
「正しく生きなきゃ」をやめる。あるべき姿から降りる勇気
「もっと前向きにならなきゃ」「正しく生きなきゃ」
ふとした瞬間に、私たちは自分自身にこんな言葉を投げかけていることがあるかもしれません。
仕事がうまくいかなかった夜や、人間関係ですれ違いが起きて心が沈んでいる朝。
鏡の前に立ち、なんとか自分を奮い立たせようとして、無意識に呟いている言葉。
困難を笑顔で乗り越え、明るい未来を信じて進むポジティブな姿は、誰もが目指すべき「あるべき姿」として社会に根付いています。
しかし、「もっと前向きでいなければ」と自分に言い聞かせるとき、心の中は本当にポジティブな状態でしょうか。
少し立ち止まって言葉の根っこを眺めてみると、そこには「このまま立ち止まっている自分ではだめだ」「もっと前向きになれるはずなのに、そうなれていない」という、現状への強い自己否定が隠れています。
前を向こうとする言葉が、皮肉にも今の自分に刃を向けている。
そのことに気づかないまま、私たちは自分自身を叩き続けてしまうことがあります。
自分を強くし、奮い立たせてくれると信じて身にまとった「正論という鎧」が、外の世界から身を守るどころか、内側にいる自分自身を重く締め付け、呼吸を浅くしていくような、そんな感覚です。
苦しい現実の中、私たちが前を向くために本当に必要なのは、自分を否定することではありません。
抱えている落ち込みや動けずにいる状態を、そのまま大切に認め、受け止めること。
誰かから期待された姿や、世間が押し付けてくる正しさという、背負わされた荷物を、まずは足元にそっと下ろしてみること。
「あるべき姿」から勇気を持って降りることが、生き直しの最初のステップになります。
私自身も、かつてはその重い荷物に押し潰されそうになりながら生きていました。
社会のあちこちに潜む「普通」という無言の圧力に、自分の輪郭がうまく当てはまらないような感覚を覚え、いつも息苦しさを抱えていました。
家庭の中には両親の信じる確固たる「正しさ」があり、その基準に適わないと「だめだ」「足りない」「間違っている」と理不尽に怒られる日々。
そんな言葉の圧力を浴び続けるうちに、自分の現在地はいつも「マイナス」の場所にあると思い込むようになりました。
自分には決定的にダメな部分がある。
だから、それを直して変えていかなければならない。
マイナスからせめて「ゼロ」、「普通の人」と同じ場所に立つために、必死に自分を矯正しようともがいていました。
しかし、自分の欠点ばかりを見つめ、それを埋めようとする日常の中では、どこまで行っても心が休まりませんでした。
そんな私が「だめ」「足りない」という呪縛から解放されはじめたのは、中学生の頃の恩師と出会ったときからでした。
当時の私は、周りの「正しさ」に適応できない自分に深く悩み、毎日を深刻な面持ちで生きていました。
先生は、そんな私のうまく言葉にならないもつれた思いを、ただゆっくりと時間をかけて聴いてくれました。
具体的な解決策を提示したり、立派なアドバイスをしてくれたわけではありませんでした。
「こうすればいいよ」「もっとこうしてみたら」という言葉は一つもなく、ただどっしりと構え、そこにいる私の状態を温かく、そのままに受け止めてくれました。
ただ静かに聴いてもらう、それだけで張り詰めていた心がふっとほどけ、「ああ、私はこのままでも大丈夫なのかもしれない」と初めて感じることができた瞬間でした。
先生は、私がいびつな形をしていると感じていることを「直そう」とはせず、ただそのままの形として見てくれました。
変えようとするのではなく、今の自分の形を知る。
自分とはこういう人間なのだという「自己理解」を出発点に据えたとき、私はようやく、足りない何かを埋め合わせるために這い上がるような生き方を終わりにすることができました。
私たちは、何かを埋め合わせるために生きているわけであはありません。
足りない部分を探して直すのではなく、今ここにある自分という「現在地」を、いつでも新しい「原点」として据えて、そこから出発しなおせばいい。
「こうあるべき姿」から降りるのには、勇気がいります。
世間の基準から外れてしまうような、怖い気持ちになることもあります。
しかし、その強迫観念を手放し、「私はこうじゃないから、こうしなければ」ではなく、「私はこうだから、こうしてみようか」と考え始める。
そうやって等身大の自分を受け入れるようになってから、日常の景色は少しずつ穏やかなものへと変わっていきました。
以前の私であれば、予定通りに物事が進まなかった日や、どうしても体が動かない日には、「もっとできたはずなのに」「怠けているからダメなんだ」と、自分を厳しく責め立てていました。
できなかった自分をマイナスとしてカウントし、翌日にそのマイナスを取り返そうと無理を重ねる。
そんな終わりのない罰ゲームのような毎日でした。
しかし今は、自分ができないとき、思うように動けないとき、その現実をただそのままに受け止められるようになりました。
「今日は少し疲れていたんだな」
「体調が万全ではなかったから仕方がない」
「今は休息が必要なタイミングだったんだ」
「生きていればそんな日もある。今日はこれだけできれば充分だ」
そのように、できなかった理由を自分の怠惰や欠陥に結びつけるのではなく、ただ「現実」「状態」として眺める。
「もっとできたはず」という理想の姿から静かに降りて、「今日は調子が悪かった」という等身大の現在地に立つこと。
どうにも変えようのない現実に対して、「これを変えようとしても仕方がないのだ」と、よい意味で諦められるようになったことは、私にとって非常に大きな変化でした。
「なんとかしなければ」と焦り、無理をして自分をすり減らすことが、だんだんと少なくなっていきました。
変えられないものを無理に変えようとするのをやめていったとき、不思議と心に静かな余白が生まれていきました。
もちろん、生きているとまた何かに失敗して、自分はやっぱりダメだと感じる日もあります。
でも、そんなときは、その落ち込んだ場所をまた新しい「現在地」として捉え直せばいい。
深く落ち込んだように感じる日も、決して後退したわけではなく、そこがまた新しいスタート地点になる。
そこからまたどう変化していくかをゆっくりと感じていく。
自分の中にいる、自分でもわからない他者と対話するように、自分の今の状態をただ認めていく、そのような姿勢です。
そうやって「正しく生きなきゃ」という思い込みを手放し、自分の現在の形をそのまま受け入れることは、不思議と、目の前にいる誰かへの眼差しも変えていったように感じています。
自分自身を「こうあるべき」という枠から解放できたとき、私たちは自然と、他者のことも「あるべき姿」に当てはめようとする衝動から自由になっていくのだと思います。
相手を自分の期待通りに変えようとするのではなく、相手の輪郭もただそのまま眺めることができるようになるのでしょう。
答えを急ぐ必要はありません。
正しさから降りたあなたの目の前には、今の形が、ただそこにある。
その静かな安心感が、自分と他者にやさしい関係をゆっくりと育んでいきます。
連載『答えを急がず、言葉を紡ぐ』
第2章:自分を取り戻す「生き直し」のプロセス - ⑦
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