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分かり合うことを「諦める」ところから、本当の対話ははじまる

    「言葉を尽くして説明しているのに、どうして理解してもらえないのだろう」 そんな風に、やるせない気持ちになった経験はありませんか。

    わかってほしいと強く願うときほど、なぜわかってもらえないのだろうと焦りを感じてしまう。
    あるいは、しっかり伝わっていると信じていたのに、あとになって「全然伝わっていなかった」と気づいて愕然とする。
    家族や友人など、距離が近くなればなるほど、伝わらないことへの苛立ちや悲しみは大きくなります。

    私自身も、長い間この「わかってもらえない」という苦しみの中にいました。
    中学生の頃から、周囲の人たちが当たり前としている「普通」の感覚と、自分の感覚との間に、どうしても埋めようのないズレを感じていました。
    子どもの頃から他者の視線が過剰に気になったり、いわゆる「空気を読む」ことができなかったり。
    友人の冗談が冗談だとわからず、言葉通りに受け取ってひどく戸惑ってしまうなど、同世代の輪に馴染むことができませんでした。

    自分が日々感じているこのヒリヒリとした感覚を、誰とも共有できない。 誰にも理解してもらえない。
    その事実を肌で感じるたびに、「この世界には、自分を完全に理解してくれる人は誰もいないのだ」と、絶望にも似た思いを抱えていました。

    理解してもらえないやるせなさは、時に鋭い刃となって身近な人に向かいました。
    中学生の頃は、そばにいてくれる友人に、わざと冷たい言葉をぶつけて傷つけてしまったこともありました。
    だからこそ、自分を丸ごと理解し、受け入れてくれる人を長年探し求めてきたのです。

    ありがたいことに、私を懸命に理解しようと歩み寄ってくれる人はいました。
    しかし、どれほど理解してもらいたいと強く願っていても、いざ誰かに「あなたの気持ち、わかるよ」と優しく言葉をかけられると、心の中で反射的に「わかるはずがない」と冷たく突き放してしまう自分がいました。

    なぜなら、私たちが自分の感覚や感情を、他者と完全に共有することは絶対に不可能だという事実を、私自身が誰よりも痛感していたからです。
    私自身が他者の内面を完全に理解できないと感じていたからこそ、他者が私の内面を完全に理解できるはずもないと、どこかで静かに悟っていたのです。

    相手の優しさに触れるほど、それに同じように応えられない自分、わかち合えない自分を突きつけられるような気がして、「ひとりにしてほしい」と、自分から大切な人を突き放してしまったことも何度もあります。

    どんなに優しくされても、大切に扱われても、心の奥底にある孤独が消えることはありませんでした。
    そんな私は、ある時、森有正という哲学者の言葉に出会いました。

    「その人自身の固有の感覚から独自の経験が生まれ、言葉はその唯一無二の経験から立ち上がってくる。それゆえに人は本質的に孤独である」

    そのような彼の思想に触れたとき、私がずっと抱えてきた「孤独」は、まぎれもない事実なのだと突きつけられました。
    しかし不思議なことに、その揺るぎない事実を前にしたとき、私の中で絡まっていた糸がふっと解けていくのを感じたのです。

    この世界には、人が本質的に孤独であるという事実を直視し、それでもその孤独を大切なものとして抱きしめながら生きていた人が確かに存在した。
    その事実に、私は深く救われました。 わかり合えないこと、孤独であることは、直すべき欠陥ではありません。
    それは、私が「他の誰でもない、私という人間であること」の大切な証でした。

    私たちは本質的に孤独です。
    しかし、孤独な私たちは、それぞれの孤独を抱えながら、それでもこの世界で一緒に生きていくことができる。
    そのことに気づいたのです。

    それ以来、私は自分の感覚や経験、そこから生まれる言葉、そして抱えている孤独を、とても大切に思って生きてきました。
    無理に誰かにわかってもらおうと焦るのをやめ、自分の内側にあるものを静かに見つめることができるようになりました。

    自分の孤独を尊ぶことは、同時に、他者の抱える孤独を尊ぶことでもあります。
    私の目の前にいる相手もまた、固有の感覚を持ち、独自の経験を積み重ねてきたはずです。
    そこから紡がれる言葉もまた、私と同じように、誰にも侵すことのできない、かけがえのない大切なものです。

    だからこそ、私たちはひとつの大前提に立つ必要があるのだと思います。
    それは、「私たちはお互いを完全に理解することはできない」という事実です。

    同じ事柄を一緒に見聞きしていたとしても、人それぞれが生まれ持った感覚の違いや、これまでに積み重ねてきた経験の違いによって、その受け止め方は大きく変わります。

    たとえば、誰かと一緒に同じ映画を見たとします。
    見終わったあとに、お互いが同じように「すごく感動したね」と言葉を交わしたとします。
    しかし、実際にはその「感動」の中身は、人によって全く違います。
    主人公の不器用な生き方に心を打たれたのか、美しい風景描写に涙したのか、あるいは自身の過去の記憶と重なって胸が熱くなったのか。
    「感動した」という一言だけで、同じ気持ちを共有できたと満足しても構いません。
    ただ、もしお互いの違いをもっと知りたければ、「どこに感動したの?」「どんな風に感じた?」と言葉を交わして、対話してみるとよいかもしれません。完全に一致することは難しくても、そこには「自分にはない感性や感覚」に触れることができる、とても豊かな時間が流れていきます。

    一方で、そのようにお互いの違いにあえて踏み込まず、ただ違いをそのままにしておくことも、ひとつの大切な選択肢です。
    大切なのは、「相手は自分とは異なる存在である」という前提を見失わないこと。
    同じでなくてもいいし、同じにならなくてもいい。
    相手に対して、自分と同じ考えや感覚を持つように強制することはできませんし、自分もまた、相手から同じものを強要される必要はありません。

    決して同じにはなれないということを大前提として覚えておくこと。
    違いをそのままにしておいてもいいし、無理に白黒つける必要もありません。
    それでも、もしその違いについて言葉を交わし、対話をしようと試みるならば、ひとつだけ気をつけておきたいことがあります。

    それは、「相手を変えようと思わないこと」です。

    相手の境界線の内側に土足で踏み込まない。
    そして、自分の境界線の内側にも相手を安易に踏み込ませない。
    「完全に分かり合うことはできない」という事実は、決して相手を冷たく突き放す言葉ではありません。
    それは、お互いに無理をして同じになろうとするプレッシャーを手放し、風通しの良い関係を築くための、やさしい希望です。

    相手を理解しようとすることを、良い意味で「諦める」。
    その静かな諦めを抱くところから、お互いの感覚や言葉を尊重し合う、本当の対話がゆっくりとはじまっていきます。

    分かり合えないまま、それでも一緒にいるために、私たちは互いの間にある境界線の手前で、答えを急がずに言葉を紡ぎ続けるのではないでしょうか。


    連載『答えを急がず、言葉を紡ぐ』
    第1章:行き止まりの正体(なぜ人間関係でつまづくのか)- ⑤


    【連載・記事一覧は以下】


     
     
    対話ファシリテーター。牧師として10年間で延べ500名の声に耳を傾けてきた一方、自身もまた正論に苦しんできた過去を持つ。現在は「正解を説く」立場を手放し「言葉が生まれるまで待つ」スタンスへ転身。分かり合えないことを前提に、答えを急がず自分と他者に向き合う実践的なヒントを伝えます。

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