
自分のことがわからないと焦ったら。自分を「他者」として扱ってみる
「自分はどうしていつもこうなのだろう」
「なんで自分はこんな行動をとってしまうのだろう」
日々の生活の中でふと立ち止まり、そんなふうに感じたことはあるでしょうか。
たとえば、大切にしたいはずの家族や友人との関係において、気がつけば繰り返し相手を傷つけてしまう自分に出会ったとき。
「次こそは感情的にならないようにしよう」「今度こそ相手の言葉を静かに受け止めよう」と心に固く誓っていたはずなのに、いざその場になると、抑えきれない感情が波のように湧き上がり、気がつけば相手を突き放すような鋭い言葉をぶつけてしまっている。
嵐が過ぎ去り、静まり返った部屋で一人になったとき、胸の奥から強烈な自己嫌悪が押し寄せてきます。
「どうしてあんなことを言ってしまったのだろう」と、手のひらからこぼれ落ちていく関係性を前に自分を責め続ける。
そのような経験をもつ方も少なくないのではないでしょうか。
自分を変えたい、相手を大切にしたいと切実に願っているのに、まるで自分の中にコントロールできない別人がいて、勝手に心のハンドルを握られてしまったかのように、また同じパターンのつまづきを繰り返してしまう。
一番近くにいるはずの自分なのに、自分でも自分のことがわからなくなる。
その感覚は、決しておかしなものではありません。
むしろ、誰の内にも起こり得る、とても自然な感覚です。
私たちは普段、自分自身のことを一番よく知っていて、自分の意志で自分をコントロールできていると思い込んで生活しています。
自分が意識できている部分だけをすくい取り、それを言葉にして生きているため、無意識にそう錯覚してしまうのかもしれません。
わかっていると信じているからこそ、いざ言葉にできない自分の感情や、予期せぬ行動に直面したとき、私たちはひどく驚き、戸惑ってしまいます。
しかし、少し立ち止まって考えてみると、私たち自身の内側には、自分でも理解できないものが常に存在しています。
意識の奥底に静かに沈めている、過去の悲しみや怒り。あるいは、まだ見ぬ将来に自分自身が感じるであろう感覚。
自分のことであるはずなのに、言葉にならない、わからない部分は数え切れないほどあります。
わからない自分に出会って不安や戸惑いを感じたとき。
そんなときは、自分のわからない部分、理解できない部分を、思い切って自分の中にある「他者」として扱ってみるとよいかもしれません。
完全にコントロールできる「私」ではなく、そもそも思い通りにならない「もう一人の誰か」が自分のなかに同居している。
そんなふうに捉えてみる。
そして、心の中のベンチに、言葉を持たないもう一人の自分と一緒に腰掛けてみようなイメージをもってみるのです。
ここで大切なのは、目の前の他者に向き合う時と同じように、無理に理解しようとしないこと。
そして、無理に言葉にさせようとしないことです。
それでも、自分の感覚がどうしてもうまく言葉にならないとき、心はひどく焦るものです。
言葉にならないのは、まだはっきりとした輪郭を持たない曖昧な感覚だからかもしれないし、複雑な感情が絡み合っているからかもしれません。
あるいは、その新しい感覚を表現する言葉を、まだ自分の辞書の中に持っていないからかもしれません。
そのようなとき、湧き上がる心のモヤモヤに対して、急いで名前をつけたり、無理に言葉をあてはめようとする必要はありません。
言葉にならないものは、無理やり形を与えずに、そのままにしておいてよいと思います。
私自身も、自分の心がどうしても言葉にならず、重たい雲が立ち込めているようなときには、言葉を探すのを一旦やめて、音楽や絵画、舞台、映画などの芸術作品に触れる時間をもつようにしています。
特定の作品にこだわる必要はありません。
ただ、作品の世界に身をゆだねて、心を動かしてみるのです。
芸術を鑑賞していて感じるのは、それらを生み出した芸術家たちもまた、この世界を独自の感覚や感性で眺め、社会や自分の人生に潜む理不尽さに苦しみながら、必死に生きていたのだという事実です。
舞台や映画を観ているときも同じです。
そこに登場する人物たちが葛藤し、懸命に生きる姿に触れるとき、私は彼らの人生に、その生きざまに、そして「いのち」そのものに静かに寄り添われているような感覚になります。
私たちはつい「言葉にして原因を突き止めなければ解決しない」と思いがちですが、言葉にならなくても、同じように言葉にならない苦しみを抱えて生きた誰かの「いのち」の熱量に触れることで、不思議な安心感に包まれ、自然と絡まっていた糸がほどけていくということもあるものです。
そもそも、私たちが自分を説明しようとしているその「言葉」は、誰もが周囲の環境や親、友人といった外側の他者から学んできたものです。
つまり私たちは、自分の内側にいる「未知の他者」を理解するために、自分の外側にいる「他者の言葉」を借りて、なんとか表現しようと試みているにすぎません。
借り物の道具を使って複雑な自分の心に合う形を見つけようとしているのですから、うまく言葉にできず、隙間やズレが生じるのは当然のことです。
しかし、その「ズレ」こそが、私たちが自分自身の輪郭を知るための大切な道しるべとなります。
自分の中の「言葉にならない他者」と、外の世界にいる「異なる言葉をもつ他者」。
何気ない日常の会話の中で、相手の口からポロッと出た言葉に対して、「あ、まさに今の自分の感覚は、その言葉がぴったりだ」と突然輪郭が与えられることがあります。
あるいは、相手が発した言葉が自分の辞書には全くない、初めて触れるニュアンスの言葉だったとき。
私はよく、相手にこう尋ねてみます。
「今の言葉、私の辞書には無かったのだけれど、あなたにとって大切な言葉なの?」
そうやって問いかけてみると、それまで知らなかったその人独自の感覚や経験、心の奥で大切にしている価値観が、ゆっくりと見えてくるようになります。
自分とは全く違うその人の内側の景色に触れることで、私自身もまた、新しいことを考え、自分自身の輪郭を捉え直すきっかけをもらうのです。
自分が使わない言葉への違和感や、相手の言葉への純粋な問いかけを通して、「あなたはそう感じるんだね。私の感覚はここにあるようだ」と自他の間に境界線が引かれ、自分の現在地が少しずつ浮き彫りになっていきます。
私たちは、自分の中の他者とも、目の前の他者とも、完全に分かり合うことはできないかもしれません。
でも、それでいい。
無理にコントロールしようとせず、借り物の言葉で急いで答えを出そうとせず、ただ「わからないもの」として、適度な距離を保ちながら眺めてみる。
わからなさを受け入れる心の余白が生まれたとき、自分自身を生き直すための、新しく静かな対話が始まっていきます。
連載『答えを急がず、言葉を紡ぐ』
第2章:自分を取り戻す「生き直し」のプロセス - ⑥
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