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削って、悩んで、諦めて。そこにあったのは、「等身大の自分」だった。

    「働くって、なんだろう?」

    そんな問いに目をくれたこともないくらい、身を粉にして働くことが、生活をするための務めだ、と長年思い込んできました。


    残業も、休日出勤もしていて、愚痴の1つや2つは、常に出てしまっていたけれども…ね。

    それでも、足を止めることはなく、自動思考的に職場へ向かう日々がありました。


    そこに涙ぐましい努力が…と言いたいところですが、こちらは、ネジが1、2個外れた人でして、それが平常ではなく、おかしなことだなんて、これっぽっちも思っていなかった。

    客観的に見たら、痛々しいと感じられるくらいに、働いていたのだと思います。


    今でこそ、家事と両立できるくらいに働くペースを落としましたが、ここまで読んでくださった方はお察しのとおり、元々は、かなりハードに働いていました。


    ここで、そのすべてを素直に書いてしまうと、あまりにドン引きされるかもしれないし、いろんなものに引っかかりかねないので、控えさせていただきますが、職場環境は、そこそこブラックだったのでしょう。


    わたしの価値観に引き寄せられるがままに、今で言う「ブラックな働き方」を普通のものとして受け入れ、自分の心身を叩き上げてきました。


    当時、わたしが仕事に捧げてきた時間や作業量を踏まえて、時給に換算すると…?などの現実は、見たくありません。


    きっと、郷に入っては郷に従えというもののようでして。

    そこのスピード感で、
    その職場内で常識だとされる量の仕事をこなせないとなったら…

    そんな自分は、ダメ人間だ。


    このように、本気で思って、どんなに自分を削ろうとも、やり抜いていました。


    当時、衣食住のうちの衣以外はすべて、実家に甘えるという、成人としては恥ずかしいような状態で、なんとかかんとか過ごせていました。

    稀に、食が危ぶまれることもありましたが…今、こうしてnoteを書けているということは、実家という環境に甘えたおかげで生き延びた、ということです。うん、よかった。



    忙しなく、無駄なく、滞りなく、がむしゃらに働くこと。

    まるで、それこそがわたしの存在価値であるかのように、仕事に対して、“命”人生を捧げてきたわたしが、職場で働く意味や自分のキャパシティを考えるきっかけとなったのは、自分の内面ではなく、外的な要因でした。


    • このままいたら、自分が先輩になりすぎて、もっと抜け出せなくなるかもしれない

    • 苦手な親族が、地元に帰ってくる可能性があるらしいから、無職でいたら何と言われるか…

    • 夫が県外へ転勤となって、通うのが現実的ではなくなった


    こうして並べて見ると、外的なものに理由を充てがっていることが見て取れます。

    一番大事なことに触れずして、自分に非のないようにする言い訳もいいところだなあ…と、今のわたしは、過去の自分に呆れてしまいます。


    本当は、そうなる前の段階で、自分の心身は、既に限界を迎えていたはずなのに。


    自分の本意ではない外的な要因によって、働き続けることができなくなったという理由でなければ、どんなにきつい職からも離れる決断ができなかったのです。

    ただ、わたしにとっては正当な理由のおかげで、自分の中を占めていた、一番大きなトピック「仕事」というものが、わたしの中から消えます。


    そして、どうなるのかといえば、

    自分という存在が、ちっぽけに見えるのですよね。

    ちっぽけというのは、決してネガティブなイメージではなくって。

    対社会の荒波に飲まれないようにと、無意識に着込み過ぎていた防御服でパンパンに膨れ上がっていたわたしの虚像が解かれて、背伸びもできない姿。


    つまり、その時の等身大の自分です。


    「本当のあなたは、ここにいたのね!」

    と、まるでジブリ作品の中のひと幕に出てきそうなセリフが浮かびました。



    等身大の自分は、何にも覆われていませんでした。
    あまりに自分を守る装備がなさすぎて、「働く」ということが不安で怖くなることも、しばしば。

    でも、かと言って、完全に「働かない」ということは、すぐに孤立する道を進もうとするわたしには、選択できないことでもありました。


    フルタイムから、時短の週5。

    そこからさらに、時短の週3。


    休日を多くすることで、エンジンをふかさなきゃいけないタイミングこそ増えましたが、家事との両立のしやすさや、夫との関係性は、以前よりも良くなりました。

    それまで自分が何を好きなのかもわからなかったわたしが、趣味や推しを見つけて、楽しむことができるくらいにもなりました。


    何より大きいのは、等身大の自分でいられる時間が、圧倒的に増えたことだと感じています。


    がむしゃらに働くことだけをして、自分の身体の状態をみること、ケアやフォローをしてこなかった時期。

    病気をして、思うように動けず、生活さえままならなかった時期。

    ライフスタイルの変化から、「働く」を再開しようとしたら立ちはだかってきたわたしの中の高い壁に直面していた時期。


    いろんな時を経て、等身大のわたしの気力や体力、エネルギー量では、無理が利く回数が有限であって、人並みと言われているような「働き方」が、現実的ではない…ということを知ってしまったのです。


    「働く」意味なんて、考えたことがなくて、大人になったら、そういうもんなんだ、としか思っていたのですが。

    こうして振り返ってみると、「働くこと」は、自分をより深く知ることにつながるんですね。
    等身大の自分を知るための入り口でもあるというか…。


    これからも、自分の歩む道を、自分で決められるように、ほそぼそとでもいいから、等身大の自分探しを続けていきたいと思います。



    ・・・

    働くことは、生活にとって必要なことであると共に、それぞれの背景や事情が大きく関係してくる、個人的な要素が強いものだということも、日々を通して感じていますし、先に述べたわたしの働き方が、みんなにとって良いということではないということも思っています。


    それぞれの経験を通して、自分を知っていく過程で、理想や夢の全てが叶わないこともあるかもしれませんが…それぞれの範囲でできることで、暮らし、支え合うことのできる社会であることを信じたいですし、心から願います。

    ・・・


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    RaM

     
     
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