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連絡帳の字が乱れている日は、母親も乱れて見えますか

    夕方、娘の連絡帳を開いたら、先生からの短いお返事の下に、昨日の私の字が残っていました。

    『帰宅後は熱もなく、元気に過ごしています』

    急いで書いたせいで、文字は右へ傾き、最後の「ます」は罫線にぶつかって小さくなっていました。書いたときは何とも思わなかったのに、明るい場所で見直すと、なんだか私の暮らしの裏側まで見られたような気がして、そっとページを閉じました。

    たった数行なのに。

    その日は、息子が朝から牛乳をこぼし、娘は図工で使う空き箱を玄関で思い出しました。箱を探して、濡れた床を拭いて、水筒を二本用意して、夫が置いたままのマグカップを流しへ運ぶ。その途中で連絡帳の欠席欄と体温欄を確認し、立ったまま書いた文字でした。

    事情まで書けば長いけれど、連絡帳に残るのは、少し乱れた字だけなんですよね。

    私はもともと、字を書くことが嫌いではありません。大学生のころはノートをきれいに取るほうで、都内で働いていたときも、付箋の文字が読みやすいと褒められたことがありました。結婚してからも、季節の便りにはなるべく手書きで一言添えます。便箋を選び、万年筆のインクが乾くのを待つ時間は、今でも好きです。

    だから余計に、学校へ出す字だけが雑になっていることに、少し引っかかったのかもしれません。好きだったはずの手書きが、いつの間にか、母親としての丁寧さを提出するものに見えていました。

    きれいな字で書かれた連絡帳を見ると、ちゃんと机に座り、落ち着いて子どもの話を聞き、その日の様子を整った文章にしているお母さんが浮かびます。実際には、その人も玄関で書いたのかもしれないし、夕飯の鍋を気にしながら書いたのかもしれない。それでも、紙の上では暮らしまで静かに整って見えるんです。

    学校から持ち帰るプリントの保護者欄にも、同じ気配があります。黒いペンでまっすぐ書かれた名前、判子の濃さ、端が揃った提出物。教室の箱に重ねられたら、どれが誰の家から来たものかなんて先生以外は知らないのに、私は娘が持っていく一枚に、わが家の印象までくっついているように感じてしまいます。角が少し折れているだけで、ランドセルへ入れ直したくなる。娘はまるで気にしていないのに、です。

    母親になる前は、字はその人のものだと思っていました。今はときどき、子どもの持ち物の一部として見られる気がします。名前を書くたび、私自身ではなく、娘の背中に貼る名札を整えているような、妙な緊張がありました。

    逆も、きっと同じです。

    乱れた字から、慌ただしさだけを読み取られる気がして、私は翌朝、いつもより少し早くダイニングの椅子に座りました。娘の欠席連絡ではなく、先生への確認事項を一つ書くために、ペンを持ち直し、「お世話になっております」からゆっくり始めました。

    けれど二行目で、息子が『靴下がない』と呼び、娘が『今日のハンカチどれ?』と聞きます。返事をしながら書いた「よろしくお願いいたします」は、また少し右上がりになりました。

    そこで、急におかしくなってしまったんです。

    私は誰に、整った朝を見せようとしていたんだろう。先生はたぶん、私の字から家の散らかり具合を想像したりしません。必要なことが読めれば、それで困らないはずです。それなのに私は、自分で勝手に、きれいな字の向こうへ「ちゃんとした母親」を置いて、追いつこうとしていました。

    娘は連絡帳をランドセルに入れながら、私の文字を見て『ママの字、急いでると走ってるみたいだね』と言いました。責めるでも褒めるでもなく、ただ面白そうに。

    走っている字。

    それなら、悪くないなと思いました。止まって丁寧に書ける朝もあるし、家族の声に呼ばれながら、文字まで走る朝もある。どちらも同じ家で過ごしている、私の字です。

    今朝の連絡帳の最後の一文字も、少しだけ罫線からはみ出していました。娘はもう靴を履いていて、玄関の向こうから『行ってきます』が聞こえました。私はペンの蓋を閉め、走っていく字のページを、そのままランドセルへ入れました。

     
     
    「いいわね、悩みなんてなさそうで」と言われるたびに、微笑みながら心のシャッターを下ろしています。 独り言のように書き留めています。

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