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「ここから先は入らないで」。自分を守る確かな境界線を引く

    人と人が関わり合いながら生きていく中で、私たちは気づかないうちに、誰かの心の中に土足で踏み込んでしまったり、逆に自分の最も柔らかい部分に踏み込まれてしまったりすることがあります。
    相手との距離感がわからなくなり、関係性が息苦しいものに変わっていく。
    その背後には多くの場合、自分と他者との間にあるべき「境界線」が曖昧になっているという事実があります。

    私たちの日常は、残念ながらその境界線を越えてくる言葉や態度であふれています。
    職場で先輩が「あなたのためを思って」とやり方を押し付けてくる場面。
    親などの大人が子どもの進路に「言う通りにすれば間違いない」と過剰に干渉してくる場面。
    これらは善意や心配の仮面をかぶっているため、無下に断ることが難しく、私たちは少しずつ自分の領域を明け渡し、他者の価値観を自分の内側に入れてしまうことがあります。

    思い返してみると、私自身も子どもの頃から、自分の人生の決定権を自分以外の誰かの手の中に握られていたような感覚がありました。
    私は熱心なキリスト教徒の家庭に生まれ育ちました。
    幼い頃の私は、パイロットになりたい、運転手になりたいと、純粋に自分の夢を語るごく普通の子どもだったように思います。
    しかし成長するにつれ、私の選択の基準は「自分がどうしたいか」ではなく、「神のみこころ(神様の意思)」にすり替わっていきました。

    日曜日に友達と遊んではいけない。お祭りに行ってはいけない。寺社仏閣に足を踏み入れてはいけない。
    見てはいけないテレビ番組があり、やってはいけないゲームがある。
    日常のあらゆる場面に「正しさ」による制限が張り巡らされていました。
    親の思いや教えが目の前に立ちはだかるとき、それに反する自分の気持ちを口にすることは許されませんでした。
    それが当たり前で、それが「普通」の家庭なのだと思い込んでいました。

    そうやって「自分はどうしたいのか」を自分自身に問いかけることを諦め、少しずつ自分の輪郭を削り落としていくことが、波風を立てずに生きるための私の処世術となっていきました。
    大人になり、ようやくその環境から離れて自由になったとき、私は初めて、自分がどれほど不自由な世界で息を潜めていたのかを知りました。
    自分の好きなものや、やりたいことさえ分からなくなっていたのです。

    境界線を引くのが苦手だった私は、大人になってからも他者の感情に対して線を引くことができず、相手の期待通りに動けない自分を責めてしまう癖がついていました。

    特に私の心をすり減らしたのは、他者の「不機嫌」という感情です。
    本来なら相手が自分で処理するべき感情や責任を、「私のこの不快な気持ちを、あなたがどうにかしなさい」と無理やり背負わせる行為。
    かつての私は、「相手が不機嫌になったのは自分が悪いからだ」と思い込み、いつも相手の顔色をうかがうようにして生きてきました。

    しかしある時、私はハッとさせられる経験をしました。
    それは、私自身が大切な人の境界線を踏み越えてしまったときのことです。

    長年、私は自分の不機嫌や不快感の責任をパートナーや友人に負わせようとする傾向がありました。
    「あなたのせいで生まれた私のこの不快感を何とかしてほしい」と、無意識のうちに自分の感情の処理を相手に押し付けていたのです。

    ある日、私の不機嫌な態度に対して、相手は私の目をまっすぐに見つめ、静かに、しかしはっきりとこう言いました。
    「なぜ私が責められなければならないのか」と。

    その言葉を聞いた瞬間、私は相手の目を見つめ返すことができませんでした。
    冷や水を浴びせられたような衝撃の中で、私は一つの恐ろしい事実に気がつきました。
    私は、自分がされてあんなに苦しかった「不機嫌をぶつけて相手をコントロールする行為」を、両親と同じように、一番身近な人にやってしまっていたのです。
    自分の感情の責任を相手に負わせ、相手の領域に土足で踏み込んでいた事実に、その時はじめて気がつきました。

    自分が、自分の感情を他者に背負わせていたこと。
    そしてそれまで、私自身もまた他者の感情を背負いすぎていたこと。
    この両方の経験を経て、私は人間関係において「責任を切り分ける」ということの大切さを痛感するようになりました。

    自分が負うべき責任と、本来は相手自身が負うべき感情や課題。
    それらを見極め、間にしっかりとした見えない境界線を引くということです。

    責任を切り分けるというのは、目の前に一緒に運ばなければならない「重い荷物」があったとき、「私は今日少し疲れているから、この小さい包みだけ持ってもいいかな」「ここから先の荷物は、あなたが持ってくれる?」と、お互いの状態を確認し合い、どれくらいずつ分けて背負うかを一緒に考えるようなことです。
    互いを思いやり、協力して、それぞれが負うべき責任を切り分けていく。境界線を引くとは、本質的にはとても温かく、協力的な作業なのです。

    しかし、中には一緒にそれをしてくれない人もいます。
    こちらの負担にお構いなしに自分の荷物をすべて押し付けてくる人や、不機嫌という感情を使って、その場を支配しようとする人です。
    そのような場合にも、「仕方ない」と自分がすべてを背負い込んで潰れてしまう必要はありません。
    物理的な距離をとったり、心理的な連絡の頻度を減らしたりして、過剰な荷物をそっと下ろすことが何よりも大切です。

    私たちは人間関係の中で、何度もぶつかり、すれ違います。
    相手の領域に踏み込んでしまったり、踏み込まれすぎて痛い思いをしたりしながら、「どこまでが自分で、どこからが相手なのか」を手探りで知っていく。
    境界線を引き直していくその過程は、自分という人間の「輪郭」をなぞり、理解していく道のりそのものです。

    無理に分かり合おうとして互いの領域を侵食し合うのではなく、「ここまでは私が持つね」と互いの輪郭を尊重し合う。
    そうやって引かれた境界線の先にこそ、お互いを脅かすことのない、やさしい関係性が広がっていくのだと感じています。


    連載『答えを急がず、言葉を紡ぐ』
    第1章:行き止まりの正体(なぜ人間関係でつまづくのか)- ④


    【連載・記事一覧は以下】


     
     
    対話ファシリテーター。牧師として10年間で延べ500名の声に耳を傾けてきた一方、自身もまた正論に苦しんできた過去を持つ。現在は「正解を説く」立場を手放し「言葉が生まれるまで待つ」スタンスへ転身。分かり合えないことを前提に、答えを急がず自分と他者に向き合う実践的なヒントを伝えます。

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