
第8話 下りの京王線と、思い出と
家を出たとき外はまだ薄暗かった。
早朝の京王線下り。
車内はまだ静かで、乗客の数もまばらだ。
周囲を見渡すと、出勤中の会社員や、私と同じようなハイキング姿の人がチラホラと見える。
窓に映る自分の姿を眺めながら、ふと会社員のときのことを思い出す。
以前の自分なら、この時間帯はスーツに身を包み、逆方向の電車に揺られて都心へ向かっていたはずだ。
朝から晩まで、当たり前のように働いていた日々。20代はがむしゃらに、30代は結果に拘り、そして40代は責任も大きくプレッシャーに押しつぶされそうになりながらも、とにかく無我夢中に走り続けてきた。
誰にも知られていなかったが、会社員時代の無遅刻無欠勤は勲章だ。丈夫な体に産んでくれた両親に感謝。
退職を決意したのは、転勤や両親のことなど、様々な転機となる出来事が重なり、「あぁ、今がそのタイミングなんだな」と腑に落ちたからだった。
世間でいう「ミッドライフクライシス(中年の危機)」というやつも、少なからず関係していたのかもしれない。
でも一番は、毎週日曜日の夕方、単身赴任先へむかうときの玄関で、娘が号泣しながら「いかないで」と、足にしがみついてくること。これが効いた。
何のために、誰のために働いているのか…そんな想いが毎週毎週積み重なり、45歳で会社を辞める決意につながった。
人生は一度きりだ。今までは好きなように必死で働き、たくさん遊んできた。
これからは、本当に大切なものを一番大事にしながら生きていこう、そう思ったのだ。
楽しくもあり、厳しくもあり、必死で駆け抜けた23年間だった。
今でもたまに、会社員の時の夢を見て、ハッと目が覚めることがある。まだあの生活は体に刻まれているということだろう。
だが今、私はスーツではなく登山服を着て、ビル群に向かう通勤ラッシュとは真逆の「山」へ向かう電車に乗っている。
かつての日常が、まるで遠い昔の出来事のように思える。
平日の早朝、誰もが戦場へ向かう時間に、自分は山に出かける。
胸の奥で、じんわりと広がる解放感。そして、どこか後ろめたいような、小さな背徳感。
窓の外は流れるように景色がすぎていく。風景が少しずつ都会から緑へと変わっていく。
「まもなく、高尾山口〜」
アナウンスが流れ、私はリュックを背負い直した。
新宿から1時間、7:05高尾山口に到着。
今日、私はまた新しい一歩を踏み出す。
(つづく)