
26. 教会を離れても、結婚相手の家庭にまで来るのか
前回、教会を離れた後も、宗教的な人間関係が自分の仕事や将来の生活にまで及びかねないという恐怖について書きました。
しかし、その影響は、私自身にとどまりませんでした。
私の結婚相手とその家族は、私が育った教会とはまったく関係のない人々です。私は、宗教的な関係とは別に、自分の家庭を築きたいと考えていました。
ところが、私が育った家庭では、信仰、家族関係、仕事、財産が複雑に結びついていました。
私は事情を整理し、関係者が話し合えるようにしたいと考えていました。結婚相手の家族も心配し、間に入ろうとしてくれました。
しかし、その家族が理解している事情と、私が把握している出来事には、大きな食い違いがありました。
誰が、何を、どのように説明したのか。そのすべてを確認できたわけではありません。
ただ、当初は私を心配してくれた人々が、やがて私の説明を疑い、謝罪を求めるようになりました。
「そんな問題のある宗教団体が、日本で正式に活動しているはずがない」
「そんな現実があるはずがない。すべてあなたの思い込みではないか。被害妄想だろう」
「なぜ家族を信じないのか。あなたが間違っている。関係者に謝るべきだ」
そうした趣旨の言葉を向けられました。
私は困惑しました。
宗教的な指導を理由にした解雇や、信仰上の態度と財産上の判断を結びつける発言など、前回までに書いてきた出来事が、私の思い込みとして受け止められていたのです。
一方で、私が育った家族からは、別の言葉が返ってきました。
「教会の中のことは外に話すな。家族を壊す気か」
「同じ信仰を持つ人を信じられないのか」
「身内にSDA教団の牧師がいるんだぞ」
この頃から、身近な信仰者たちの言葉と行動の二面性が、いっそう際立って見えるようになりました。
結婚相手の家族には、問題など存在するはずがないと受け止められる。一方で、私が育った家族からは、その問題を外に話すなと言われる。
問題の存在を否定されることと、問題について話すことを止められることが、同時に起きていました。
信頼を求められながら、具体的な出来事を確認しようとすると、それ自体が問題にされる。私は、子どもの頃からの経験を思い出しました。
自分の存在まで否定され、記憶さえ消されていくように感じました。
私は、こうした人間関係から離れたいと思いました。
すべての信仰者が同じだと言いたいわけではありません。問題にしているのは、具体的な言葉と行動です。
存在しないはずの問題について、なぜ話してはいけないのでしょうか。
子どもの頃は「理解しようとすることは罪だ」と教えられ、大人になった今は、事情を確かめようとすると私の認識が否定される。
教会を離れても、結婚相手の家庭にまで来るのか。
私が恐ろしいのは、異なる意見ではありません。教会とは無関係だった人々まで巻き込まれ、私との信頼関係まで変わってしまうことです。
誰が正しいかではなく、何を言い、実際に何をしたのか。
ただ、それを確かめたいのです。