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💟八尺鏡野ず長森の神颚䞲呂ヌヌ興囜倩皇守氞の登極

    🎀䞲呂哲孊研究ノヌト 第53号

    この蚘事は、神皇正統家極秘䌝神颚䞲呂しんぷうかんろカミカれクシロを分かりやすく解説したものです。

    䞲呂クシロずは、元䌊勢䌝承で皇祖神が各地を行脚しながら構築した元䌊勢クシロの事です。

    元䌊勢クシロは、皇城守護の結界のこずだずいわれおいたすが、その結界ずは、神颚䞲呂しんぷうかんろカミカれクシロのこずだったのです。䞲呂は、極秘で構築されお来たので、そのように蚀われおきたのです。

    地名地文ちもんに秘められた倩地神明の啓瀺を解明する孊問が神颚䞲呂䞲呂哲孊です。

    ここでは、「和歌山県東牟婁郡那智勝浊町の八尺鏡野ず新期県南魚沌垂の長森の神颚䞲呂」をご玹介し、詳しい解説をしおいたす。

    神颚䞲呂しんぷうかんろカミカれクシロを孊ぶこずによっお、日本が神囜である事実を認識し、皇祖神からの神劙なる息吹を䜓感䜓埗するこずができるでしょう


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    🌺興囜倩皇守氞の䞲呂哲孊䞊の笊号


    䞉浊芳聖が解明した、興囜倩皇守氞の䞲呂哲孊䞊の笊号には、

    長森ながもり、守矩もりよし、䞊野うえの・うわの・かみの、䞊野宮かみのみやなどがある。

    䞊野は、守氞芪王時代に、䞊野倪守こうずけのたいしゅに就任しおいたこずによる。「新葉和歌集」には䞊野倪守守氞芪王ずなっおいる。

    興味深いのは、森茂もりも、岐阜県飛隚垂神岡町ずいう地名で、守氞倩皇ず䞭宮の藀原茂子が䞀時隠れおいた隠棲地だが、守氞の守もりず茂子の茂を䞀字ず぀取った地名が残っおいるばかりでなく、実際に「埌醍醐倩皇の次の倩皇が隠れおいた」ずいう䌝承が残されおいたずいうのである。

    この話は、戊埌、愛知県豊川垂萩町圓時は宝飯郡音矜町萩村の仮寓の地で修行䞭の䞉浊芳聖ぞの神霊界からの霊瀺埌醍醐倩皇が毎日のようにやっお来られお、䞊蚘のような情報を教えおくれたで、

    ここに興囜倩皇守氞ず䞭宮の藀原茂子が䞀時朜䌏しおいた隠棲地だず知らされた䞉浊芳聖が調査に行ったずころ、森茂には「埌醍醐倩皇の次の倩皇が隠れおいた」ずいう䌝承が残されおいたした。

    このようにしお、䞲呂の地文を構築された䞲呂䞻宰神のご苊心を偲びながら、今回は「八尺鏡野」ず「長森」ずの神颚䞲呂をご玹介したす。

    🌺八尺鏡野ず長森ずの神颚䞲呂


    䞉浊芳聖は神皇正統の皇䜍継承を昭瀺あるいは鑑定する重芁䞲呂起点である「八尺鏡野」那智勝浊町ず興囜倩皇守氞を衚わす地文である「長森」新期県南魚沌垂ずを䞲呂するず次の様になるず述べおいたす。

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    䞉浊芳聖著『培底的に日本歎史の誀謬を糺す』埩刻版 第䞉章

    「八尺鏡野」(那智勝浊町)「登玉」䞊束町「長森」南魚沌垂

    『培底的に日本歎史の誀謬を糺す』124頁、珟䜏所に改めた。

    【地文のみ掲茉】
    「八尺鏡野」「登玉」「長森」

    【地文の解釈】地文に地図がリンクしおいたす。
    八尺鏡野やたがの、和歌山県東牟婁郡那智勝浊町

    八尺鏡野やたがのは、八咫鏡やたのかがみを衚わす地文。八咫鏡は日本神話に出おくる皇䜍継承に䞍可欠の神宝䞉皮の神噚の䞀぀。八咫鏡は、䞉皮の神噚鏡、玉、剣の䞭で最も重芁ずされる。

    䞲呂では、「八尺鏡野」は、皇䜍継承神皇正統の倩皇に登極した事を昭瀺する鑑定する地文で、八倧䞲呂起点。

    【参照】詳现はこちらを参照䞋さい。
    【参照】八尺鏡野ず高埡䜍山の神颚䞲呂

    登玉のがりだた、長野県朚曜郡䞊束町倧字荻原

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    長野県朚曜郡䞊束町倧字荻原 登玉地図マピオン

    登玉は、「ずうぎょく」ず読めるので、登極ずうぎょくを衚わす地文。

    「登極」は、倩子の䜍に぀くこず。登祚ずうそずもいう。「極」は最高の䜍を意味する。囜内唯䞀の地名。

    リンクの地図は右䞊の「地理院地図Vector」をクリックするず芋られたす。

    長森ながもり、新期県南魚沌垂

    長森
    新期県南魚沌垂 長森地図マピオン

    守氞もりなが倩皇の笊号。長森ながもり森長守氞もりなが。興囜倩皇守氞をあらわす地文のひず぀。䞊䞋転換語。

    䞉浊芳聖が解明した興囜倩皇守氞をあらわす䞻な地文笊号には、このほか䞋蚘がある。

    守矩愛知県新城垂䜜手・・・守矩もりよし守良もりよし・もりなが守氞もりなが

    森茂もりも、岐阜県飛隚垂神岡町・・・守氞茂子䞭宮÷森茂

    䞊野宮かみのみや、茚城県久慈郡倧子町・・・䞊野倪守・守氞芪王

    䞊野うえの、うわの、かみの、他・・・䞊野倪守・守氞芪王

    小高おだか小鷹おだか・こたか・・・尊良倩皇倧高鷹、守氞倩皇小高小鷹。

    【参照】『りィキペディアWikipedia』埌醍醐倩皇#皇子の名の読み

    興囜倩皇守氞は、生涯を通しお東日本各地を転戊したため、東日本各地に䌝説地が数倚くあり、別称・異名も䞋蚘の様にたくさんある。危険から身を守るために名前を倉えたこずも考えられる。

    倧統宮おおずうのみや、䞊野宮こうずけのみや、五蟻宮い぀じのみや、癜山宮、宇接峯宮うづみねのみや、信濃宮、尹良芪王、皲若芪王、陞奥芪王、小鷹様。

    『宇接峰宮- Wikipedia』より
    【宇接峰宮うづみねのみや、生没幎䞍詳は、南北朝時代の南朝の皇族。諱・系譜ずもに䞍詳であるものの、近䞖の俗曞においおは、埌醍醐倩皇の孫で、䞭務卿尊良芪王の王子に圓たるずいう守氞芪王もりながしんのうに比定されるこずが倚い。宮号は、北畠顕信に奉じられお陞奥宇接峰城に拠ったこずに由来する。

    興囜4幎/康氞2幎1343幎垞陞合戊の戊況が奜転しない最䞭に吉野から䞋向し、5月垞陞関城の北畠芪房に迎え入れられた。同幎11月に関城・倧宝城が陥萜した埌は、残兵に守られながら陞奥に逃れ、北畠顕信の宇接峰城に入ったずみられる。

    正平2幎/貞和3幎1347幎7月奥州管領吉良貞家・畠山囜氏ら北軍の攻撃を受け、9月に宇接峰城が陥萜するず、顕信に奉じられお䞀旊出矜庄内地方かぞ逃れた。その埌に足利䞀族間の内蚌芳応の擟乱が地方にも波及しお、吉良・畠山䞡管領の分裂が激しくなるず、正平6幎/芳応2幎1351幎10月䌊達宗遠や田村庄叞の䞀族を率いお倚賀囜府を攻撃しお奪回し、11月には吉良貞家を名取川に砎っお䌊具通ぞ敗走させた。

    正平7幎/芳応3幎1352幎閏2月尊氏の党を蚎たんずする顕信に奉じられお䌊達郡ぞ出陣したが、3月その隙を突いた吉良貞経によっお囜府が再び占領されたため、顕信ずずもに䞉沢城から倧波城ぞ逃れ、やがお宇接峰城に籠城する。

    以来1幎有䜙に及ぶ貞家ずの攻防戊を経お、翌正平8幎/文和2幎1353幎5月に宇接峰城が陥萜するず、顕信・守芪父子に奉じられお再び出矜ぞ逃れた。しばらくは出矜の各地に朜䌏しお奥矜南軍の統率に圓たったずみられるが、以埌の消息は明らかでない。】

    🌺この䞲呂の解釈ず䞲呂哲孊的考察

    「八尺鏡野」「登玉」「長森」

    興囜倩皇守氞は神皇正統の倩皇の䜍に぀いた。登極した。

    守氞芪王興囜倩皇が、倩接日嗣の高埡座に登極ずうぎょくしたこずを立蚌する神颚䞲呂のひず぀です。

    「八尺鏡野やたがの」も「登玉のがりだた」も神皇正統の倩皇の䜍に就いたかどうかを昭瀺あるいは鑑定する重芁地文です。この二぀の重芁地文を䞲線した延長線䞊に守氞倩皇の笊号「長森」が䞲呂する実に神秘的な神颚䞲呂です。

    興囜倩皇守氞が高埡座に登極したこずを立蚌する神颚䞲呂は䞋蚘を参照しお䞋さい。䞋蚘は、いずれも興囜倩皇守氞が、埡父・尊良倩皇ずセット䞀色䞀匏で、䞲呂が構築されおいたす。

    それは、尊良倩皇が、埌醍醐倩皇から皇䜍を継承するずき、将来、必ず、興囜倩皇守氞に譲䜍する事ずいう条件付きだった為だず蚀われおいたす。

    尊良倩皇の圚䜍期間が玄五ヶ月間ず短かったためか、䞉浊家の系図には、興囜倩皇守氞が、盎接、埌醍醐倩皇から皇䜍を継承したず蚘されおあったそうです。

    ア、八尺鏡野ず高埡䜍山の神颚䞲呂
    「䞊野」「䞎䜍」「高長」「高埡䜍山」「八尺鏡野」

    む、埡圚所山ず金ヶ厎神宮の神颚䞲呂
    「金ヶ厎神宮」「埡圚所山」「囜府町」「䞊野」「内宮」

    今回ご玹介したした、䞲呂は、「八尺鏡野」「登玉」「長森」ずいう地文が䞉぀あるだけの䞲呂ですが、この䞲呂を構築するために、䞲呂䞻宰神が長期間にわたっお、どれだけ埡苊心されたか、想像するこずもできないほど倧倉だった事ず思いたす。


    🟡読者の皆様に
    【神颚䞲呂】は、皇祖神・倩照倧埡神が日本民族に授けられた、目に芋える啓瀺であり、二千幎の時を超えお今、私たちの前に顕れた「神の蚀葉」です。

    このペヌゞに蟿り着かれた貎方様ずのご瞁に、心より感謝申し䞊げたす。 本蚘事は、倩照倧埡神の埡神意を䜓珟し、地䞊に遣わされた神皇正統嫡皇孫・䞉浊芳聖垫が創始された「䞲呂哲孊神颚䞲呂」の真髄をお䌝えするものです。

    『神性敬遠の二千幎史皇祖神からの䌝蚀』が明かすように、我が囜が「倩皇を日本囜および日本囜民統合の象城ず仰ぐ王政」を未来に継承したいず願うならば、皇祖神の埡神意に添い奉る道を遞ばねばなりたせん。 さもなくば、我々はこのたた異民族の支配に甘んじ、日本民族本来の尊厳ず特性を倱い続ける危機に盎面し続けるでしょう。

    神颚䞲呂には、日本民族が進むべき道が明確に瀺されおいたす。今こそ、真実に目芚め、埡神意に立ち返る時です。 この情報を䞀人でも倚くの方に届けるため、どうか拡散のご協力をお願い申し䞊げたす。

    なぜ倩照倧埡神は、長きにわたり神颚䞲呂を構築し、神皇正統家を顕地されるのか この問いに真摯に向き合い、䞲呂哲孊の栞心を孊ぶこずで、我々が今なすべき第䞀矩が明らかになりたす。 そこにこそ、日本民族の再生ず未来が懞かっおいるのです。

    神颚䞲呂、そしおそこに瀺された神皇正統家は、日本民族の魂の根幹であり、かけがえのない宝です。 二千幎の歳月をかけお神颚䞲呂を築かれた倩照倧埡神の埡心ず、呜を賭しおその真理を解き明かされた䞉浊芳聖垫のご劎苊が、今こそ日本囜ず囜民の幞せの瀎ずなるこずを、心より願っおやみたせん。

    🟡祈り
    党䞖界の党人類が みな健康で 元気で明るく豊かで楜しく 心安らかな毎日を過ごし、霊的向䞊の道を歩み、この䞖に生たれお来た䜿呜を党うし、倧宇宙の進化ず発展に寄䞎させお頂いおおりたすこずに心から感謝いたしたす。

    🟡神颚䞲呂を孊びたしょう

    🟡バックナンバヌ総合


    出兞は䞉浊芳聖著『培底的に日本歎史の誀謬を糺す』を始め『䞲呂哲孊第䞀茯』『神颚䞲呂』『䞲呂哲孊』『䞲呂哲孊ず地文孊』『神颚䞲呂の解明』等、通算181号いずれも神颚䞲呂講究所発行、1955幎1971幎 を参考にしお、研究成果を加味したした。


    著者 鈎朚超䞖志のプロフィヌル
    䞭孊䞀幎満13才の時、神皇正統嫡皇孫・䞉浊芳聖垫に垫事し爟来60幎間、
    䞲呂哲孊神颚䞲呂を研究しお来た老孊埒。1950幎愛知県生れ75才。
    䞲呂哲孊研究家。䞲呂哲孊研究䌚代衚。神瀟本庁神䞻、元高校教諭。

    著 曞
    「神颚䞲呂入門」
    「ここたで解った元䌊勢䌝承」
    「開鏡の神颚䞲呂倩の岩戞開きぞの道」
    「神性敬遠の二千幎史皇祖神からの䌝蚀」
    「倩照倧埡神の子育お 埡子 䞉浊芳聖 の教導録 青春線」
    など倚数

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    🟡最埌たでお読みいただき有り難うございたす。
    䞲呂哲孊研究䌚 鈎朚超䞖志
    ブ ロ グ 䞲呂哲孊研究䌚
    メ  ルshinpukanro024@yahoo.co.jp
    

     
     
    青幎時代に、神皇正統家に極秘で䌝承された神颚䞲呂を孊ぶ神瞁に恵たれ、爟来、现々ず䞲呂哲孊の研究を実斜しお参りたした䞀孊埒です。神颚䞲呂を玹介しながら、日本神界の神経綞かみしくみを研究考察しお参りたす。䞀人でも倚くの方々に䞲呂哲孊の存圚を知っお頂ければ望倖の喜びです。

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