
29. 私たちは、巨大なバームクーヘンの中にいた
子どもの頃から、不思議に思っていたことがあります。
私が育ったSDA教会の宗教的な世界では、質問するたびに大人たちの説明の土台が変わりました。
法律について尋ねると「信仰の問題だ」。信仰について尋ねると「家族の問題だ」。家族について尋ねると「赦しなさい」。さらに疑問を持つと「信じないのか」と問われる。
私は、この構造を「バームクーヘン」と呼んでいました。
法律、信仰、家族、赦し、正義。立派な言葉が幾重にも重なっている。しかし、中心には穴があり、具体的な説明や責任が見えてこないのです。
牧師たちは、あらゆる問題を解決できる神の力を説いていました。一方、伝道活動の名のもとに、子どもや若者の意思や境界線を尊重しない大人たちがいました。
教会の大人たちは、小学生だった私に、銀行関係の仕事をしている親を持つ友達を、教会に連れてくるよう求めました。また、交通事故で亡くなった友人について、「なぜ証しをしないのか」と迫られたこともあります。「証し」とは、自分の経験を通じて神の働きや信仰を伝えることです。友人の死をどう受け止め、何を語るかは、私自身が決めることではないでしょうか。宗教的な問題は、友人や結婚相手の家族、職場、そして未来にまで持ち込まれました。
問題を相談しても、教会関係者から外部には話すなと言われる。精神的に不安定になった人を、まるで自分が神になったかのように「悪魔が取り憑いている」と決めつけ、本人の意思に反して教会へ連れていく。加害者と被害者を同席させ、被害を訴える声を封じようとする。謝罪があれば「もういいだろう」と終わらせ、相手の苦痛や責任には向き合わない。言っていることとやっていることがまったく一致していない。そんな大人たちの目を見ることは、私にとって恐怖以外の何ものでもありませんでした。
そして、大人たちは言うのです。
「感謝しなさい」「これは試練だ」「赦しなさい」「イエス・キリストはあなたのために死んでくださったのよ」
私は、いったい何に感謝すればよいのでしょうか。
そもそも、私は誰かに、自分のために死んでほしいと頼んだ覚えはありません。
まるで、宗教的な問題を時給0円で引き受けるカスタマーサポートです。
もう一つのバームクーヘンがあります。
第28回で書いた同級生だけでなく、同じ宗教的な世界で育ち、自ら命を絶った人々がいました。死の原因は分からず、宗教的な環境が原因とも断定できません。
それでも、亡くなった人々の記憶が、私の中で年輪のように積み重なっていく。
カウンセリングを通じて気づいたのは、私が求めていたのは完全な正義ではなく、言葉と行動の一貫性だったということです。
信仰を否定したいのではありません。信仰しない自由も尊重してほしいのです。
教会を離れた後まで宗教的な問題に巻き込まれず、問題を起こした当事者が自分の言動に責任を持つこと。
私は法的な保護を求めています。なぜ、教団関係者は法令遵守と私や家族の権利の尊重を明確に約束してくれないのでしょうか。
求めているのは特別な扱いではありません。自分と家族が、誰かの信仰や都合に左右されず、安全に暮らせること。ただ、それだけなのです。