
共感や一致をゴールにしない。「分かり合えない」から始まる関係性
誰かの話を聞いているとき、無意識のうちに「わかる」「わかります」と相槌を打っていることはないでしょうか。
相手の気持ちに寄り添いたい、理解したいという思いがあるからこそ、私たちは自然とこの言葉を口にします。
会話を円滑にする親しみやすさとしても、「わかる」はとても身近な言葉です。
しかし、共感したいと願うあまりにこの言葉を多用してしまっているときは、少し立ち止まってみる必要があるかもしれません。
あなたが「わかった」と感じているその感覚は、もしかすると、小さな勘違いを含んでいる可能性があるからです。
私たちは、相手が口にした言葉をそのままの形で受け取っているわけではありません。
耳から入った言葉を自分なりに解釈し、そこに意味を見出しています。
言葉と理解の間には、常にこの「解釈」というプロセスが存在しています。
ものごとを解釈するとき、私たちは誰しも自分なりの判断基準を持っています。
それは、自分自身の感覚やこれまでの経験によって形作られた価値観ともいえるものです。
たとえば、目の前にある一杯のコーヒー。
それを「熱い」と感じるか「ぬるい」と感じるかは、飲む人の舌先の温度感覚によって変わるでしょう。
今日が月曜日であるという事実も、ある人にとっては清々しい1週間の始まりであり、別の人にとっては心身が重くなる日かもしれません。
置かれている環境や背景によって、同じ一日の見え方さえもまるで違ってくるものです。
「猫」というたった二文字の言葉でさえ、思い浮かべる姿は人それぞれです。
「正しさ」や「幸せ」のような抽象的な概念になれば、解釈の幅はさらにどこまでも広がっていきます。
だからこそ、話を聞いて「共感できた」「共有できた」と感じても、それは心が完全に「一致」したわけではないのかもしれません。
それぞれの思い描いた円が、ほんの少し重なり合っただけ。
同じ言葉を使いながらも、実はお互いにまったく違う景色を想像しているということもありえます。
その事実に気づくと、なんだか急に人との距離を感じて、寂しい気持ちになるかもしれません。
しかし、それは決して悲しいことではありません。
この世界には、あなたにしか見えない景色があるという証です。
あなたが見ている景色は、他の誰とも違う特別なもの。
あなたという存在そのものの固有性が、そこにあります。
ふり返ってみれば私たちには、自分自身の感覚にぴったり当てはまる言葉が見つからず、もどかしさを抱える日もあるはずです。
私たちは、自分自身のことさえも完全には理解できていなかったりします。
自分の中にも、そして人と人との間にも、まだ出会ったことのない世界や景色が広がっているのだと思います。
私自身、発達障害の特性を抱えながら歩むなかで、「どうして周囲に理解してもらえないのだろう」という孤独感を長く感じて生きてきました。
どれほど言葉を尽くしても、私の見ている世界と周囲の世界は重ならない。
その違いに悩み、自分の感覚を否定してしまいそうになったこともあります。
そんな自分の感覚を大切にしていいのだと思えるようになったのは、「対話」という営みに出会ってからでした。
安心できる対話の場においては、相手の言葉を評価したり、良し悪しをジャッジしたりしません。
アドバイスを急ぐことも、互いを納得させようと議論することもありません。
ただ、お互いの言葉を大切に扱い、その背景に静かに心を向け合います。
その安心感のなかで、「完全に分かり合えなくても、そのままでここにいていい」と受け止められたとき、私は自分の固有性に価値を見出すことができました。
この気づきは、キリスト教の牧師として働いていた頃に感じていた違和感ともつながっています。
同じ信仰を持っていても、信者の方々が皆、同じ考え方をしているわけではありません。
一人ひとりが、その人なりの解釈を通して信仰を受け止めています。それにもかかわらず、宗教という場では時に特有の独善性が顔を出すことがありました。
自分たちの信じる教えや世界観こそが唯一の正しさであるとし、それを他者に理解させようとする姿勢です。
相手の価値観を否定し、境界線を踏み越えて正しさを押し付けてしまう空気に、私は強い危うさを感じていました。
だからこそ私は、自分の信仰や宗教的な価値観を絶対視せず、相対化することを心がけました。
様々な背景を持つ人と向き合うとき、自分の信じるものを押し付けることはしたくなかったからです。
キリスト教について話す際も、「これが絶対の真理だ」と語るのではなく、あくまで「私という人間が解釈し、私の価値観の中で理解しているキリスト教」として言葉を紡ぎました。
相手との境界線を守るためには、主語を「私」にする「I(アイ)メッセージ」がひとつの助けになります。
「一般的にはこうだ」「これが正しいのだ」ではなく、「私はこう思っている」「私はこう理解している」と伝えていく姿勢です。
同じように、もし誰かがあなたの領域に踏み込んできたり、一方的な考えを押し付けてきたりしたときも、同じ眼差しを向けてみてください。
その人がどれほど強い言葉で断言していても、それは「その人がそう思っている」「その人がそう理解している」に過ぎません。
もちろん、それは相手の言葉に価値がないということではありません。
その人が大切な存在であるなら、たとえその内容が客観的に見て間違っていたとしても、その言葉自体はかけがえのない大切なものです。
そして、大切だからといって、正しいわけでもありません。
相手の言葉を大切に受け止めることと、その内容を自分の正解として鵜呑みにすることは別です。
境界線を差し出してまで、相手の理解のすべてを受け入れる必要はありません。
相手と「完全に理解し合う」ことを、ゴールにしなくていい。
相手の理解をすべて受け入れる必要もなければ、あなたの理解のすべてを相手にわからせようとする必要もありません。
100パーセント分かり合おうとする姿勢を手放し、ふと重なり合った部分だけをそっと受け取る。
それだけで充分、私たちは互いの見ている景色を分かち会うことができます。
その小さな重なりがあるだけで、私たちの世界や視界は昨日と少し違ったものへと変化し、新しい解釈の幅が生まれていきます。
お互いの言葉と、その奥にある意味。
それぞれが生きている世界や価値観、見えている景色。
それらを大切に尊重しながら、互いの間にある「違い」に静かに心を向けていく。
分かり合えないことを前提に関係を始めることこそが、相手を急かさず、自分自身もすり減らさない、やさしい対話の出発点になります。
連載『答えを急がず、言葉を紡ぐ』
第3章:答えを急がない対話の技術 - ⑪
【連載・記事一覧は以下】