
12. 24時間の教育とは何だったのか
三育学院での生活を振り返ると、「24時間の教育」という言葉について、あらためて考えます。
礼拝、寮生活、食事、人間関係、休日の過ごし方。授業以外の時間にも、子どもたちはさまざまなことを学んでいました。
生活全体を通じて人を育てることには、他者への配慮や責任を学べるというよい面もあります。しかし、子どもたちが学んでいたのは、大人が意図して教えたことだけではありませんでした。
寮には、教団構成員の子どもたちも生活していました。それ自体に問題はありません。しかし、子ども同士の関係にも、教団内の人間関係や立場が影響していると感じる場面がありました。
中には、他の子どもに激しい暴力を振るう子どももいました。それでも、その子の親が教団内で占める立場などから、周囲が問題を指摘しにくいと感じる状況がありました。
私の記憶では、こうした暴力を振るう子どもの中には、親が教団の牧師や職員である子どもが繰り返し見られました。もちろん、牧師や教団職員の子どもが皆そうだったわけではありません。私には、家庭内で抱えていた不満や葛藤を、寮生活の中で他の子どもにぶつけているように見えることもありました。ただし、実際にどのような事情があったのかは分かりません。
問題は親の所属ではなく、誰の子どもかによって暴力への対応が変わってしまうことです。本来、大人が介入して被害を受けた子どもを守るべきところで、組織内の人間関係が優先されてしまう。
子どもたちは、何が正しいかよりも、誰の立場が強く、誰に逆らってはいけないのかを学んでいたのではないでしょうか。
教育とは、教える内容だけでは成立しません。大人が何を許し、何を見過ごし、誰の言葉を聞くのか。その振る舞いもまた、子どもたちに伝わります。
米国には、Miracle Meadows Schoolというキリスト教系寄宿学校がありました(Redditの情報)。1987年から2014年まで運営され、児童への身体的・性的・心理的虐待をめぐって訴訟が起こされました。2023年の報道によれば、和解総額は約1億ドルに達し、被告には学校や創設者のほか、セブンスデー・アドベンチスト教会の複数の関連組織も含まれていました。
もちろん、三育学院と同一視するものではありません。
ただ、私自身、小学生の頃から何十年にもわたり、教会やその関連組織は常に正しく、それに疑問を持つこと自体が「考えすぎ」「被害妄想」「後ろ向きすぎる」などと、繰り返し言われ続けてきました。
問題を指摘しても、その内容より先に、疑問を持つ私自身の方がおかしいとされてきたのです。
こうした事例を知ったとき、宗教教育や組織のあり方に疑問を持っていたのは、私一人ではなかったのだと思いました。
問題の内容や程度が同じだということではありません。それでも、宗教教育と生活指導が一体となり、子どもが大人の権威の下で暮らす環境には、組織の外に助けを求められる仕組みが必要ではないでしょうか。
三育学院では、授業で疑問を持って寮に戻っても、同じ価値観の中で生活が続きました。礼拝で違和感を持っても、翌朝また同じ日常が始まります。
学校としての教育と、教団の信仰や宗教的規範に基づく教育。その境界がどこにあるのか、子どもの私には分かりませんでした。
納得できないとき、一度離れて考える場所も、「今日はここまで」と区切ることも難しい。
今なら、教育にとって大切なのは、何を教えるかだけではないと思います。
教えられたものから一度距離を取り、自分で考え直せる場所があるか。
子どもが「分からない」「納得できない」「少し離れたい」と言える余白があるか。
24時間教育することより、24時間のどこかに、教育されない時間があること。
そして、その世界の外にいる人にも相談できること。
私は大人になってから、その大切さに気づきました。
参考資料:
Settlements in civil cases against defunct WV boarding school reach $100 million, attorneys say(West Virginia Watch, 2023年8月23日)