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傷は無理に乗り越えなくていい。今の自分の隣に静かに座ってみる

    何年も前の出来事を、朝方にふと夢で見ることがあります。

    目が覚めた瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられ、心臓がいつもより速く打っている。
    布団の中で天井を見つめながら、「まだ自分はあのことを引きずっているのか」と、起き上がる前からどっと疲れが押し寄せてきます。
    かつて自分に向けられた視線や、耳を塞ぎたくなるような言葉が頭から離れず、朝の支度をしている間も重たい鉛を抱えているような気分が続きます。

    「もう随分と時間が経ったのだから、前を向きたいのに」 「自分はいったいいつまで、過去の記憶に縛られているのだろう」

    誰かに傷つけられたはずなのに、今度はその記憶にとらわれている自分自身を責めてしまい、繰り返し心を消耗させていきます。

    形は違えど、過去の失敗や苦しい記憶に、足元がぐらつくような感覚を覚えるとき。
    そんなときには、少し呼吸を整えて思い出してほしいことがあります。

    繰り返し見る夢や記憶は、どこまでいっても過去の断片であって、いま目の前にある現実そのものではありません。
    どれほど生々しく当時の痛みが戻ってきたとしても、それは夜の静けさの中に映ろう影のようなものです。
    本当の現実は、いま目の前にある部屋の明るさや、窓の外から聞こえてくる音、蛇口をひねったときの水の冷たさ、そしてこれからあなたが過ごしていく日常の中にあります。

    過去の記憶を何度も引っ張り出して苦しむより、いま目の前にある一日をどうすれば少しでも安全にやり過ごせるか。
    そのことへと、少しずつ気持ちを向けていけたらと思います。

    とはいえ、不安を感じて胸の鼓動が激しくなるようなとき、頭で無理に前向きに考えようとしても、体はすぐには落ち着いてくれません。
    感情や身体の反応は、理屈でコントロールできるものではないからです。

    そういうとき、私は胸のあたりにそっと手のひらを当てて、優しくさするようにしています。
    子どもの背中をとんとんと叩くときのように、手のぬくもりを感じながら、「大丈夫、大丈夫」と小さく声に出してみます。
    不思議なもので、胸に触れてゆっくり撫でていると、激しく打っていた心臓が少しずつ本来のリズムを取り戻していきます。同じことでなくても、温かいお茶を飲むことでも、外の空気を吸い込むことでも構いません。
    「これをすると少し呼吸が落ち着く」という自分なりの動作を持っておくことは、不安や落ち込みの波に呑まれそうになったとき、自分にとっての小さなお守りになってくれます。

    私自身、家族との関係、特に幼少期に父親から受けた虐待によって、心に深い傷を負った経験があります。
    大人になってからも、ふとした瞬間に当時の恐怖や無力感がよみがえり、日常生活の足元がぐらつくことがありました。

    あるとき、心理師の方に相談する機会がありました。
    私の話を聴いたあと、その方は「専門的なケアをきちんと受けて、この傷と向き合った方がいい」と助言してくれました。
    客観的に見れば、それはまったく正しいアドバイスだったと思います。

    しかし、当時の私は日々の生活を回すだけで精一杯でした。
    仕事に忙しくしている日常の中、時間的にも精神的にも、過去の重い傷を掘り返して向き合う余裕はどうしても残っていませんでした。
    無理に向き合えば自分が壊れてしまうのではないかという恐怖もありました。

    迷った末に、私は「いまは向き合うのをやめます」と正直に伝えました。
    逃げたように思われるかもしれないと不安でしたが、心理師さんは私の言葉を否定せず、「いまは向き合わないという選択も、とても大切な判断ですよ」と、静かに受け止めてくれました。

    心に傷を抱えているとき、私たちは早くその苦しみから解放されたくて、「早く解決しなければ」と焦ってしまうことがあります。
    けれども、傷と向き合うことには想像以上のエネルギーが必要です。
    心が弱り切っているときに、無理に解決へ向かって突き進む必要はありません。
    いまは向き合わず保留にしておくこと。
    それは決して後退ではなく、自分自身をこれ以上傷つけないための、正当な自己防衛の選択です。

    それからしばらくの間、私は傷の解決を急ぐのをやめ、ただ今日一日を無事に過ごすことだけを考えて暮らしていました。

    転機となったのは、ある人との出会いでした。
    その人は、私の話を途中で遮ることも、何か解決策を提示してくることもなく、ただ私のまとまらない言葉を、長い時間をかけてじっくりと聴いてくれる人でした。
    急かされることのない安心感のある対話の中で、私はその人の助けを借りながら、胸の奥に押し込めていた自分の思いを、少しずつ言葉にしていきました。

    話したからといって、過去の事実が変わるわけでも、心の傷が消えてなくなったわけでもありません。
    しかしそれでも、誰かに急かされることなく言葉を紡いでいく過程の中で、私の中に確かな変化がありました。

    それは、「自分の中にその傷や痛みがあることを、そのまま受け止められるようになった」という感覚です。
    傷をなくしてきれいな自分になろうとするのではなく、「ああ、自分の中にはこんなにも痛む場所があったんだな」「あの痛みを抱えながら、今日まで必死に生きてきたんだな」と、傷ついた自分を否定せずに眺められるようになりました。

    膝をすりむいたときのことを思い出してみてください。
    時間が経てば血は止まり、皮膚はふさがります。
    しかしそこには白っぽい痕が残ったり、触ると少し硬くなっていたりします。
    雨が降って冷え込む日には、昔痛めた場所が鈍くうずくこともあると思います。
    それは傷が治っていないのではなく、体がその傷を引き受け、痛みを抱えながらも今日まで生き続けてきたという自然な証拠です。

    心の傷も、それとよく似ています。
    世間では「過去を乗り越える」「克服する」と言われますが、心の深い傷も、体の痕と同じように完全に消えることはないのかもしれません。
    何年経っても、ふとした拍子に痛む日があるのは、あなたが弱いからではなく、ごく自然なことです。

    完全に消そうと無理に擦れば、かえって傷口は開いてしまいます。
    古傷を抱えた体をいたわるように、心に対しても「ここにはまだ痛む場所がある」と認めて、そっと労わりながら生きていくこと。
    傷を抱えたままであることと、今日を穏やかに生きていくことは、十分に両立します。

    「傷を克服して、早く強い自分にならなければいけない」 もしかするとその焦りもまた、自分が自分に向けていた「正論」だったのかもしれません。

    傷を負った自分を「乗り越えるべきもの」として見るのをやめ、痛みを抱えたままの「今の自分」の隣に、ただ静かに腰を下ろしてみる。
    傷を負って立ち止まっている自分を責めたり急かしたりせず、雨宿りをしている大切な友人の隣にそっと座るように、自分自身の隣に座ってあげること。
    「まだ痛むんだね」「ここまでよく生きてきたね」と、ただ同じ空間で息を共にするだけで十分です。

    自分の痛みに対しても、答えを急かさずに待てるようになったとき、私たちは初めて目の前で立ち止まっている誰かの隣にも、正論を振りかざさずに静かに座っていられるようになるのではないでしょうか。
    自分自身との間に引いたやさしい境界線が、他者との間にも、穏やかな風を通してくれるようになるのだと思います。

    過去の事実は変えられません。
    けれども、傷を抱えているからといって、これからの人生がすべて損なわれてしまうわけではありません。
    痛むところを優しくかばいながら、いま歩ける速度で進んでいけばいいのです。

    無理に乗り越えなくていい。
    傷ついた自分を、置き去りにしなくていい。

    傷を抱えたままの自分と一緒に、ただそこに留まること。
    その静かな時間の中から、本当の対話が、そしてあなたの新しい日常が、ゆっくりと始まっていきます。


    連載『答えを急がず、言葉を紡ぐ』
    第2章:自分を取り戻す「生き直し」のプロセス - ⑩


    【連載・記事一覧は以下】


     
     
    対話ファシリテーター。牧師として10年間で延べ500名の声に耳を傾けてきた一方、自身もまた正論に苦しんできた過去を持つ。現在は「正解を説く」立場を手放し「言葉が生まれるまで待つ」スタンスへ転身。分かり合えないことを前提に、答えを急がず自分と他者に向き合う実践的なヒントを伝えます。

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