
トラブルのときだけ頼もしい男
いよいよ面白くなってきやがったぜ。
旧友の木下くんは、追い詰められたときに、いつもその言葉を口にした。「不思議と活路が見えるんだ」と、木下くんは言った。はじめてこの言葉を聞いたのは、彼がブランコから転倒して、顔から着地し、さらに後頭部にブランコの座面が直撃したときだった。涙目になりながら、自らを奮い立たせていた。
木下くんは小さなころから危なっかしい子だった。ジャングルジムや竹馬では、目立とうとするあまり、想定されていない遊び方をしていた。中学に入っても、受かる見込みのない高校へ進学を希望し、付き合える見込みの薄い女の子に告白をしていた。現実は厳しく、いつも打ちのめされていたが、そんなときにも彼は「いよいよ面白くなってきた」と口にしていた。
平時にはあまり戦力にならない男だったが、有事にはとても頼もしく見えた。戦況が悪く、誰もがもうダメだと諦めかけたときも、彼だけは前を見つづけていた。三つ子の魂が百まで続くように、木下くんの口癖を聞いて育った私たちは、トラブルに見舞われたとき、頭のなかにその言葉がこだまするようになっていた。
カルバン・クラインの下着
28歳の冬。私はスウェーデンの空港で、航空会社の職員から「あなたのスーツケースが失踪した」と報告を受けた。手違いでどこかの国へ行ったのかもしれないし、あるいは盗まれたのかもしれない。原因は調査するが、しばらくは見つからないだろうと。極寒のなかの滞在に備えて、手厚く準備をしていたので、すべてを失って途方に暮れていた。山賊に追い剥ぎにあった中世の貴族にはじめて同情した。
私はふと、木下くんのことを思い出した。そして「いよいよ面白くなってきやがったぜ」と、彼の真似をして声に出してみた。期待はしていなかったが、実際に声に出してみると、不思議なことにそれで少し気分がよくなった。木下くんは宗教家になればいいのに、と私は思った。朝と夕方にみんなで集まって唱えるのだ。「いよいよ面白くなってきましたね。アーメン」と。案外受けるかもしれない。
幸いなことに、航空会社と保険会社の双方が補償をしてくれることになった。かなりの額を提示されたので、私は手始めにビールを飲むことにした。そのあと免税店で、カルバン・クラインの下着を七日分購入した。カルバン・クラインの下着を買う人の気持ちがはじめてわかった。トムフォードのサングラスと、モンクレールのダウンジャケットも買った。私は北欧で成功者になった。結局スーツケースは二ヶ月後に戻ってきた。
第四志望のガールフレンド
木下くんが、受かる見込みのない高校に落ちたとき、私を含めた周囲の仲間たちは、彼のことを小馬鹿にしていた。夢を見過ぎだ。にわとりは空を飛べないと。しかし彼は、不死鳥のように第二志望に合格した。それは私たちが通う予定の高校よりも、ひとつ上のランクの学校だった。私たちは飛ぶべき空があることを忘れていた。
木下くんが、付き合える見込みのない女の子に告白したときも同じだった。彼は第一希望から第三希望までもれなく「否」と告げられ、四番目の女の子と付き合うことになった。私たちは外から小言を言ったが、ガールフレンドがいたのは木下くんだけだった。「いよいよ面白くなってきやがったぜ」という言葉が、頭のなかでこだました。
スウェーデンの空港で、木下くんの真似をしなかったら、私はどうなっていただろう。追い剥ぎにあった惨めな気持ちのまま、北欧で最安値のパンツを買い、薄いダウンベストを着て、風邪をひいていただろう。私たちは木下くんを鼻で笑っていた。けれど笑っていたのは、彼の方だったのかもしれない。