
神棚じまい
1945年6月16日 福岡は空襲によりほとんどが焼失した。
何代も続いた父の実家も、同じ博多湾沿いにあった母の実家もすべて無くな
ってしまった。
次の日から母は借家を探し回り、知人の紹介から何とか落ち着き先を見つけ
た。
焼け出され帰るところも無くなった義理の弟たちと、母の父親と弟妹達とを
引き連れてそこに住むこととなった。
父は太原という中国の奥の奥で軍の依頼で枕木を集めており、次男はロシア
の捕虜、三男はは中国の中で兵隊として戦っていた。
父方の長女は結婚して満州におり、8月15日の終戦を向かえ、帰る家を失っ
た彼らをすべてこの家は受け入れた。
両親の弟妹たちは年が近く遊び友達でもあったため、10代の合宿のようで
もあり賑やかだったらしいが、食べさせるのは大変だったと思う。
やがて、みんな無事に中国から引き揚げてきて、この家で一息ついて次の所
へと移って行った。
そんなバタバタの中、叔父たちはアチコチで小銭をかせいで露店から本当に
そまつな神棚を買ってきた。
「やっぱ神棚くらいはいるやろ」と笑っていた、何しろ焼け出されているの
で何も無かった。焼けた実家には見事な神棚があったと思う。
そのころはここしか家がなかったので必然的にこの家が実家になっていた。
だから、みんなで先ず実家を整えようとなったらしい。
父は7人兄妹の長男、母も7人兄妹の長女、父方はすでに両親は亡くなり、
母方も入院していた祖母が亡くなり、その後祖父も亡くなった。
まさに親無し子家なき子の集団となり、唯一集まれる場所がここだった。
いつも人が訪ねてくる家だった。
みんなここが出発点だったから、そして長男長女が親代わりとなったから。
盆正月はみんな集まり、法事ともなると更に賑やかになった。
叔父たちがかけ合い漫才のようになり叔母たちはハンカチで涙をふきながら
笑いころげていた。
戦争でさえ笑い話となっていた。
何故か常に最前戦に配属される叔父、中国の畑の中を機銃掃射から逃げ回り
東京の大本営では下っ端だった別の叔父がいつもハラハラと見守っていた話。
なぜいつも最前戦に送られるのか?
東京の大本営が叔父の部隊長を嫌っていたから と言う、とんでもない落ち。
それでさえも笑いとなった、もう終わった事だから、若かったから、未来
の方がずーっと長かったから。
その借家には30年ほど暮らし、あまり古くなったので郊外に家を建てそこ
に移り住んだ。両親はそこで亡くなった。
そこから私1人3回引っ越したがその神棚はいつも一緒に引っ越した。
3回目の場所は初めてのマンションで神棚を据えるところが無かった、しか
も賃貸で壁に疵を付けられない。
どうしようと思って気がついた、いい年になった私が死んだら、きっとこの
神棚はゴミとして処分されるだろう。
それはイヤだ。帰るところを失い、何とか帰れる場所となった家に叔父たち
が贖ってくれた神棚、白木でもなくお祓いも受けてないだろう。
それでもずっと私とともにいてくれた。
もう母方の末の叔父を遺して、誰もいなくなってしまった。
この神棚は私が見とどける役割なのだろう。
毎年三社参りに行っていた神社に氏子ではないが、お焚き上げが可能かたず
ねると、どうぞと言われ5月の吉日を選んで持っていった。
本当に五月晴れでサラサラと風が通り神社のあちこちに吊るしてあった風鈴
がやさしく鳴っている、最高の神棚じまいの日だった。
そして、これが私の最後の実家じまいになった。
ずっと一緒にいてくれてありがとうございました。
感謝します。