
子鹿社長
今日のお店はランチ営業がおかげさまで満席だった。
少人数の席ばかりとはいえ満席は満席。
無事に営業を終えたあと、夜は社長がお客様をお迎えする特別な席が控えていた。
社長席の日は、なんとなく店全体の空気が違う。
私は今の店に12年いるけれど、
これまで社長席に深く関わることはほとんどなかった。
ところがこの日は主任二人がお休み。
女将とAさんのフォローに入ることになった。
休憩が終わり、社長席のミーティング。
VIPルーム、5名様。
常連のお客様をお迎えする特別コースだった。
準備を進めていると社長が到着した。帳場で料理やワインの確認が始まる。
なんだか空気がピリッとしている。
いつも穏やかなソムリエのSさんまで少し表情が硬い。
「やっぱり社長席は違うなあ」
そんなことを思いながら準備をしていた。
ところが。
お出迎えのため門の外にいる
Aさんに伝言をしようと帳場の戸を
勢いよく開けた瞬間。
玄関の待合席に座る社長と、
その前で話をしているSさんが目に飛び込んできた。
「ひっ!」
私は思わず固まった。
すると社長が笑いながら言った。
「お、老眼鏡装着の姿、目撃したぞ」
え。
怒られる流れじゃないの?
予想外の一言に私の方が戸惑う。
Sさんも
「我々世代は老眼鏡なしでは無理なんですよ」
と助け舟を出してくれた。
すると社長は
「そういえば女将も首から下げてたよね」
とさらに笑っている。
なんだ。
思ったより普通の会話だ。
少しだけ肩の力が抜けた。
とはいえ私はどちらかというとがさつな部類。
この日は
「猫をかぶろう」
と決めていた。
余計なことをしない。
余計なことを言わない。
それだけを心がけていた。
お食事が始まり、私は女将とAさんのフォローに徹した。
大きなミスもなく、ようやくデザートの時間。
デザートを運び込み、
「女将、お願いしまーす」
と言ったら、
「配って」
と一言。
見ると、ちょうど私が社長の前にデザートを置く順番だった。
(まじかー)
できれば避けたかった。でも仕方ない。
いつも通り。
いつも通り。
社長はお客様との会話に夢中で、両手を組んでテーブルの上に置いていた。
私は普通に声をかけた。
「お手元失礼いたします」
その瞬間。
社長の両手がビクッと宙に浮いた。
まるで本当に飛び上がったみたいに。
私は一瞬何が起きたのかわからなかった。
別に大きな声を出したわけでもない。
他のお客様と同じようにお声がけしただけだ。
なのに、その驚きよう。
(そんなに驚くんかい。子鹿か??)
思わず心の中でツッコミを入れてしまった。
普段は厳しい表情で従業員を指導している。
150年以上続く店の6代目。
もっと豪胆な人なのかと思っていた。
けれど案外繊細なのかもしれない。
まあ、
これから先もそんなに関わることはないと思う。
でも私はこの日以来、密かに社長のことをこう呼んでいる。
バンビ社長。
……かわいくない?