
お前はもう法衣を脱げ!
カンボジアからミャンマーに戻ってすぐ、セアロ師から呼ばれた。
「俺、なんかやらかしてしまったかな」
そう思いながら、お寺の二階、師のおられる部屋へ階段を上っていったら、師から、一言。
「お前はもう法衣を脱げ!」
「法衣を脱いで坊主へ奉仕しろ」
カンボジアで、師にコーヒーを出す順番を間違えて訪問客から先に出してしまい、「お前はまだわかっとらんのか!」と、ものすごい声で叱られたことが頭に浮かんだ。
社会の中でどう生きればいいのか分からなくなって、私はミャンマーまで来て坊主になったのに、坊主でも失格か。
「はい」と、声を絞り出した。
得度式は1時間ほどかかったのに、世俗に戻る還俗式は、10分もかからず、あっけなかった。
法衣を脱いでTシャツとロンジーに着替えたら、それまであった「坊主らしくしよう」という意識が剥がされ、何かの立場にすがろうとしていた自分から、少し離れた気がした。
法衣を着ていたときは、僧侶として三拝される側だったのに、脱いだ途端、今度は一般の人たちと並んで膝をついて僧侶に向かって三拝する。
かっこ悪いなぁ。
周りからも、「彼は、坊主をやめさせられた」と見られているような気がした。
ところが、だ。
法衣を脱いで、僧侶への奉仕を続けているうちに、少しずつ見えるものが変わってきた。
あの僧侶は暑くてのどが渇いているんじゃないかとか、自分だったら、少し座りたいよな、とか。言われる前に、冷たい水を用意したり、座る場所を整えたりする。
そして、一緒に奉仕している仲間のことも、前より見えるようになって、自分から仲間に手を差し伸べられることを探すようになっていた。
頭で分かったつもりになっていることと、それが身体にしみ込んでいることは違う。奉仕を続けているうちに、頭で考える前に身体が動くことが増えていった。
私は「僧侶」というものまで、ひとつの立場にしようとしていた。
社会にいたころも、銀行員なら銀行員らしく、会社にいればその立場なりに、周りを見ながら自分を作っていた。
ミャンマーまで来て、今度は「僧侶である自分」を作ろうとしていたのだ。
あれから二十年以上経って、セアロ師にそのことを尋ねる機会があった。
「あのとき私に法衣を脱がせたのは、僧侶という立場にいれば、私は、またその立場の中で自分を作ってしまうからですか?」
ご高齢になった師は、あの場面を覚えておられて、
「そうだよ」
と、一言、おっしゃった。
社会で生きていれば、立場はある。肩書に応じて振る舞うことも大事だろう。でも、その立場を超えたところで、何が一番大事なのか。
真心だ。
立場でも、体裁でも、名誉でも、損得でもない。そんなものだけを追いかけても、魂の喜びにはつながらない。
どれだけ、自分を生きるか。そして、それが利他につながるか、だと思っている。
ただ、真心は押し売りではない。
これが心からの行動だと思っても、それが相手にとって余計なこと、ということもある。
師も、「よかれと思ってやることは、たいがい、よくないことだ」と言う。
ただ、何が正しいのか分からないから何もしないより、自分が心からそう思ったら、やってみる。違っていたら、次はやらなければいい、と私は思う。
「お前はもう法衣を脱げ!」
そう言われて以来、私は法衣を着ていない。
師のこの言葉は、のちに私が「坊主の心で社会を生きる」と思うようになったことにつながっている。
『本業は自分』
この人生観の原点を書いた記事です。
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