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第百十九篇 巡幸、民衆の前の玉座

     明治九年六月二日の朝、皇城を囲む濠には薄い霧が伏し、水面を渡る風が柳の細い枝をさらさらと揺らしていた。空が白み始めると、坂下門へ続く道で馬の鼻息がふうっ、ふうっと白くほどけ、蹄鉄が敷石を打つたび、かつん、かつんと乾いた音が御殿の壁へ返った。供奉する官員は外套の襟を直し、近衛兵は銃帯を締め、御者は車輪の楔を一つずつ指で確かめていた。旗竿を持つ兵の掌には汗が滲んでいたが、朝の冷気のためだけではなかった。これから天皇が向かう東北は、わずか八年前、新政府に抗した諸藩の土地であった。

     仙台、盛岡、会津、庄内、米沢。そこには敗者となった藩の城跡があり、戦死者を弔う家があり、降伏後の処分を忘れられない士族が暮らしていた。彼らの前を、錦旗の中心にいた天皇が通る。新政府にとって巡幸は、国土を見聞する旅であると同時に、戊辰の戦場を新しい国家の内側へ組み入れる旅でもあった。民に天皇を示す行為は、慈しみとして受け取られることもあれば、勝者が自らの正統性を確かめに来たように感じられることもあった。

     皇城の門がゆっくり開いた。ぎぎぎ、と蝶番が低く軋み、やがて先導の馬が外へ進み出た。御所の奥で御簾に隔てられていた玉座は、この日、再び街道へ運び出された。

     沿道に集まった東京の人々は、互いの肩越しに行列を見ようと首を伸ばした。日本橋近くの煮売り屋では、大根、牛蒡、豆腐を煮た鍋がことこと鳴り、醤油と鰹節の匂いが道へ流れていた。職人は朝飯の握り飯を頬張ったまま表へ出て、奉公人は前掛けで手を拭い、子供は大人の脚の間へ潜り込んだ。

    「天子さまは、どのお方だ」

    「声を落とせ。あのお車のなかにおられる」

    「顔は見えねえじゃないか」

    「見えなくても、おられるんだよ」

     答えた男も、車の内側を見たわけではない。それでも、人々はそこに天皇がいると信じて頭を下げた。天皇の姿を民衆の前へ出すといっても、誰もがその顔をはっきり見られるわけではなかった。先触れの声、兵の足音、揺れる旗、閉ざされた車、供奉員の緊張した表情が、見えない中心の存在をかえって強く感じさせた。

     巡幸の玉座は、宮殿の高御座とは異なっていた。雨を受け、泥を跳ね、馬の汗と人の息に包まれながら移動する。それでも、近づけば触れられるものにはならなかった。民衆に近づくことと、民衆の一人になることは違う。新政府はその差を細く、長く保とうとしていた。

     街道を北へ進むにつれ、家並みはまばらになり、青田の匂いが濃くなった。田の水には朝日がきらきらと映り、畦では蛙がげこ、げこと鳴いた。農夫は笠を脱いで腰を屈め、田植えの女たちは泥のなかで手を止めた。遠くから見れば穏やかな田園であったが、農村の胸中は静かではなかった。

     地租改正によって、年貢は米ではなく金で納める仕組みへ変わりつつあった。豊作でも凶作でも、定められた金額を用意しなければならない。米価が下がれば、同じ税を払うために、より多くの米を売る必要があった。農民は地券に記された土地の持ち主となった一方、その紙が税を負う者の名札でもあることを思い知らされた。

     下総の農家では、巡幸の人馬に差し出すため、若い牝馬が厩から引き出されていた。娘が馬の鬣を撫でると、馬は鼻を鳴らし、ぶるるっと首を振った。

    「いつ戻るの」

     娘が問うと、父は鞍紐を締めながら答えた。

    「御用が済めば戻る」

    「この前も、そう言って三日遅れた」

    「道が悪ければ仕方がねえ」

    「畑は誰が耕すの」

     父は返事をしなかった。馬を出す名誉について村役人は語ったが、馬が留守のあいだに失われる仕事については語らなかった。母は竹皮に麦飯の握り飯を包み、味噌を塗って炙ったものを父へ持たせた。焦げた味噌の匂いに、娘は急に腹が減った。

    「お父、半分置いていって」

    「これは道中の分だ」

    「天子さまのお供には御馳走があるんでしょう」

    「御馳走があるのは天子さまと偉い方だけだ。馬を曳く者の腹まで、朝廷は見ちゃくれねえ」

     母が咳払いをすると、父は言い過ぎたと気づいて口を閉じた。娘は馬へ抱きつき、温かな首筋へ頬を押し当てた。やがて父が手綱を引くと、蹄がぬかるみを、ぐちゃり、ぐちゃりと踏み、朝靄の向こうへ遠ざかっていった。

     天皇の巡幸は、国が民衆へ姿を見せる行為であったが、その姿を支えるため、多くの民衆が姿を消した。馬を曳く者、荷を担ぐ者、道を均す者、橋を補修する者、行在所の畳を替える者、炊事場で米を研ぐ者が、華やかな行列の前後へ分かれて働いた。彼らは巡幸図の中央には描かれず、新聞記事でも名を記されなかった。

     ざっ、ざっ、ざっ、と近衛兵の足音が続いた。背負った銃が歩調に合わせて揺れ、金具がかちゃ、かちゃと鳴った。その音を聞きながら、道端に跪いた元武士は、自分の腰が急に軽くなったように感じていた。

     その年の三月、帯刀禁止令が出され、軍人、警察官などを除いて、公の場で刀を帯びることが禁じられた。元武士の腰には、長年の習慣どおり刀へ手を添えようとして空をつかむ瞬間があった。魂と呼んできた刀は家の押入れに置かれ、油を引くことも少なくなった。

     宇都宮近くの宿場に住むその男は、旧幕府方の藩に仕え、戊辰戦争では新政府軍と刃を交えたことがあった。いまは薬種屋の帳場を手伝っていたが、算盤を弾く指より、刀を握った指の記憶のほうが強かった。

    「頭を下げろ」

     隣にいた県官が小声で促した。

    「下げておる」

    「もっと深く」

     男は唇を噛み、額が地へ近づくまで身体を折った。車輪の音が、ごろごろと耳の前を通った。顔を上げれば一瞬だけでも天皇を見られたかもしれない。しかし彼は上げなかった。敬意のためだけではなく、自分の顔を見られたくなかったのである。

     行列が遠ざかったあと、薬種屋の主人が声を掛けた。

    「どんなお気持ちでした」

    「分からぬ」

    「ありがたかったのでしょう」

    「分からぬと言った」

     男は立ち上がろうとして膝を押さえた。戦で負傷した古傷が、湿気を含んだ風に疼いていた。

    「天皇に恨みはない。だが、あの旗の下で友が死んだ。こちらも同じ天皇の民だったはずだ。それでも朝敵と呼ばれた」

     主人は答えを探したが、店先の風鈴がちりん、と鳴っただけであった。朝敵という二文字は戦が終わっても消えず、敗者の家では、祝いの席にも葬りの席にも薄い影を落としていた。

     白河を越えるころ、梅雨雲は山々の肩へ低く垂れ込めた。雨がぱらぱらと笠を打ち始め、やがて、ざあっという音に変わった。道はすぐ泥濘み、車輪が深く沈んだ。人夫が綱を掛け、「せえの」と声を合わせて引くと、轍から泥水が跳ねた。

    「もう一度だ。せえの、よいしょ」

     ぎしり、と車体が傾き、馬がいなないた。供奉の官員は濡れた外套を重そうにまとい、近衛兵の軍帽から雨滴が顎へ流れた。巡幸は絵巻のように滑らかには進まなかった。天候も道路も、天皇の命令には従わない。止まれば宿駅の日程が崩れ、炊事の米が足りなくなり、次の村では夜更けまで待つ者が出た。

     行在所となる家では、主人も使用人も眠らずに支度を続けた。畳を上げ、床板を拭き、襖の染みを隠し、庭の枯葉を拾った。かねて使っていた西洋製の時計や硝子器を見えない場所へ移すよう指示された家もあれば、逆に文明開化を示す品として舶来の器械を並べるよう求められた家もあった。中央の方針は一つでも、地方官の忖度は土地ごとに異なり、人々は何を見せれば喜ばれ、何を隠せば咎められないかを測り続けた。

     仙台では、旧藩士の屋敷が並んでいた一帯にも、以前の面影が薄れ始めていた。仙台藩は奥羽越列藩同盟の中心となり、敗戦後には石高を大きく減らされた。家臣たちは帰農や転業を迫られ、禄を失い、屋敷を手放した者も少なくなかった。門構えだけは立派な家の台所で、朝餉に出るのは薄い粥と大根の古漬けであり、雨漏りする座敷には売れ残った鎧櫃が置かれていた。

     ある旧藩士の妻は、夫の紋服を解き、子供の着物へ縫い直していた。針が布を、すっ、すっと抜け、外では巡幸を知らせる触れ太鼓が、どん、どんと鳴っていた。

    「母上、天子さまを見に行かぬのですか」

     十二歳になる息子が尋ねた。

    「おまえは学校から参列するのでしょう」

    「皆で道端へ並びます。先生が、ありがたくお迎えせよと」

    「なら、きちんとお迎えしなさい」

    「父上は行かぬと申していました」

     妻の指が止まり、針先が人差し指を刺した。赤い血が一粒、紺の布へ落ちた。

    「父上には父上のお考えがあります」

    「父上は天子さまがお嫌いなのですか」

    「そのように簡単なことではありません」

     妻は血の跡を唾で湿らせ、布を揉んだ。夫の弟は白河口で官軍と戦い、帰らなかった。遺骸がどこに埋められたかも分からない。夫は天皇を憎んではいなかったが、天皇の名を聞くと、弟を朝敵のまま死なせた国を思わずにはいられなかった。

    「人の心には、ありがたいと思う場所と、悲しいと思う場所が一緒にあります。どちらかを捨てなければならないわけではありません」

     息子は分かったような顔をしたが、まだ分かってはいなかった。やがて学校へ出るため、母が縫い直した羽織を着た。袖口には、父の紋服であったころの折り目が薄く残っていた。

     仙台の町では、巡幸を迎える道が掃き清められ、見苦しいと判断された物が片づけられた。県官は家々の清掃を命じ、沿道の景観を整え、神社や行在所を点検した。民衆がどの姿勢で天皇を迎えるべきかという細かな問題まで問い合わせが行われた。跪くのか、蹲踞するのか、平伏するのか。近代国家は古い礼法を廃しながら、新しい礼法を一つずつ作らなければならなかった。

     旧仙台藩士の夫は結局、息子から少し離れた場所に立った。彼は刀を帯びず、擦り切れた羽織の袖へ両手を入れていた。行列が近づくと、学校の児童たちは教師の合図でいっせいに腰を折った。

    「敬礼」

     ざっ、と衣擦れが重なった。夫も頭を下げた。車が目の前へ来たとき、御簾が風にわずかに動き、その奥に若い横顔が見えたような気がした。ほんの一瞬であった。

     夫は、勝者の顔を見たと思わなかった。自分より若い一人の男が、国中の忠誠と怨みを受け止める場所へ座らされているように見えた。そう思った自分に驚き、さらに腹が立った。憐れみを抱けば、弟の死を裏切るような気がしたのである。

     夜、家へ戻ると、妻が笹蒲鉾ではなく、あり合わせの白身魚を味噌に漬けて焼いていた。炭がぱちぱちと爆ぜ、脂が落ちるたび、じゅっと煙が上がった。食卓には麦を混ぜた飯、茄子の漬物、青菜の汁が並んだ。

    「ご覧になりましたか」

     妻が聞いた。

    「少しだけな」

    「どのようなお顔でした」

     夫は箸を止めた。

    「疲れておられた」

     それだけ答えると、息子が顔を上げた。

    「天子さまも疲れるのですか」

    「人であれば疲れる」

    「神さまではないのですか」

     夫は妻を見た。妻は汁椀を両手で包み、何も言わなかった。

    「神々の子孫であると教えられても、道を旅する身体は人と同じだ。雨に濡れれば冷え、眠らなければ目が霞む」

    「それなら、なぜ皆が頭を下げるのです」

     夫はすぐには答えられなかった。考えた……結果、弟の話をする代わりに、息子の椀へ魚を一切れ入れた。

    「その答えを、おまえは学校の先生だけに教えてもらうな。自分でも考え続けなさい」

     外では祭り囃子の稽古が始まり、笛の細い音に太鼓が、どん、どどん、と応えていた。巡幸を祝うための囃子であったが、曲そのものは藩政時代から町人が奏でてきたものだった。新しい国家は古い音を借りなければ、民衆の胸へ入ることができなかった。

     盛岡へ向かう道では、北上川が梅雨の水を集め、茶色く膨らんでいた。川面には流木が回り、橋脚へ当たるたび、どん、と鈍い音を立てた。南部の土地には、冷害と飢饉の記憶が深く残っていた。稗や粟を混ぜた飯、蕎麦粉を練った食べ物、凍らせて保存した豆腐などは、土地の知恵であると同時に、米だけでは冬を越せない暮らしの跡でもあった。

     宿場の炊事場では、大釜の蓋ががたがたと震えていた。巡幸の一行へ出す白米が炊かれ、その横で働く女たちは、昼飯に稗飯を食べていた。一人の若い女が白米の湯気を見つめ、思わず唾を飲み込んだ。

    「見るな。手が止まる」

     年嵩の女が叱った。

    「一粒ぐらい食べても分からねえべ」

    「一粒で済む顔でねえ」

     二人は小さく笑った。笑いながらも、若い女は釜の縁に貼りついた飯粒を指で剝がし、誰にも見えないよう口へ入れた。柔らかな甘みが舌へ広がり、その一粒がかえって空腹を強くした。

     行在所へ料理を運ぶ膳には、川魚、山菜、豆腐、漬物、土地の菓子が整えられた。天皇に地域の産物を見せることは、豊かさを示す機会であった。しかし、その豊かさは村じゅうの暮らしを均等に表すものではない。選び抜かれた米の陰には稗飯があり、形の揃った果実の陰には、虫に食われた実を煮て食べる家があった。

     盛岡では巡幸に合わせ、行在所へ通じる新しい道が造られた。土を掘る鍬が、ざくっ、ざくっと鳴り、石を運ぶ荷車が、ぎい、ぎいと軋んだ。完成した道を人々は御幸新道と呼んだ。天皇が通った一度の道が、その後も町の道として残る。巡幸は一日の光景で終わらず、土地の形そのものを変えた。

     だが、道を造るため立ち退きを求められた者には、違う記憶が残った。路傍で団子を売っていた老婆は、仮小屋を移すよう言われ、商いの場所を失った。

    「天子さまの道へ、汚れた小屋を置くなとさ」

     老婆がぼやくと、孫娘は荷物を包む手を止めた。

    「どこへ行くの」

    「川向こうだ」

    「お客は来る?」

    「来なければ、団子を小さくする」

    「もっと小さくしたら、豆みたいになるよ」

    「豆ほどでも、ないよりましだ」

     老婆は笑ったが、目尻は濡れていた。上新粉へ雑穀を混ぜた団子を蒸すと、湯気がふわりと立った。以前なら胡桃味噌を厚く塗ったが、胡桃も味噌も惜しく、刷毛で薄く撫でるだけにした。巡幸の日、老婆は新しい道の端で団子を売った。見物客が集まったため、思いがけずよく売れた。

    「天子さまのおかげだな」

     客が言うと、老婆は銭を受け取りながら答えた。

    「道を追われたのも天子さま、団子が売れたのも天子さまなら、差し引きどちらか、算盤を持ってきてもらいてえ」

     客は声を立てて笑った。近くにいた巡査が睨むと、二人は慌てて口を閉じた。民衆は敬意だけで生きていたのではない。畏れの合間に冗談を挟み、権威を笑いへ変えることで、息をつく場所を作っていた。

     盛岡の学校では、児童が読み書きや算術を披露した。黒板へ数字を書く石筆が、きいっ、きいっと鳴った。慣れない音に顔をしかめる子がいると、教師は小声で姿勢を正させた。県内の産物も並べられ、栽培が始まって間もない林檎が天覧に供された。

     赤みを帯びた実を見た農民のなかには、それが寒い土地を救う作物になるとは想像できない者もいた。

    「こんな小さな木の実で腹が膨れるか」

    「東京では高く売れるそうだ」

    「東京まで運ぶ道がなかべ」

    「そのために道を造るんだと」

     男たちは林檎を眺めながら、国の未来より今年の作柄を案じていた。新しい産業は希望として紹介されたが、苗が育つまでには年数がかかり、そのあいだの暮らしを誰が支えるのかは、展示台の上には示されなかった。

     天皇が学校、役所、産物陳列所、旧跡を訪れるたび、地方官は説明書を差し出した。人口、戸数、田畑、税額、学校数、物産、生産高が数字となって読み上げられた。天皇の眼前で、土地は風景から統計へ変わった。川は水運の距離として測られ、山は木材の量として数えられ、人は戸籍上の人口としてまとめられた。

     竹内宿禰は黒鏡の奥から、その変化を見つめていた。

     古代の国見では、天皇は高台へ立ち、煙の上がる家々を眺めたと伝えられる。民の竈に煙が立つなら、暮らしは安んじていると解された。明治の巡幸で天皇の前へ差し出されたのは、煙だけではなかった。帳簿、地図、写真、学校の成績、繭や絹、鉱石、農具、武器が並び、国家は民の暮らしを細かく読み取ろうとした。

     しかし、数字が多くなれば、民の苦しみまで詳しく分かるとは限らない。戸数の欄には、夫を戦で失った女の夜は記されない。生産高の数字には、娘を奉公へ出した母の涙が入らない。就学者数には、家計を助けるため学校をやめた少年の名が残らない。統計は国土を見えるようにする一方、数字にならないものを見えにくくした。

     盛岡を発った一行がさらに北へ進むと、夏だというのに朝晩の風は冷たくなった。山あいの村では、囲炉裏へ火を残し、吊るした鍋で粟粥を煮ていた。薪がぱちん、ぱちんと爆ぜ、煙が茅葺き屋根の内側を這った。

     村の盲目の唄い手が三味線を抱え、巡幸を題材にした即興の歌を口ずさんでいた。べん、べべん、と低い音が鳴り、子供たちが囲炉裏の周りへ集まった。

    「都を出でし若き君、雨の奥州、馬で越す」

     唄い手が節を伸ばすと、老婆が笑った。

    「おまえ、天子さまが馬から落ちたなどと歌うなよ」

    「落ちたとは歌ってねえ」

    「そのうち話を面白くして落とすだろう」

    「落としたほうが銭になる」

     皆が笑い、唄い手も歯を見せた。巡幸は新聞に記録され、公文書に綴じられる一方、名もない唄い手の節にも乗せられた。官の記録では日付と行程が整えられたが、囲炉裏端の歌では雨が大雨になり、坂が険しくなり、天皇は村人の差し出した粟餅を食べたことにされた。史実ではなくとも、民衆はそうして天皇を自分たちの物語へ引き寄せた。

     青森県へ入ると、旧会津藩士が移された斗南の記憶が、痩せた原野と粗末な家々に残っていた。会津松平家は敗戦後、北辺の斗南藩へ移され、多くの家臣と家族が寒冷な土地で困窮した。藩はほどなく消えたが、人々の飢えは制度の廃止とともに消えなかった。山菜の根や海藻まで食べ、寒さに耐えきれず命を落とした者の話が、家々で低く語り継がれていた。

     元会津藩士の老女は、巡幸の知らせを聞いても、初めは沿道へ出るつもりがなかった。夫は斗南へ移った翌年に病で死に、二人の子のうち一人も冬を越せなかった。残った娘は土地の男へ嫁ぎ、老女は孫の世話をしながら暮らしていた。

    「婆さま、天子さまを見に行こう」

     孫が袖を引いた。

    「わしはええ」

    「皆、行くよ」

    「皆が行くなら、わし一人行かなくとも道は埋まる」

    「先生が、国民はお迎えするものだって」

     老女は薪を割る手を止めた。国民という言葉は、彼女には新しい衣のようで、まだ身体に馴染まなかった。会津にいたころは藩士の妻であり、斗南では流された敗者の妻であり、いまは士族の戸籍に名を置く寡婦であった。いつから自分が国民になったのか、その境目を思い出せなかった。

    「婆さまは国民じゃないの」

    「さあな。国がわしらを民と思うたのが先か、税を取る相手と思うたのが先か、分からん」

     孫は意味を理解できず、首を傾げた。

     巡幸の日、老女は結局、孫に手を引かれて沿道へ出た。雨上がりの道には水溜まりが残り、草の葉から雫が落ちていた。役人が並ぶ場所を指示し、人々は濡れた地面へ膝をついた。

     先導の兵が来た。旧会津藩士の子孫であることを隠す必要はなかったが、老女は胸の奥に会津の名を抱いたまま頭を下げた。車が近づいたとき、孫が小さな声で言った。

    「婆さま、見て」

     老女はゆっくり顔を上げた。車窓の奥に、髭を蓄え始めた若い天皇の顔があった。かつて彼女が想像していた雲の上の天子とは違い、長旅で日に焼け、眼差しには疲れが滲んでいた。

     その瞬間、老女は夫のことを思った。会津城下を出る朝、夫も同じように疲れた顔をしていた。彼は天皇に背いたつもりはなく、主君へ忠義を尽くしただけだった。その忠義が新しい時代には朝敵と呼ばれた。

    「婆さま、天子さまだよ」

    「ああ」

    「ありがたいね」

     老女は答えなかった。涙が一筋だけ頬を流れたが、それが感激なのか悲しみなのか、本人にも分からなかった。人の心は、官報の文章のように一つの意味へ整えられない。天皇を目の前にしても、忠誠と喪失、畏れと怒り、憐れみと諦めが、互いを追い払わず同居していた。

     行列が去ると、孫は道に落ちていた小さな木の葉を拾った。

    「天子さまの車から落ちた葉かもしれない」

    「ただの白樺の葉だ」

    「取っておく」

    「好きにしなさい」

     孫は葉を教科書へ挟んだ。のちにそれが粉々に崩れても、天皇を見た日の記憶は残った。国家が民衆へ渡す物語は、こうした小さな記憶を通じ、家族のなかへ根を下ろしていった。

     青森では港へ向かう潮風が町を抜け、干した鰊、昆布、薪、馬糞の匂いを混ぜて運んだ。波止場では船大工の槌が、こん、こん、こんと鳴り、荷役人夫が俵や木箱を肩へ担いだ。明治丸は沖に黒い船体を浮かべ、煙突から煙を吐いていた。

     天皇が乗船するというので、港には町人、漁師、農民、士族、子供たちが集まった。船の姿を初めて見る山村の老婆は、あれほど大きな鉄の塊が浮くことを信じられず、何度も海と隣人の顔を見比べた。

    「沈まぬのか」

    「蒸気で動くそうだ」

    「蒸気は湯気だべ。湯気で鉄が浮くものか」

    「東京の学問では浮くんだと」

     汽笛が、ぼおおおう、と鳴ると、海鳥がいっせいに飛び立った。ばさばさばさっと白い翼が空を覆い、子供たちが歓声を上げた。

     七月十六日、明治丸は青森を離れ、函館へ向かった。港に並ぶ人々の姿が小さくなり、やがて陸は霞のなかへ沈んだ。天皇は海峡の向こうに、開拓使が治める北海道を見た。そこは旧藩を県へ替えるだけでは捉えられない土地であった。和人の政府が新たな領土として区画し、移住者を送り、道路を拓き、資源を調べる一方、古くから暮らしてきたアイヌの人々は、土地と漁場を狭められつつあった。

     函館の町では、洋風建築の窓が港を見下ろし、教会の鐘が、ごおん、ごおんと坂道へ響いた。外国船の水夫が酒場で笑い、商人は昆布、干魚、硫黄を値踏みし、移住してきた士族は慣れぬ寒さと商いに戸惑っていた。開拓の華やかな言葉の陰で、故郷へ帰れない者と、故郷を奪われてゆく者が同じ風を受けていた。

     海岸近くで鮭を干していたアイヌの老漁師は、沖の明治丸を見つめた。そばにいた和人の役人が、天皇がお乗りになっていると説明した。

    「日本じゅうを治めるお方だ」

     老漁師は海から目を離さず、通訳を介して尋ねた。

    「この川の鮭も、その方のものか」

     役人はすぐに答えられなかった。

    「国の川で獲れるものは、国の定めに従う」

    「川は、定めが来る前から流れている」

     通訳は言葉を和らげようとしたが、老漁師は繰り返した。

    「川は、定めより古い」

     沖では明治丸の煙が風に流されていた。天皇が民衆の前へ姿を現すとき、「民衆」と呼ばれる範囲を誰が決めるのかという問いが残った。旧藩士も農民も町人も新国家の臣民へ組み入れられたが、北海道の先住者にとって、その国家は自分たちの同意によって選んだものではなかった。巡幸は国土を一つに見せる一方、その一つの輪郭の外へ押しやられる声を生み出した。

     竹内宿禰の黒鏡には、奉迎の旗だけでなく、旗を持たなかった者の顔も映っていた。国家が見せる光景は、中央に立つ人物を明るく照らすほど、周縁の影を濃くする。民衆の前の玉座は、皆から等しく見える場所に置かれたのではなく、誰が近づけるか、誰が声を届けられるか、誰が臣民として数えられるかを定める場所にもなっていた。

     明治丸が横浜へ戻ったのは七月二十日であり、翌日、天皇は皇城へ還った。五十日に及んだ旅のあいだに、沿道の村々は人馬を出し、行在所を整え、学校では児童が奉迎文を暗誦し、地方官は統計と物産を差し出した。新聞は巡幸の日程や天皇の動静を報じ、読者は自分の町へ来ない天皇についても、その日の居場所を知るようになった。

     還幸の夜、皇城の奥では旅装が解かれた。泥を吸った靴は重く、車輪の溝には東北の赤土が詰まっていた。従者が小刀で泥を掻き出すと、乾いた土が、ぱら、ぱらと盆へ落ちた。

     そのころ、東京の長屋では、巡幸の記事を載せた新聞を一枚だけ買い、何人もの住人が回し読みしていた。文字を読める大工が声を出して読み、読めない者は膝を抱えて聞いた。行灯の油が少なく、火は時折、じじっと音を立てて暗くなった。

    「天子さまは函館まで行かれたそうだ」

    「函館はどこだ」

    「ずっと北だ。夏でも寒いという」

    「そんな遠くへ、何をしに行く」

    「民の暮らしを見るためだと書いてある」

     洗濯物を畳んでいた女が、手を止めずに言った。

    「それなら、ここの裏井戸も見てもらいたいね。雨が降ると濁って、子供が腹を壊す」

     皆が笑ったが、すぐ静かになった。天皇が国中を巡っても、一軒ごとの井戸までは見られない。民の暮らしを見るという言葉と、実際に見える範囲とのあいだには、長い距離があった。

    「手紙を書けばよい」

     若い男が言った。

    「どこへ出す」

    「皇城だ」

    「天子さまが、おまえの字を読むのか」

    「読まぬなら、民を見たことにはならねえだろう」

     大工は新聞を畳み、しばらく火を見つめた。政府に不満を申し立てる仕組みも、民が政治へ加わる道も、まだ狭かった。天皇が民衆の前へ現れることと、民衆が国家の前で言葉を持つことは、同じではなかった。

     秋になると、士族の家々へ新たな知らせが届いた。家禄を公債証書へ替え、従来の禄を終わらせる秩禄処分であった。刀を帯びることを禁じられ、禄も失う。巡幸の沿道で天皇へ頭を下げた士族のなかには、数か月後、自分たちの身分を支えてきた最後の柱が取り払われるとは知らなかった者もいた。

     仙台の旧藩士は、交付された公債証書を膝の上へ置き、長く眺めた。紙には金額と利子が記されていたが、祖先以来の奉公が数字へ換算されたように思えた。

    「これで商いを始めてはどうです」

     妻が言った。

    「何を売る」

    「味噌でも、紙でも」

    「武芸しか学ばぬ男に、味噌の値が分かるか」

    「分からなければ覚えるしかありません」

     妻の声は静かだった。夫が顔を上げると、あの巡幸の日に天皇を見た息子が、隣の部屋で教科書を読んでいた。少年の声が襖越しに聞こえた。

    「万世一系ノ天皇、之ヲ統治ス……」

     まだ憲法もない時代であったが、学校では天皇を国の中心として教える言葉が育ちつつあった。父は公債証書を折りかけ、思い直して伸ばした。

    「わしの代で、武士は終わるらしい」

    「あなたが終わるわけではありません」

     妻は味噌汁の鍋へ刻んだ芹を落とした。湯気とともに青い香りが立った。

    「それが、いちばん難しいのだ。武士でなくなったあと、何者として生きるかを誰も教えてくれぬ」

     その問いは仙台だけでなく、薩摩、肥後、佐賀、萩、会津、庄内、全国の士族の家で呟かれていた。巡幸によって天皇の顔は近くなったが、国家の改革は容赦なく暮らしの形を変えた。親しみを感じた同じ天皇の名によって、帯刀と禄が奪われたと受け取る者もいた。

     不平を抱く士族の一部は武器を取り、佐賀、熊本、福岡、山口で反乱が続いた。やがて鹿児島では、西郷隆盛の周囲に行き場を失った士族が集まり始める。民衆の前を巡った玉座の背後で、国家は再び内戦の火種を抱えていた。

     それでも巡幸は止まらなかった。明治十一年には北陸から東海道へ、十三年には甲州から東山道へ、十四年には山形、秋田、北海道へ、十八年には山口、広島、岡山へと天皇は旅を重ねた。雨に濡れた峠、雪の気配を含む川風、真夏の山道、海鳴りのする宿場を、馬車と騎馬と汽船がつないだ。

     北陸では、養蚕に従事する女たちが繭を差し出した。蚕棚では桑を食む音が、さわさわ、さわさわと雨のように続いていた。絹は輸出品として国を富ませたが、糸を取る女工の指は熱湯で赤く腫れた。天皇に献上される白い生糸は滑らかに光り、その光の奥に、夜明け前から働く少女たちの眠気と痛みが隠れていた。

     甲州では葡萄畑が山裾に広がり、甲府の町には生糸商や旅籠の声が響いた。巡幸を見ようと集まった農民は葡萄を竹籠に詰め、見物人へ売った。甘い実を口へ入れた子供が、種をぷっと道端へ飛ばし、母親に頭を叩かれた。行列の厳粛さのそばでも、子供は子供のままであった。

     山形では紅花商の旧家が天皇を迎え、農村では冷害に備えて雑穀が蓄えられた。秋田では鉱山や森林の産物が示され、北海道では開拓の成果が整然と並べられた。山口、広島、岡山では、維新の功臣を生んだ旧藩の誇りと、中央政府に人材を吸い上げられた地方の寂しさが隣り合った。

     萩の旧士族は、天皇の巡幸を迎えながら、すでに故人となった木戸孝允や、反乱を起こして死んだ前原一誠を思った。維新の故郷と称えられる町でも、すべての者が新政府の恩恵を受けたわけではない。かつて尊王攘夷を唱えて命を懸けた者の子が、維新後には職を得られず、城下の片隅で草鞋を編んでいた。

     広島の港では、牡蠣を焼く煙が立ち、ぱちぱちと殻が弾けた。巡幸を見物した町人たちは、帰りに汁物や小魚を食べ、芝居小屋ではその日の行列を早くも台詞へ取り入れた役者が喝采を浴びた。岡山では白壁の町並みを行列が進み、農村から来た者が黍団子を包んだ紙を開いた。天皇は崇敬の対象でありながら、祭りや市と同じように、人を集め、物を売り、噂と物語を生む存在にもなっていた。

     巡幸のたびに、道沿いの家は清められ、旗が掲げられ、児童は整列し、産物は磨かれた。人々は天皇を見上げ、天皇は車窓や馬上から人々を見た。しかし、両者の眼差しが等しく交わったわけではない。民衆は一人の天皇を見たが、天皇の目に入る民衆は群れであり、統計であり、奉迎者として整えられた姿であった。

     玉座が民衆の前へ出たとき、民衆は玉座の前で、望ましい民衆の姿を演じるよう求められた。清潔な道、勤勉な児童、豊かな産物、従順な士族、感激する老人が選ばれ、貧困や反感、病、流浪は視界の外へ押しやられた。それでも、完全に隠すことはできなかった。痩せた頬、繕った着物、泥に汚れた足、深く下げた頭の震えが、整えられた風景の隙間から覗いた。

     天皇もまた、見られる役割を演じ続けた。疲れていても背を伸ばし、雨に濡れても列を崩さず、学校では児童の答えに耳を傾け、産物陳列所では土地の説明を受けた。若い君主の身体は、国家が国民へ示す象徴として使われた。人々が天皇の顔に慈愛や威厳を読み取ったとき、それが本人の内心であったのか、儀礼によって作られた表情であったのかは分からない。

     黒鏡のなかで、竹内宿禰は移動する玉座の後ろを歩き続けた。鏡には、歓呼する群衆も、声を上げなかった者も映った。深く頭を下げた者のなかには、忠誠を誓う者がいた。隣人の目を恐れて頭を下げた者もいた。戦死した家族を思いながら頭を下げた者も、ただ一度の見世物として目を輝かせた者もいた。

     同じ姿勢が同じ心を意味するとは限らない。その当たり前のことを、国家はしばしば忘れた。揃って頭を下げる光景が、揃った思想の証しであるかのように記録された。

     巡幸を終えた土地には、行在所、御休所、御膳水、御野立所、御幸道路という名が残った。石碑が建ち、松が植えられ、天皇が腰を下ろした椅子や使った器が保存された。民衆の一日は「聖蹟」となり、土地の記憶は皇室の物語へ結びつけられた。

     だが、石碑の裏側には別の記憶も残った。道普請で腰を痛めた男、奉迎の日に店を閉めて売上げを失った女、行列のため耕作馬を差し出した農家、警備のため芝居を禁じられた役者、天皇へ訴えたい願いを手紙に書きながら役人に取り上げられた者がいた。公式の記念碑が沈黙しても、家族の語りは細く続いた。

    「天子さまがお通りになった日、曾祖母は団子を売った」

    「爺さまは道を造ったが、銭は少ししかもらえなかった」

    「会津から来た婆さまは、行列を見て泣いた」

     囲炉裏端や台所で伝えられる話は、碑文ほど整っておらず、年代を誤り、人物を取り違えることもあった。それでも、その揺らぎのなかに、国家の記録からこぼれた人々の感情が息をしていた。

     巡幸は天皇を民衆の前へ連れ出し、国土を一つの道で結んだ。けれども、一人の身体が国中を歩き続けることはできない。天皇の眼差しを全国へ届け、全国の眼差しを天皇へ向けさせるには、旅より速く、記憶より正確で、老いない姿が必要になった。

     新聞は天皇の動静を文字にし、錦絵は行列を色鮮やかに整えた。さらに写真は、天皇の顔そのものを光の痕跡として留めようとしていた。生身の天皇が一つの町を去っても、像だけは残る。像ならば複製でき、海を渡り、山村の学校にも置くことができる。

     明治十八年の最後の大巡幸を終えたころ、民衆の前を通る玉座は、すでに次の姿へ移ろうとしていた。街道の蹄音が遠のくにつれ、学校や役所の奥には、天皇の姿を迎えるための静かな場所が設けられ始めた。

     ある地方の写真館で、助手が硝子板を磨いていた。きゅっ、きゅっと布が鳴り、薬品の匂いが暗室に満ちていた。写真師はレンズを覗き込み、椅子の位置を少し動かした。

    「人は動く。写真は残る」

     助手が呟くと、写真師は首を振った。

    「写真が残るだけではない。残された写真が、人の見方を決めるのだ」

     窓の外では、巡幸を見たことのない子供たちが、行列の真似をして遊んでいた。竹竿へ紙の旗を結び、一人が天皇役になり、ほかの者が道端へ並んだ。

    「頭を下げよ。天子さまのお通りだ」

     子供たちは笑いながら腰を折った。天皇役の少年は胸を張って歩いたが、やがて立ち止まり、皆へ尋ねた。

    「天子さまは、どんな顔をすればいい」

     誰も答えられなかった。

     その問いへ国家が一つの顔を与えるため、暗室では銀塩を塗った硝子板が用意されていた。黒鏡の表面にも、巡幸の土埃とは異なる冷たい光が射し込み始めた。

     民衆の前を旅した玉座は、やがて一枚の写真のなかへ座り、その動かぬ眼差しによって、まだ見たことのない幾千万の人々を見返そうとしていた。

    史実上の六大巡幸は、明治5年の九州・西国、明治9年の東北・北海道、明治11年の北陸・東海道、明治13年の甲州・東山道、明治14年の山形・秋田・北海道、明治18年の山口・広島・岡山を指します。明治9年の巡幸は6月2日から7月21日まで行われ、明治丸は7月16日に青森港を出て函館を経由し、20日に横浜へ帰港しました。5.六大巡幸 : 国立公文書館

    宮城県に残る巡幸関係文書には、奉迎作法、沿道の景観整備、県職員宅や神社の清掃、仙台での視察順序などを扱った記録が含まれています。また盛岡では巡幸に伴って御幸新道が造られ、学校への行幸や林檎の天覧が記録されています。宮城県公式ウェブサイト

    明治9年3月28日には帯刀禁止令が、同年8月5日には金禄公債証書発行条例が公布されました。巡幸は、この二つの士族政策に挟まれた時期に行われています。地租改正については、地価の3%を金納し、豊凶による増減を原則として行わない制度として出発しました。archives.go.jp

    本文の旧仙台藩士一家、斗南の老女、団子売りの老婆、農家の父娘、アイヌの老漁師などは、当時の社会状況と複数の立場を描くために創作した人物です。特にアイヌの人物との会話は、開拓政策の非対称性を示す小説上の場面であり、特定の巡幸記録に残る実話ではありません。


     
     
    元大学・公共図書館司書。元JLA認定司書。 不慮の事故というべき頚髄症の術後まひにより退職、年金で車椅子生活中 職歴:地方公務員 公共・大学図書館勤務 AI共創作家 専門:図書館経営 図書館司書の専門性 大学の地域連携 学位:大学アドミニストレーション修士(桜美林大学大学院)

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