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神楽坂、日給4,000円。

    一

    20歳の頃、僕は、自分が何をしたいのかが、まったくわからなかった。

    専門学校を中退して、カラオケのバイトと居酒屋のホールと、ときどき日雇いの仕事を、ぐるぐる回っていた。やりたいことがない、というよりは、やりたいことを探そうとする気力がまだ湧いていなかった。

    そんなとき高校時代の同級生Aから声をかけられた。

    「あ、そういえば。編集部で誰かバイト入れたいって言ってるんだけど。やってみない?」

    Happie nutsという雑誌の名前を、その瞬間にはじめて聞いた。Aがその編集部でバイトをしているのもはじめて知った。僕は雑誌をまったく読まない人間だった。ギャル雑誌だ、と言われても表紙の絵すら浮かばなかった。

    それでも、ふとこう思った。

    ──知らない世界を、知れるかもしれない。

    それだけだった。立派な志などはなかった。ただ、書くのはそこそこ好きだったけれど、しゃべるのがずっと苦手な人間だったので、もしかしたら編集の仕事をすれば、書くことと話すことの間に橋がかかるかもしれない、という淡い期待が頭の隅にちょっとだけあった。

    履歴書を1枚書いた。中退した専門学校の名前を書き、それまで転々としたバイト先を適当な順番で並べた。書き終えたあと、自分の履歴書を眺めて僕は思った。

    ──薄いな。

    その日、僕は20歳だった。履歴書1枚分の人生しかまだ持っていなかった。

    その薄い紙を握って神楽坂のオフィスに向かった。坂の街だというのは聞いていたけれど、実際に降り立ってみると思っていたよりも坂が急だった。住宅街と、小さい料理屋と、出版社のビルが混ざり合うように並んでいた。

    面接は10分で終わった。

    軽いノリの編集長から最後にこう言われた。「で、いつから来れる?」

    それで終わりだった。

    2004年11月。雑誌をほとんど読まない、教養もない、毎週クラブで踊っていただけのはぐれギャル男みたいな20歳が、ギャル誌の編集部にぬるりと足を踏み入れた。

    その瞬間、僕は自分の人生がちょっとだけ動いた、ということを感じていた。だけど、その動きが何の動きなのかは20年経ったいまでも、完全には言葉にできていない。

    二

    初日の最初の仕事は、領収書を書くことだった。

    それも誰かの経費の領収書ではない。自分の日当をもらうための領収書だった。

    金額と但書と自分の名前や住所、電話番号を紙に書く。それを編集長に渡す。編集長が経費袋のなかから、その分のお金を僕に渡す。

    これが僕の毎日のいちばん最後のルーティンだった。

    僕の身分は編集部雇いのアルバイト。会社の人件費の表には乗らない。雑費だ。要するに僕という人間は、会社の正式な名簿のうえにはいない。

    日給、4,000円。
    (後年、僕は1年ごとに1,000円ずつ昇給して、日給6,000円に登り詰め、会社雇いのアルバイトになり、契約社員となり月収30万弱を手にすることになる。)

    タイムカードは、なかった。

    朝十時に出社する、というだけは決まっていた。電話が鳴ったら誰よりも早く取る、というのも新人のルールだった。それ以外には出退勤を管理するものは何もなかった。

    必ずいなければいけないのが10時であって、他のルールはない。

    終電があるのでと帰ろうとすると「じゃあ、もう明日から来なくていいよ」と言われてからは終電なんてものを気にすることはなくなった。

    タクシーで帰ったとしてもその代金は出なかった。

    その日のリアルな計算はこうだった。

    日給 4,000円。 昼飯 800円+タバコ300円。 夜飯 700円。 タクシー代 2,500円。

    差し引き、財布のなかはマイナス。

    これが、しばしばあった。1日働いたのに、家に帰る頃には、財布の中身が少なくなっているということがふつうにあった。

    ──なんのために働いているのか、よくわからない。

    これが20歳の僕の、毎日のいちばん大きな感覚だった。

    それでも僕は辞めなかった。スタジオに連れていってもらった日のことを覚えている。本物のモデルがいて、本物のカメラマンがいて、スタイリストがいて、ヘアメイクさんがいた。誰も僕のことを見ていなかったけれど、そのスタジオの空気は僕にとってはまったく新しい温度の、まったく新しい光だった。

    その温度と光のなかに、自分はとてつもなく面白そうな場所に紛れ込んだ、という直感があった。直感は根拠よりもきっと強い。

    三

    入社して半年が経った頃、僕はひとつの考えを持っていた。

    ──もう、辞めようかな。

    仕事は大変だった。給料は安かった。タクシー代は出なかった。家に帰れない日が増えていた。見て覚えろタイプの先輩が多い。そんな職場で僕はずっと自分を立たせていた。

    ある日、僕は別の編集部の先輩に愚痴と相談をこぼした。

    「辞めようかと思ってるんですよね」

    それから少しして、辞めようと思っていると聞きつけた別冊の編集長に声をかけられた。それが中條さん、という編集長だった。

    中條さんは当時26歳。僕より5歳上だった。ぱっと見はギャルだった。それでいて、なんとなく優しそうな空気を持った人だった。フロアを歩いているのを、僕は何度か遠目に見ていた。ぱっと見のギャルっぽさのせいなのか、なんとなくちょっと怖い人だ、と勝手に思い込んでいた。

    そんな中條さんから、ある夜誘われた。

    居酒屋だった。神楽坂界隈のありふれた木の天板の店だった。

    最初はなんでもない雑談をしていた。何杯目かのお酒が空になったあたりで、中條さんがふいにこう言った。

    「ねえ、別冊のチーム来ない?」

    それまでの会話のテンポからは、ちょっと突然だった。中條さんは続けてこう言った。

    「君みたいに、男の子なのに女の子の気持ちがわかる人って、10万人に1人だよ。いや、100万人に1人かもしれない」

    僕は聞きながら、嬉しかった。

    そして、それと同じくらい不安だった。

    そんなふうに言ってもらえるほどのものを、僕はまだ持っていなかった。100万人に1人という言葉の重みは、当時の僕にはちょっと重すぎた。

    いま振り返れば、もしかしたら中條さんは単純に人手が欲しかっただけかもしれない。おだてて引っ張ってきただけかもしれない。大人のよくある手だ。

    それでも、その夜の僕は嬉しかった。その嬉しさはいまでも覚えている。

    何度か誘われて、最後に「週3日でいいから」と言われて僕は折れた。別冊のチームに移った。

    別冊チームにはもう一人、編集部のバイトとして働いていた女の子がいた。仮にKちゃんと呼んでおく。明るくてよく笑う子だった。

    別冊チームに移るのと同時期にKちゃんが盲腸で入院した。Kちゃんが担当していた企画が、突然僕の手元に渡ってきた。

    撮影はもう終わっていた。あとは取材と原稿を書くだけ。

    「だけ」と書いた。が、それが地獄の入口だった。

    書いた。中條さんに見せた。

    「うーん。ぜんぶ、ダメ」

    何がダメなのか、すぐにはわからなかった。直してもう一度見せた。

    「うーん。ぜんぶ、ダメ」

    書き直した。

    「ぜんぶ、ダメ」

    2週間、家に帰れなかった。「週3日でいい」と言われたあの誘い文句は、いったいどこに消えたのか、僕にはもう追いかける気力すらなかった。

    中條さんは多くを語らなかった。「もっとこうで」と少しだけ説明してくれることもあった。けれど最後はだいたいこういう言葉だった。

    「うーん、なんかね、センスの問題かなぁ」

    僕はあとから気づくのだが、上に立つ人ほど言葉が少なくなる。抽象的になる。中條さんは自分が見ているものを、ぜんぶ言葉にはしないタイプだった。だから僕は、その少ないかけらから中條さんの中の風景を、勝手に想像して勝手に再現するしかなかった。

    そして、ある日の朝、神が降りた。

    締切の朝だった。あとはキャッチコピーが決まれば、原稿は閉じられる。僕はネタを使い果たして、椅子の上で呆然としていた。脳みそが空っぽだった。

    そして、突然、なぜか、書けた。

    ぐちゃぐちゃに、いっぺんに、思いついた言葉をぜんぶ書き出した。
    並べ替えて、削って、組み替えて、提出した。

    ぜんぶ、通った。

    ──神が降りた。

    それ以外に、表現のしようがなかった。

    いまから考えると、きっと神が降りたのではない。僕の脳が燃え尽きて、限界を超えていたから、逆に考えすぎないで発想できたというだけの話だ。人は、考えすぎているうちはいちばん大事な答えにたどりつけない。考えすぎるのを強引に止めてくれるのは、きっと疲労なのだ。

    それから先、僕はキャッチコピーで迷うことがあまりなくなった。

    中條さんから教わったコピーの書き方は、20年経ったいまも僕の指先に染み込んだ骨格になった。見てもらえなければ意味がない。だから、リズムを意識しながら印象的なワードを下から上へと作っていく。たったそれだけのことを、僕は2週間書き直して書き直して、ようやく身体に覚えこませた。

    これは20年後の今日も、僕の指先に力を与える骨格となった。

    僕は、心の中でこう決めた。

    ──この人についていこう。

    四

    中條さんと僕たちが別冊チームで作っていた雑誌は、しばらくして名前を変えた。

    『小悪魔ageha』──創刊。

    2005年10月。僕は21歳になっていた。

    それから数年、編集部は4人だった。中條さん、先輩のOさん、Kちゃん、それから僕。それで全員だった。入れ替わりで来るアルバイトの子はほとんど長くは残らなかった。

    二週間に一度だけ、僕はお風呂に入りに家に帰った。

    冗談で書いているのではない。本当にそうだった。それ以外の時間はずっと編集部にいた。20時間、22時間と働いて、編集部の倉庫やデスクで2時間ほど仮眠を取る。これが僕の毎日の繰り返しだった。

    椅子を三つ並べて寝床にすると、そのうち寝返りを打てるようになる。これは自分でも軽い達成感のある、編み出したスキルだった。

    ある夜もうひとつのテクニックも編み出した。机の引き出しを少しだけ開けて、その縁にジャケットを挟む。ジャケットの裾を机の縁から床の方向にだらりと垂らす。完成すると、机の下に即席のカーテンつきの寝室ができた。机の下に丸まって寝るとふしぎと落ち着いた。たぶん無意識に、誰の足音も入ってこない場所、というほうが人間は安心できるのだと思う。

    クリエイティブな寝床、と言うことができる。
    (……というのは、きっと、ぜんぶ、負け惜しみだ。)

    曜日感覚はなかった。時間感覚もなかった。食事は撮影の残り物を分けてもらった。コンビニのおにぎりやお菓子を食べた。

    そんなふうに毎月の入稿が続くなか、忘れられない夜が来た。

    ある号の校了の日。深夜。

    僕が担当していたページの一部の内容が、どうしても埋まらなかった。絶対的な最終締切まであと30分しかなかった。それを超えたら印刷所の輪転機が止まる。雑誌が発売できない。

    僕の背中のほんの数歩後ろに、印刷所の担当の人が立っていた。ずっと立っていた。

    「あと30分以内にもらえなければ、もう刷れません」

    どこか威圧的に、でも冷静にそう言った。

    僕は、ふっと立ち上がりトイレに行った。

    トイレの個室に入った。便器のフタを下ろし、その上に座って、両手で顔を覆った。

    そして、こう思った。

    ──このまま逃げようか。トイレの窓から飛ぼうか。

    本気で思った。

    雑誌の発売日が延期になるというのは、業界では致命的な大事件だ。広告枠のスケジュールがぜんぶズレる。印刷所への損害が出る。記事の鮮度が落ちる。たぶん、損失は軽く1億円を超える。

    僕がここから飛ぶと、その責任はうやむやにできるかもしれない。でもそれは何も解決していないこともわかっていた。

    そう考えた瞬間、僕は立ち上がった。

    トイレを出た。編集部に戻った。パソコンを開いた。そして自力で最後のページをなんとか埋めた。

    なんとかなった、ということは、なんとかするんだ、ということだ。その夜、僕はそれを身体で覚えた。

    ひりつきの極限、というものを人生ではじめて本物で味わった。冷や汗が止まらなかった。

    その夜以降、僕はハプニングや修羅場で焦るということがなくなった。

    ──なんとかしてきた人間は、なんとかなる、と知っている。

    命を削って、誰かをキラキラさせる。それはふつうの仕事の論理では、きっと説明できない。でも僕たちはそれを毎月、ふつうにやっていた。雑誌の中の女の子たちは、誌面の上で笑っていた。読者の女の子たちは、書店で、その笑顔のために、お小遣いを払ってくれていた。その裏側で僕たちは、机の下で丸まって寝ていた。

    そのころ神楽坂の会社のエントランスには、いつのまにか小さな滝ができていた。水が流れる滝だった。コーヒーが飲めるラウンジもできた。さらに社長がどこぞのクラブを買ったらしい、という噂までもが編集部に流れてきた。

    雑誌が売れていたからだ。『小悪魔ageha』の発行部数は、いつのまにか30万部を超えていた。

    ただ、そういうエントランスの景色を、僕がじっくり眺める時間はもうなかった。エレベーターのほうへと急ぐ途中で、視界の端に入り込んでくるくらい。それくらいだった。会社が派手になっていく速度に対して、僕たちの編集部の景色は何も変わっていなかった。

    不思議と、それでも嫌ではなかった。

    校了が明けてしばらくして、近所のコンビニに刷り上がったばかりの『小悪魔ageha』が並ぶ。雑誌コーナーの棚に並んでいる。誰かの手が棚からそれを抜いていく。レジに運ばれていく。「これ、お願いします」と店員に渡されていく。

    その光景を、僕は何度か、目にした。

    自分の作ったものを、知らない人がふつうに買っていく。それだけで、僕の20代はぜんぶおつりが来ていた。

    僕がなぜ飛ばなかったのか、と聞かれたら、いまでもはっきりした答えは持っていない。

    ひとつには、ものづくりが好きだった。自分で企画を練って、頭の中のイメージをアウトプットして誌面の上に組み上げていく。それを何万人もの読者が手に取って見てくれる。その一連の流れに、僕は地味に、でも深く酔っていた。

    もうひとつには、これは性分の話だ。僕は逆境のなかで抗いたくなるタイプの人間らしかった。挫けたくない。なにくそ、と思って立っていたい。

    その意地がHP1の僕を、毎日フルフルと机の前に立たせていた。

    たぶん編集部の中で、最後まで一度も倒れなかったのは僕だけだった。

    五

    そんな日々が、六年半続いた。

    ある夜、中條さんがこう言った。

    「出版業界は不況だよね。これからはWebの時代だと思う。Web系のこと得意だし半年でいいから勉強してきてほしい。戻ってきたら、Webマガジンとかを担当してほしいんだ」

    これは、命令ではなく頼まれた。中條さんはそういう人だった。

    研修先は神戸の会社だった。当時のインフォレストと繋がりのある会社。HTMLとJavaScriptはなんとなく理解していたが、PHP、MySQL、Objective-C、ターミナルの使い方なんかをざっくり教わることになった。

    2011年、6月。僕は神戸に行った。

    三宮にマンスリーマンションを借りた。家賃は13万円。ネットも家具も込み。月給は21万円。差し引き残り8万円。携帯代と食費で消えていく。

    ディスカウントショップで1食80円の焼きそばを買った。飲み物は空のペットボトルに水道水を入れて冷蔵庫で冷やした。たまの贅沢は丸亀製麺だった。こんなにも美味しく安く、満たしてくれるものがあるのかと。

    それら神戸での暮らしは、はじめて経験する「ふつうの生活」だった。

    平日のランチタイムに、ふつうに丸亀製麺に並べる。仕事終わりに、三宮の商店街をぶらぶら散策できる。週末はなにもしない時間が、ぜんぶ自分のものになっている。

    そんな当たり前を、それまでは感じることがなかった。世の中に対して、夜も動いている人のことをもっと考えろ、と心の中で勝手に怒っていた。

    その当たり前を、奇妙に感じていた。「これがふつうの人の生活なのか」

    ふつうの生活リズムを、はじめて半年経験した。

    そうしたら、それまで自分がいた世界がどれだけ常軌を逸していたか、ようやく見えてきた。同時に、ふつうの人がふつうに「辛い」と言うことの中身が、僕にはぜんぜん辛そうに見えなくなった。

    「今日、徹夜しちゃって辛いんですよ〜」というサラリーマンの声が、神戸から戻った僕には、もう「よわっ」としか思えなかった。

    これは、僕が偉いからではない。たぶん、僕がいた場所がおかしすぎたのだ。ふつうの人は、ふつうに甘い世界で生きていた。その甘さの中で、ちゃんと楽しそうに暮らしていた。それを見て僕は、すこしだけ見下している自分にも気づいていた。

    その半年をきっかけに、僕の中の感覚が覚醒していった。

    東京を離れた半年で僕は20時間労働から解放された。机の下のカーテンから解放された。12月に東京に戻ったとき、神戸に行く前の自分とは明らかに別の感覚を持っていた。

    それは、いま思うとこういう感覚だった。

    精神と時の部屋から出てきたみたいだった。

    ドラゴンボールに出てくる、あの修行用の異空間。中で1日修行すると、外では1年が経っているあの部屋。あの部屋から出てきたとき、僕の感覚と世間の感覚が、流れている時間の速度がもう合っていなかった。

    それはWebの勉強で身についた技術の話ではない。神楽坂で過ごした6年半すべてが、神戸の半年を経て僕の中でひとつの「骨格」として整理されたのだ。キャッチコピーを書く骨格。場をコントロールする骨格。問題が起きたときに「じゃあどうする」と即座に頭が動く骨格。徹夜で集中する骨格。八時間かかると言われた仕事を二時間で終わらせる骨格。

    それらが神楽坂を離れた瞬間、はじめて「外の世界での通用度」を持ちはじめた。

    その後僕は編集の業界からは離れて、女性向けの美容商材メーカーに入った。

    そこで上司に「これ、明日までにお願いできる?」と頼まれて、僕は10分か20分でだいたいまとめて返した。「えっ、もうできたの?」と何度か言われた。最近では、あまり驚かれなくなった。

    何かを頼まれたり、聞かれたりする瞬間に、最短で答えを弾き出す。構成とストーリー、客観性、必要なもの、選べる選択肢。

    これは僕が特別な才能を持っているからではない。

    根本的に僕はただのめんどくさがりだ。同じ作業を2度やりたくない。1度覚えれば済む手順を何度も繰り返したくない。だから自動化できることは仕組みに渡した。テンプレ化できることはテンプレにした。そうしているうちに8時間の仕事が2時間で終わるようになっていた。

    ただそのめんどくさがりの効率化を、僕がこの速度でできるようになったのは、20代に神楽坂の編集部の机の下に丸まって寝ていたからだ。

    精神と時の部屋の中で、僕の骨格は勝手に組み変わっていた。

    六

    これを書いているいま、僕は42歳になっている。

    秋葉原の街の中で雑誌の編集とはまったく関係のない仕事をしている。朝、自宅から職場までの通勤は、電動のキックボードで10分かからない。電車に乗らない。バスにも乗らない。改札も通らない。神楽坂の坂をぜいぜい上りながら出社していた頃の自分が、いまの自分の朝を見たら、「なにそれ、ずるくない?」と言うと思う。

    20代の僕に、もしいまの僕が会えるとしたら、きっとこう言うと思う。

    「あの夜、トイレから飛ばなかった君のおかげで、僕はいまここにいる」

    そして、こうも続ける。

    「君がいま苦労して経験しているそのぜんぶが、僕の人生をずるいくらい楽にしてくれる」

    ただ、これは正直に書いておかなければいけない。

    僕が手に入れた「なんでもできる人間」という状態は、いまの社会ではもうあり得ないような環境の中で、命を削った結果として手に入ったものだ。日給4,000円の領収書を毎日書いていた頃の編集部のあり方は、いま同じことをやれば、いろんな法律に触れる。たぶん当時ですら、出るところに出たら、ふつうに問題になっていたと思う。

    僕は自分の20代を肯定したいわけではない。むしろ薦めない。

    「過酷だったけどいい経験だった」と、まとめてしまえば、きっと20代を過ごす人の何人かを、同じような場所に押し出してしまう。それは僕がやりたいことではない。

    でも、書いておきたいことがひとつだけある。

    精神と時の部屋から出てきた身体は、出てきた瞬間には自分でもその変化に気づかない。それは外の世界に出てふつうの仕事の現場に立ったときに、はじめて自分の「ずれ」として見えてくる。

    そのときの自分は過酷だったあの場所のことを、ふしぎと嫌だとは思っていなかった。誰よりもボロボロになりながら、誰よりもキラキラした世界を僕たちは作っていた。その不思議な並列が、僕の20代のぜんぶだった。

    何をしたいかもわからなかった僕は、神楽坂の編集部の片隅で、自分の給料の領収書を書きながら、知らないうちに精神と時の部屋に迷い込んで、別の身体を作っていた。

    その身体がいまの僕を、毎日ふつうに歩かせている。

    何もなかった自分に実はスポットライトが当たっていたりする。
    ちゃんと自分の人生の主人公として活躍している。
    迷っているなら、少しの勇気を持って飛び込めばいい。違ったら別のところへ行けばいい。いろんな壁は訪れるけど、乗り越えるたびに壁は小さくなりやがてなくなる。だから、逃げない。

    そうしているうちに、ある日誰かが声をかけてくる。

    「君、10万人に1人だよ。いや、100万人に1人かもしれない」

    ──僕の場合、その声をかけたのは、中條さんという伝説的な編集長だった。

    そしていま振り返れば、僕も誰かに声をかけていた側だった。

    自分の企画に出た子やスカウトした子。読モから専属モデルになっていった子。雑誌の表紙に立った子。そして僕の企画を読んで影響された子。彼女たちのその後の人生に、僕のあの日の声かけがどこまで関わっていたのか、いまの僕にはもうわからない。

    でも、きっとなにかは動かしていた。(と思いたい。)

    Aが僕の人生をぬるりと動かしたみたいに。中條さんが僕の人生を、何度も、ぐっと、動かしたみたいに。

    すべては2004年11月、昼過ぎの神楽坂の10分の面接で「で、いつから来れる?」と言われたあの日からはじまっていた。

     
     
    社会は人間攻略できれば最強かもしれない。時代に逆行する濃厚分析。 出版社・メーカーなどと自分の人生の学びから、 仕事・恋愛・結婚・家族のすべての人間関係を、科学と心理学と社会学で解剖する。 色んなシステム・ツールも作ります。基本は脳内アウトプットの場。

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