メむンコンテンツぞスキップ
芋出し画像

倧宝倩皇の埡補を昭瀺する神颚䞲呂№8

    この蚘事は、神皇正統家極秘䌝神颚䞲呂しんぷうかんろカミカれクシロを分かりやすく解説したものです。

    䞲呂クシロかんろずは、元䌊勢䌝承で皇祖神が各地を行脚しながら構築した「元䌊勢クシロ」の事です。

    元䌊勢クシロは、皇城守護の結界のこずだずいわれおいたすが、その結界ずは、神颚䞲呂しんぷうかんろカミカれクシロのこずだったのです。䞲呂は、極秘で構築されお来たので、そのように蚀われおきたのです。

    神颚䞲呂は、地文ちもん地名を研究するこずで倩地神明の存圚を認識するこずのできる神道皇霊孊しんずうこうれいがくで、神囜日本再建のために皇祖神によっお構築されたした。

    地名地文ちもんに秘められた倩地神明の啓瀺を解明する孊問が神颚䞲呂䞲呂哲孊です。

    ここでは、「倧宝倩皇の埡補の䞲呂」をご玹介し、詳しい解説をしおいたす。

    神颚䞲呂しんぷうかんろカミカれクシロを孊ぶこずによっお、日本が神囜である事実を認識し、皇祖神からの神劙なる息吹を䜓感䜓埗するこずができるでしょう

    、䞲呂に昭瀺されおいる倧宝倩皇の埡補

    神皇正統第癟代・倧宝倩皇は、神皇正統家の最埌の倩皇であるためか䞲呂に昭瀺されおいるず思われる埡補倧埡歌が二銖ある。

    この埡補の内の䞀銖は、昭和6幎1931文郚省から『歎代倩皇埡補集』が発行されるこずになった時、䞉浊芳聖が元宮内倧臣の田䞭光顕䌯爵に嘆願しお「長慶倩皇の埡補」ずしお掲茉されたずいう経緯がある。

    その埡補は「九重ここのぞの砌みぎりをめぐる䞉河氎䜏み越し末は絶えじずぞ思ふ」ずいう埡補で、今回は、この倧宝倩皇の埡補に関わる神颚䞲呂をご玹介したす。

    、䞲呂哲孊の理解を助ける予備知識

    始めおの方は、䞋蚘の蚘事を参照しおください。

    、倧宝倩皇埡補の神颚䞲呂

    倧宝倩皇は、応氞171410幎、愛知県豊川垂萩町に斌お埡父束良倩皇より譲りを受けお践祚。その埌、宮路山豊川垂、䞉州䜜手新城垂、桜井寺岡厎垂、寺野岡厎垂倏山町などに朜行。

    氞享10幎1438、岡厎垂切越町に隠棲され、満16幎間倧般若癟巻を念曞、至誠通神、ご神諭のたにたに、享埳3幎1454、牧平町倧門に移䜏され、皇后䜐久姫の姓を名乗っお䞉浊藀倪倫ず称し、玔然たる癟姓になられたした。

    䞉浊芳聖は、『培底的に日本歎史の誀謬を糺す』282頁で、䞉浊家の系図に倧宝倩皇の埡補ずしお「九重の砌をめぐる䞉河氎䜏み越し末は絶えじずぞ思ふ」ずいう歌が蚘されおあり、その埡補を昭瀺するず思われる䞋蚘の䞲呂を解明しおいたす。

    倧日山和歌山垂九重橋本垂切越町岡厎垂卍寺野薬垫堂岡厎垂埡正䜓山郜留垂卍新井薬垫䞭野区

    画像
    䞉浊芳聖著『培底的に日本歎史の誀謬を糺す』埩刻版 第䞃章

    【地文のみ掲茉】
    倧日山九重切越町卍寺野薬垫堂埡正䜓山卍新井薬垫

    【䞲呂の解釈】
    「九重の砌をめぐる䞉河氎䜏み越し末は絶えじずぞ思ふ」ずいう倧宝倩皇の埡補が「九重」「切越町」の地名の䞭に織り蟌たれおいるずいうのである。

    埡補の「砌」の石偏をずるず「切」、「䜏み越し」の「越」ず合わせるず、地名の「切越」ずなる。䞉河氎ずはこの切越町の回りを流れる倧平川、豊川、矢䜜川の䞉぀の河川を指す。

    「九重の砌みぎりをめぐる」の「九重」は「宮䞭たたは宮䞭のある所」砌は「堎所、庭」の意味である。切越町は、倧宝倩皇の行圚所隠棲地でありいわば九重宮䞭である。

    寺野薬垫堂は、埡父・束良倩皇を隠祀した薬垫堂であるず共に倧宝倩皇の行圚所写経の堎である。倧日山は倩皇を衚わすので、ここでは倧宝倩皇を衚わす地文。

    「埡正䜓山」は、その正䜓は䜕かを鑑定する重芁䞲呂起点である。ここでは「寺野薬垫堂」は、建物の芏暡は小さいけれども、倧宝倩皇が建立した勅願寺ですから、その正䜓は、東京郜䞭野区新井の新井薬垫新井山梅照院薬王寺のように堂々たる薬垫堂であるず解釈したす。

    【参照】この埡補に぀いお、同䞊著282283頁で、䞉浊芳聖は次のように解説しおいたす。  内線集者。

     この埡補の幎号は系図に蚘しおありたせんので解りたせんが倧宝倩皇が牧平倧門にお移りになっおからの埡補であるかも知れたせん。「九重の砌」の「砌」ず云う字の「石ヘン」を取るず「切」であり、「䜏み越し」の「越」ずで「切越」ずなりたすから切越の時の埡補ず思われたすが、「牧平倧門」は「倧平川」を「玉」に䟋え、「豊川」を「鏡」に䟋え、「矢䜜川」を「剣」に䟋え、前は䞉河湟で「倧平川」は「矢䜜川」に流れ、「矢䜜川」は䞉河湟に泚ぎ、「豊川」もたた䞉河湟に泚いでいたすから、䞁床「倧門の皇居」即ち「九重の砌」をめぐっおいたす。これを以おみるず牧平倧門での埡補ずも思われたす。
     これは文郚省が昭和六幎に発行した「歎代倩皇埡補集」に「長慶倩皇埡補」ずしおありたす。
     これは、実際は、昭和4幎2月私が田䞭光顕䌯ず山口鋭之助先生に䞉浊皇統家の系譜を芋お頂き、田䞭光顕䌯から明治倩王が束良倩皇第四皇子「光良芪王」の埡子孫であるこずを聞かされお、『よく解りたした。明治倩王が束良倩皇第四皇子の埡子孫であるこずが解れば我たた䜕をか蚀わん。然しながら䜕卒䞉河ぞ神皇正統の倩皇が蒙塵もうじんされたこずだけでも顕らかにしお頂きたい。それが出来なければせめお倧宝倩皇の埡補だけでも発衚しお貰いたい。』ずお願い臎したしたが、「倧宝倩皇」ず云うこずでは出来ないず云うこずで、『それならば、長慶院法皇寛成芪王には、倧正十五幎十月廿䞀日、倧正倩王の勅語を以お代からはずれおいたず云うこずで第九十八代におなりになったのだから、歀の方は倧宝倩皇の倖祖父であるから、長慶倩皇の埡補ず云うこずで茉せお頂きたい。皇孫ずしおの私がせめおその圓時の倧埡心を安んじ奉る為に茉せお頂きたい。』ず涙をこがしおお願いしお、昭和六幎文郚省から出された「歎代倩皇埡補集」335頁に初めお茉ったのでありたす。決しお長慶院法皇が䞉河ぞおいでお切越にお隠れになったのではないのでありたす。

    䞉浊芳聖著『培底的に日本歎史の誀謬を糺す』282283頁

    䞉浊芳聖が田䞭光顕に頌んで、文郚省発行の『歎代倩皇埡補集』335頁に長慶倩皇の埡補ずしお茉せお貰ったずいう倧宝倩皇の埡補「九重の砌をめぐる䞉河氎䜏み越し末はたえじずぞ思ふ」は、『歎代倩皇埡補集』には「寄氎祝」の題で「九重のみぎりをめぐるみかは氎すみこし末はたえじずぞ思ふ」倩授二幎・千銖和歌ずなっおいる。

    【地文の解釈】地名に地図がリンクしおいたす。
    倧日山だいにちざん、和歌山垂井蟺

    和歌山垂倧日山
    和歌山垂井蟺 倧日山地図マピオン

    倧日山は、倩皇をあらわす。あるいは倩皇に関する䞲呂を衚わす。
    倧日は仏教の倧日劂来のこずで、『倩皇の本』孊習研究瀟・136頁に

    明治に神仏分離什が垃告される以前、日本では、すでに倧日劂来は倩照倧埡神ず同䞀芖されおいた。倩照倧埡神が倪陜神であるず同じく、無限無量の光を䞉千䞖界に照り攟぀倧日劂来もたた倪陜神であるから、䞡者は同じ神だずいう

    ずある様に「倧日劂来倩照倧埡神」は神仏習合の䞖界の垞識である様です。

    霊的には倩照倧埡神ず倩皇は䞀䜓であるずいう解釈も成り立぀ので「倧日倩照倧埡神倩皇」ず解釈するこずも出来たす。

    䞉浊芳聖は、倧日を倩皇ず解釈しおいたすが、倧日倩照倧埡神で「倩照倧埡神のご神諭により」切越町から牧平町倧門に移䜏したず解釈するこずも出来たす。

    九重くじゅう、和歌山県橋本垂高野口町

    高野口町九重
    和歌山県橋本垂高野口町 九重地図マピオン

    皇宀、宮䞭、犁䞭をあらわす。ここでは倧宝倩皇の皇居行圚所の意味。

    切越町きりこしちょう、愛知県岡厎垂

    切越町
    愛知県岡厎垂切越町 地図マピオン

    切越町は、氞享10幎1438より16幎間の倧宝倩皇の隠棲地。切越町䞭ノ坪地内山䞭にある埡座所跡に遺跡基の石補の倚局塔があり、ここで倧宝倩皇の神霊写真の撮圱が行われおいる。

    画像3
    䞉浊芳聖著『培底的に日本歎史の誀謬を糺す』286頁2の写真版より

    たた、その麓には昭和27幎珟圚、倧宝倩皇に扈埓しおいた臣䞋の子孫ず思われる兵頭、青山、本間を名乗る10戞䜙の人々が䜏んでいたずいう。
    藀原石山著『南朝正統皇䜍継承論』1988幎版所収「䞉河南朝遺臣朜居史考」88頁「倧宝倩皇隠棲の地ず䌝える切越の倚局塔」

    寺野薬垫堂おらのやくしどう、愛知県岡厎垂倏山町

    倏山町寺野
    愛知県岡厎垂倏山町 寺野薬垫堂地図マピオン
    画像4
    寺野薬垫堂愛知県岡厎垂倏山町

    寺野の倧クス、薬垫堂より転茉

    寺野の薬垫堂は倧宝倩皇の行圚所、暹高で愛知県䞀の倧楠で有名。地元の叀老は、お参りするず母乳がよく出るようになるので、「寺野のちち薬垫」ず呌んでいたすが、

    䞉浊家に䌝承された蚘録には「倧宝倩皇」が埡父束良倩皇が陰暊8月8日お薬垫さんの正圓日瞁日の降誕ゆえ、薬垫劂来ずし、皇后を毘沙門倩ずしお隠祀したので「父薬垫」ず称したず蚘されおあったそうです。正面のお扉に十六匁の菊花王が぀いおいたす。

    『倩皇の本』孊習研究瀟137頁には「阿匥陀劂来の西方極楜浄土を仏教発祥の地であるむンドに芋立おるず、極東にある日本こそ薬垫劂来の぀かさどる東方浄瑠璃䞖界ずいうこずになる。こうしたこずから、日本では倩皇がそのたた薬垫劂来に察応するずされた」ずあり、薬垫劂来倩皇ずいう解釈が成り立ちたす。

    寺野薬垫の倧楠愛知県岡厎垂倏山町

    画像2
    「寺野の倧楠」より転茉

    寺野の倧楠より転茉

    䞍思議な事に、この「寺野ちち薬垫」には、暹高では愛知県第䞀䜍の倧楠が聳え立っおいたす。この倧楠は、額田町を玹介するホヌム頁に「薬垫堂の屋根や村の家々を芋守るかのように、それはそれは倧きな枝を䞭倮にかざし、巚倧な根匵りが雄倧怪異で厖面に露出しおいる。昭和431968幎11月4日に愛知県の倩然蚘念物に指定された。暹霢千幎、幹囲12メヌトル、根囲27メヌトル、暹高は䜕ず36メヌトルあり、根元に立おばたさに霊感を芚える」ず出おいたした。

    画像
    寺野薬垫堂の倧楠「オカトピ」より転茉

    楠は、南朝倧忠臣倧楠公の楠であり、朚偏を取れば南で南朝方のシンボルでもありたす。倧宝倩皇が皇嚁の回埩を祈っお切越町で倧般若六癟巻を念曞した話は、䞲呂哲孊ずはで述べたしたが、切越町に近いこの寺野薬垫堂でも熱祷祈願されたこずず拝察いたしたす。 【参照】寺野の倧楠

    埡正䜓山みしょうたいやた、山梚県郜留垂倧野

    埡正䜓山
    山梚県郜留垂倧野 埡正䜓山地図マピオン

    埡正䜓山は、その正䜓を鑑定する重芁䞲呂起点で、埡正䜓山ずいう名の山は日本で唯䞀、ここだけです。

    ここでは「寺野薬垫堂」は、建物の芏暡は小さいけれども、実際、倧宝倩皇が建立した勅願寺ですから、その正䜓は、霊的には東京郜䞭野区新井の新井薬垫新井山梅照院薬王寺のように堂々たる薬垫堂であるず解釈したす。

    新井薬垫あらいやくし、東京郜䞭野区新井

    新井薬垫
    東京郜䞭野区新井 新井薬垫地図マピオン

    新井薬垫は、薬垫劂来を祀る「新井山梅照院薬王寺」のこず。毎月の日の瞁日 は、倧勢の人でにぎわう。10月䞋旬28日頃には倧般若経六癟巻転読法䌚が行われる。寺野薬垫堂が倧宝倩皇が建立された由緒ある勅願寺であるこずを衚わす。

    、この神颚䞲呂の哲孊的考察

    この䞲呂は「九重」「切越町」の地名が、倧宝倩皇の埡補「九重の砌をめぐる䞉河氎䜏み越し末は絶えじずぞ思ふ」を昭瀺するずずもに、倧宝倩皇の写経の道堎であり、行圚所であった寺野薬垫堂の本質正䜓が、芏暡は小さいけれども霊的には堂々たる勅願寺であるこずを昭瀺しおいたす。

    その寺野薬垫堂を守護するがごずく聳え立぀倧楠は、暹高36メヌトル、幹呚りは12メヌトルで愛知県内第番目の倧きさである。神々が、こうたでしお神皇正統家の顕地に努めおいるこずの重倧性を認識するこずが䞲呂哲孊の芁諊であるず思いたす。

    🔎バックナンバヌ総合

    🟡情報拡散のお願い

     この蚘事に到着された貎方様ずのご瞁に感謝しおいたす。これは皇祖神・倩照倧埡神から地䞊に掟遣された神皇正統嫡皇孫・䞉浊芳聖が解明した神颚䞲呂の玹介蚘事です。

    䞉浊芳聖が解明した神颚䞲呂には、日本民族の進むべき道が、明確に瀺されおいたす。日本民族の危急存亡の時に圓たり、䞀人でも倚くの方に読んで頂けるよう、この情報を拡散䞋さいたすよう、宜しくお願い臎したす。

    䞲呂䞻宰神は、なぜ、長期間かけお神颚䞲呂を構築し、このように神皇正統の倩皇を顕地されるのかこの䞀点を培底的に講究したすず、神颚䞲呂の芁諊が理解でき、今我々は、䜕を第䞀ずすべきかが分かりたす。ここに日本民族の存亡が掛かっおいるのです。真実に目芚めたしょう

    2千幎以䞊の長幎月を掛け神颚䞲呂を構築された、䞲呂䞻宰神・倩照倧埡神様のご苊心ず、生涯を掛けお神颚䞲呂を解明された䞉浊芳聖垫のご努力が、日本囜ず日本囜民の皆様の幞せの為に生かされたすよう願っおやみたせん。
    神颚䞲呂は、神界から日本民族ぞの目に芋えるメッセヌゞ啓瀺です。

    神颚䞲呂ず神颚䞲呂に昭瀺されおいる「神皇正統家」は日本民族の宝ですさらに研究を進めたしょう

    䞀人でも倚くの方に、神颚䞲呂の存圚をシェアしお頂きたすよう宜しくお願いしたす。

    神颚䞲呂を䞻宰しおおられる神様は、倩照倧埡神様ですので、䞲呂の存圚を䞀人でも倚くの方々にお知らせするず、倩照倧埡神様がずおもお喜びになられたす。

    出兞は䞉浊芳聖著『培底的に日本歎史の誀謬を糺す』を始め『䞲呂哲孊第䞀茯』『神颚䞲呂』『䞲呂哲孊』『䞲呂哲孊ず地文孊』『神颚䞲呂の解明』等、通算181号いずれも神颚䞲呂講究所発行、1955幎1971幎 を参考にしお、研究成果を加味したした。

    🟡前号№7
    🟢次号№9

    
    🟡最埌たでお読みいただき有り難うございたす。
    䞲呂哲孊研究䌚 鈎朚超䞖志
    ブ ロ グ 䞲呂哲孊研究䌚
    メ  ルshinpukanro024@yahoo.co.jp
    

     
     
    青幎時代に、神皇正統家に極秘で䌝承された神颚䞲呂を孊ぶ神瞁に恵たれ、爟来、现々ず䞲呂哲孊の研究を実斜しお参りたした䞀孊埒です。神颚䞲呂を玹介しながら、日本神界の神経綞かみしくみを研究考察しお参りたす。䞀人でも倚くの方々に䞲呂哲孊の存圚を知っお頂ければ望倖の喜びです。

    あなたぞのおすすめ