メインコンテンツへスキップ
見出し画像
Photo bykumakonoheya

1. NoMoreSeventh。第七日の、その先へ

    私は、セブンスデー・アドベンチスト教会に関係する環境で生まれ、育ちました。

    子どもの頃から、教会、信仰、家族は、互いに切り離しにくいものでした。

    この連載で書きたいのは、安息日や教義そのものではありません。

    その世界の中で、一人の子どもが何を見て、何が分からず、なぜ問い続けたのか。

    そして、その問いを抱えたまま大人になったあと、何が起きたのか。

    その記録です。

    私は、最初からこの世界を否定したかったわけではありません。

    むしろ、理解したかったのだと思います。

    どうして昨日と今日で説明が違うのだろう。

    宗教が基準なのか。

    法律が基準なのか。

    家族が基準なのか。

    分かれば、きっと辻褄が合う。

    そう思って、長い間、見ていました。

    振り返ると、40年以上、その作業を続けてきたことになります。

    一方で、私は「理解しようとすること」そのものを否定された経験もありました。

    それでも、問いは消えませんでした。

    この連載では、できる限り、

    記録から確認できること、

    自分の記憶、

    そして現在の自分の解釈を、

    分けて書いていきます。

    組織や学校については必要に応じて実名を記載し、個人については原則として仮名にします。

    誰かを吊し上げることが目的ではありません。

    ただし、起きたことを曖昧にするつもりもありません。

    この連載の名前を、

    NoMoreSeventh

    としました。

    これは、「第七日などなくなってしまえばいい」という意味ではありません。

    私にとっては、

    もう、第七日の内側だけから世界を説明しなくてもいい。

    という意味です。

    教会の外にも、人はいました。

    宗教が違っていても、困っている人を助ける人がいました。

    誰にも褒められなくても、静かに行動する人がいました。

    世界は、子どもの頃に説明されていたほど単純ではありませんでした。

    一週間には七日しかありません。

    八日目という日は、暦の上にはありません。

    でも、私には、その存在しない一日が必要だったのかもしれません。

    教えられた物語の続きをそのまま生きるのでもなく、

    その物語と戦い続けるのでもなく、

    自分の目でもう一度世界を見る日。

    私は、それをここでは、

    「八日目」

    と呼ぶことにします。

    これから、子どもの頃の祈り、三育学院での経験、家族と教会の境界、牧師や教会関係者とのやり取り、外部の専門家に助けを求めたこと、そしてカウンセリングの中で再び出会った「小学二年生の自分」のことを、少しずつ書いていきます。

    この連載は、誰かに答えてもらうためのものではありません。

    言葉を持たなかった頃の自分が、確かに見ていたもの。

    それを、大人になった今の私が、もう一度言葉にして置いていくための場所です。

    第七日の、その先へ。

    まだ暦にはない、

    八日目のほうへ。

     
     
    セブンスデー・アドベンチスト教会と三育学院に関係する環境で育ちました。 子どもの頃から感じていた違和感、家族と教会の境界、記録、そして回復の過程を、個人の経験として書いています。 記録・記憶・現在の解釈をできるだけ分けて残します。 NoMoreSeventh。第七日の、その先へ。

    あなたへのおすすめ