
11. 三育学院という世界
私が三育学院で過ごした時間を説明するのは簡単ではありません。学校であり、生活の場であり、宗教教育の場でもありました。授業が終わっても、その世界から出るわけではありません。
当時を振り返ると、夜中に誰かが暴力を受けている音が響いていたことを思い出します。
音だけではありません。目の前にいた人が上の人間に呼び出され、殴られたあとに戻ってくる姿も見ました。性別にかかわらず、暴力が振るわれる現場にも遭遇しました。
それでも当時の私には、「これは人に言ってはいけない」という感覚がありました。見ても、聞いても、外には言わない。それが日常になっていました。
昼間には「人を愛しなさい」と教えられ、夜には誰かが暴力を受けている音がする。苦しさを訴えれば、「赦せ」「信仰が弱い」「神にゆだねろ」と言って黙らせる大人たちがいる。
子どもの私には、この世界をどう理解すればよいのか分かりませんでした。
この問題は、三育学院だけでは終わりません。その背景には教団があり、国内外には大学を含む教育機関があります。宗教的な世界観を教えること自体は、宗教の自由として理解できます。
私が問題だと感じるのは、異なる世界観そのものではありません。
歴史的な出来事として語られる事柄が並べられる。その中には、史実として確認できるものも、確認できないものもあります。そこに権威者の言葉や宗教的な解釈が織り交ぜられ、その全体が区別なく「真実」として教えられる。
さらに、私が見てきた大人たちの中には、そうした権威者の言葉を、自分の主張を正当化するための道具のように使う人もいました。ある言葉で相手を納得させられなければ、今度は自分に都合のよい説明をしてくれる別の権威者の言葉を探してくる。
そのようなことが繰り返されると、何が確認された事実で、何が伝承で、何が信仰に基づく解釈なのか、その境界が見えなくなります。
しかも、別の説明を受け入れることには、「信仰を失う」「救われない」「地獄に行く」といった恐怖が結びついていました。
それでは、異なる考え方と安全に共存することが難しくなります。
そして、これは私にとって、単なる教育論ではありません。
私が関わってきたこの教育・宗教環境の中では、複数の人が自ら命を絶っています。その一部については、教団関係者へのメールにも記録を残しています。
私が把握している事例は、決して一人や二人にとどまりません。極めて限られた人間関係の中で、これほど自死が繰り返されていることに、私は強い疑問を抱いています。この頻度を、客観的な資料に基づいて検証する必要があるのではないかと感じています。
もちろん、私が把握している事例だけでは、統計的に自死の発生率が高いと断定することはできません。また、個々の自死と宗教教育との因果関係を、これらの事実だけから証明することもできません。
しかし、因果関係を証明できないことと、自死が繰り返されている状況を検証する必要がないことは別です。
それでも問いたい。
信仰を残す。学校を残す。教団を残す。
では、そこで育つ人間には何を残したいのでしょうか。
子どもの私は、暴力を見ても外に話してはいけないと思っていました。
今の私は、そうは思いません。
暴力を見たら、暴力だと言っていい。
怖かったら、怖かったと言っていい。
そして、外の人に話していい。