
正しいことを言うほど人が離れていく。「正論」が関係を壊すとき
私たちは人間関係のなかで、良かれと思って「正しいこと」を伝えてしまうことがあります。
相談を受けたときや、相手が深く悩んでいるとき、つい「こうすればいい」「それは間違っている」と正論をぶつけてしまう。
でも、その正しさが相手の心を軽くすることは少なく、むしろ相手を追い詰め、心を閉ざさせてしまうことがよくあります。
正しいことを言っているはずなのに、なぜか人が離れていく。
そんな行き止まりを感じた経験はないでしょうか。
「正論」は、何も言い返せないほど正しいからこそ、受け取る側には逃げ場がなくなってしまうということがあります。
正しさに押しつぶされそうになったとき、人は無意識に心を閉ざし、自分を守ろうとするからです。
少し、私自身の話をさせてください。
私が「正論」というものを強く意識するようになった背景には、幼い頃の家庭環境が大きく影響しています。
子ども時代、私の両親には理不尽なところがあり、父から暴力を受けることもありました。
体格的にも経済的にも力のある大人に対し、小さな子どもだった私は、同じように暴力で立ち向かうことはできませんし、しませんでした。
逃げ場のない家の中で、私は暴力ではなく「筋道の通った言葉」で抗う術を身につけていきました。
親の矛盾を突き、感情的にならずに論理的な言葉を組み立てることで、理不尽さの波から自分の身を守ろうとしたのです。
相手が感情的に怒りをぶつけてきても、こちらは決して取り乱さないように振る舞い、どこまでも冷静に論理的に言葉を返していく。
その結果、親は言葉に詰まり、最後には何も言えなくなりました。
言い負かし、相手を沈黙させた瞬間、私の中には確かに「勝った」という達成感がありました。
しかしそれと同時に、胸の奥にひどく冷たい虚しさが広がっていくのを感じていました。
私にとって「正論」とは、相手を打ち負かして上に立つための武器ではありませんでした。
それは自分自身の心と体を守るための、切実な「鎧(よろい)」だったのだと振り返ります。
ただ、その硬い鎧を着込んで相手を黙らせたところで、そこに温かい理解や安心が生まれることは決してありませんでした。
正しい言葉を持たなければ生き延びられなかった過去があるからこそ、人が自分を守るために「正しさ」にしがみついてしまう心の動きや、正論の持つ冷たさが、私には痛いほどよくわかるのです。
その後、私は大人になり、牧師としてたくさんの方々の声に耳を傾けるようになりました。
教会という場所には、人生の深い悩みを抱え、立ち止まってしまった方々が多く訪れます。
彼らは私に、「どうすればうまくいくのか」「神様のみこころは何か」「人生の正解を教えてほしい」と問いかけてこられました。
苦しい状況から抜け出すための、確かで正しい「答え」を求めて、必死に手を伸ばしてこられたのです。
しかし、人の人生において、明確な「正解」などそう簡単に用意できるものではありません。
私は多くの場合、「実際のところ、何が正しいかはわからないですね」と、ありのままの思いを誠実に「こたえ」ることしかできませんでした。
牧師という立場でありながら「わからない」と口にすることに、怖さはあまりありませんでした。
私にとって本当に怖かったのは、わからないのに自分に嘘をつき、もっともらしい「答え」を口にしようとすることでした。
もちろん、時には相手の状況があまりにも切迫していて、どうしても相手の期待する心に「こたえ」るため、あるいはその今にも壊れそうな心を守るために、わざと嘘をついて「答え」を伝えることもありました。
それでも、その時は「自分の中で嘘をつくことに対して、最後まで責任を負う」という強い覚悟をもって伝えていました。
安易に正解を与えて相手をコントロールするのではなく、相手を守るために泥をかぶる。
それが、当時の私にとってのもう一つの誠実さだったからです。
しかし、基本的には「わからない」と正直に伝えることのほうが圧倒的に多く、そしてそれが正しいことだと、経験を通して確信するようになりました。
なぜなら、私が「わからないですね」とお伝えしたとき、多くの人ががっかりするどころか、ふっと肩の力を抜いて、これまで誰にも言えなかった本音をぽつりぽつりと話し始めてくださったからです。
「実はこれまでにも、いろんな人に相談して『答え』をもらってきたんです。でも、その『答え』にどうしても納得できなくて、ずっと苦しかったんです」
そんな風に打ち明けてくださる方が、驚くほどたくさんいました。
真面目な人ほど「正しい生き方をしなければならない」「間違った選択をしてはいけない」という思いに強く縛られているように見えました。
周りの人から与えられた「正論」を背負い込み、自分自身をがんじがらめにしていたのです。
その姿を見たとき、理不尽な環境から身を守るために正論の鎧を着込み、正しさにしがみついていた子どもの頃の私と、目の前で苦しむ真面目な人たちの姿が、どこか重なって見えました。
「正解を出さなくてもいい」「正しいかどうかわからなくてもいい」。
そう伝えられたことで、その人たちもずっと背負ってきた「正しさ」という重荷を、ようやく降ろしてもよいのだと思えたのかもしれません。
私たちが誰かと向き合うとき、一番忘れてはいけないのは、自分の持っている正しさは「自分から見える景色の中での正しさでしかない」ということです。
あなたにあなたの世界があるように、相手には相手の視点があり、感覚があり、置かれている状況があります。
どちらが正しいかを白黒つけようとするのではなく、「あなたはそう感じる」「私はこう感じる」と、お互いの違いをただテーブルの上に置いて眺めてみる。
それだけで充分なことが多いのです。
正しさを追い求めることをやめるとき、張り詰めていた関係にやわらかな風が吹き込み始めます。
まずは自分を守るための重い正論の鎧をそっと下ろしてみる。
それだけで、人間関係の息苦しさは、少しずつ軽くなっていくはずです。
連載『答えを急がず、言葉を紡ぐ』
第1章:行き止まりの正体(なぜ人間関係でつまづくのか)-③
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