからも聞こえてこず、そんなときはますます焦るばかりかもしれません。
自分の「したい」という気持ちは、なぜわからなくなってしまうのでしょうか。
それは決して、あなたが優柔不断だからでも、意志が弱いからでもありません。
そこには、いくつかのもっと深く、切実な理由が存在するのだと思います。
まず一つ目の可能性として、生きるためのエネルギーそのものが枯渇しているということがあるかもしれません。
「これがしたい」「あそこへ行きたい」という感情を持つためには、私たちが想像している以上に、心と体のエネルギーを必要とします。
日々の生活をただやり過ごすだけで精一杯のとき。
仕事や家事、人間関係の摩擦で心身の元気がすり減っているとき。
何かを欲するだけのエネルギーは、もう内側に残っていないかもしれません。
二つ目の理由として、心の中のスピーカーを「しなければ」という声が完全に占領してしまっている、そのような状態があるかもしれません。
「もっとちゃんとしなきゃ」「周りの期待に応えなきゃ」「大人として正しく生きなきゃ」。
そんな巨大で威圧的な義務の声が、頭の中で常に鳴り響いている。
そのけたたましい音の渦中では、心の奥底で「したい」という気持ちが羽ばたこうとする羽音など、何もなかったかのようにかき消されてしまうでしょう。
三つ目の理由は、もっと長い時間をかけて作られた私たちの背景にあるかもしれません。
これまで生きてきた人生の中で、自分の「したい」という声を大切にされてこなかったという歴史を持つ人は少なくありません。
幼い頃、勇気を出して言葉にした「これが好き」「こうしてみたい」というささやかな願い。
それを、身近な大人から否定されたり、無視されたり、「そんなことよりこっちにしなさい」と別の「正しいこと」にすり替えられたりする。
そうした環境が長く続くと、人間の心はとても賢く、そして悲しい防衛本能を働かせます。
傷つくのを避けるために、そして波風を立てないために、自ら「したい」という声を押し殺し、心の奥深くに封じ込めてしまうようになってしまいます。
そして四つ目として、今現在もなお、安心してその「したい」を口にできる環境にいないということも考えられます。
本当の気持ちを言葉にした途端、誰かの機嫌を損ねてしまう場所。
あるいは、正論のような言葉で打ち負かされてしまう関係性の中。
声を上げても安全ではない場所に身を置いているならば、心が固く口を閉ざすのは、自分を守るための当然の反応と言えるでしょう。
もし今、あなたが「自分がどうしたいのかわからない」という霧の中にいるのなら。
まずは、その状態そのものを、そのまま静かに受け止めてみてください。
「したいことが見つからない自分はおかしい」「早く決めなければ」と自分を責め立てる必要はまったくありません。
「したい」を見つけなければ、と焦る気持ちは、結局のところ「見つけ『なきゃ』」という、新たなプレッシャーに姿を変えているだけです。
「正しく生きなきゃ」という重たい鎧を、ここで一度、そっと足元に下ろしてみませんか。
私自身もかつて、自分の「したい」が完全にわからなくなっていた時期があります。
それは、両親のもとで生活していた頃。
そして、社会や自分自身の中にどこまでも膨れ上がった「正しさ」に、無意識のうちに抑えつけられていた長い時間のことです。
「こうあるべきだ」「正しくあらねばならない」。
そんな空気を吸い込み続けるうちに、私は自分の本当の声を深く沈めてしまっていました。
不思議なことに、当時の私は、自分の内なる声が抑え込まれていることにすら、まったく気づいていませんでした。
その後、少しずつ安心できる場所を見つけ、ふと自分の中から「これをやってみたい」「あれがほしい」という小さな声が聞こえてきたとき。
そのとき初めて、過去の自分が「正しさ」というどれほど分厚い毛布の下で息を潜めていたのかに気づき、愕然としました。
声を取り戻して初めて、声を失っていた自分を自覚する。
それは、とても静かな衝撃でした。
だからこそ、どうか小さくなってしまった自分の声に、焦らず、ゆっくりと耳を澄ませてみてください。
そのためには、そのか細い声が聞こえてきても決してかき消されることのない、安心で安全な場所が必要です。
もし、今のあなたのいる場所が安心できる環境ではないのなら、まずは「ここは安全ではない」という現実を、ありのままに認めることからはじめてみてください。
そして、その過酷な場所で、自分の声を消すことで今日までなんとか生き延びてきたご自身のことを、深く、優しくねぎらってあげてください。
環境や状況を今日明日にすぐ変えることは難しいかもしれません。
少しずつ、できる範囲で変えていけば十分です。
もし今は何も変えられなかったとしても、決して自分を責めないでください。
安心できる状況に身を置けるようになった今も、私の心の中がどうなっているかというと、常に「したい」という情熱であふれているわけではありません。
小さな声がはっきりと聞こえてくるときもあれば、じっと耳を澄ませても何も聞こえてこないときもあります。
けれど、それでいいと感じています。
聞こえてこなければいけない、というルールはもうありません。
「どちらでもいい」という状態こそが、心が自由を取り戻した証拠だと思っています。
常に確固たる意志を持っていなくてもいい。
声が聞こえないときは、ただ「今は何もないな」と、その空白の時間を味わう。
「沈黙」の状態もまた、そのままに安心して受け止められること。
それが、とても自然で健やかな状態なのだと思います。
「どうしたい?」と問われて、言葉に詰まってしまうとき。
湧き上がるモヤモヤとした感情に、無理に名前をつけたり、急いで答えを出そうとしたりする必要はありません。
「今はまだ、モヤモヤしている」
その状態のまま、そこにそっと置いておく。
白黒つけないままの空間を、心の中に守り抜く選択肢を持つこと。
答えを急がず、言葉がゆっくりと輪郭を持ち始めるのを待つ時間。
分からないことをそのままにしておくその余白にこそ、あなた本来の息づかいが、静かに戻ってくるはずです。
連載『答えを急がず、言葉を紡ぐ』
第2章:自分を取り戻す「生き直し」のプロセス - ⑧
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