
16.一体、何を信じているのかわからない
私は、質問すれば話が続くと思っていました。
「なぜですか」と聞けば、理由を教えてもらえる。分からなければ、さらに聞く。そうすれば、少しずつ理解できる。
でも、宗教や家族の話では、質問した瞬間に会話が終わることがありました。
「信仰だから」
「それがここのルールだから」
「考えすぎだ」
「そんなことを疑うべきではない」
「お世話になっている牧師がいる」
分からないから質問しているのに、疑問を持つ私自身が問題であるかのように扱われる。
しかも、大人たちの言うことは一致していませんでした。
大人になってからも、こんな言葉を耳にしました。
「牧師なんてたいしたことない」
「教会の中で不正なんていくらでもある」
ところが、別の場面では牧師の立場や教会内の人間関係を持ち出し、教会を守るよう求められる。疑問を口にすると、
「なぜクリスチャンを信じないのか?」
と返ってくる。
不正があるなら、なぜ正さないのでしょうか。牧師を信用していないのなら、なぜその立場を権威として持ち出すのでしょうか。なぜ矛盾を質問する私が、信仰を疑う人間になるのでしょうか。
一体、この人たちは何を信じているのでしょうか。神でしょうか。教会でしょうか。それとも人間関係や立場なのでしょうか。
さらに恐ろしかったのは、同じ人が信仰や愛を語りながら、人を傷つけ、脅すような言葉を口にし、何事もなかったかのように再び愛を語ることでした。
まるで一人の中に二つの人格があるようでした。
一方に都合の悪い出来事は、もう一方では最初から存在しなかったことになる。
私が何を言われ、何をされ、なぜ傷ついたのか。説明しても話がつながらない。それでも相手は信頼を求めてくる。
一昨日は左、昨日は右、今日は左、明日は上、明後日は下。
そのたびに正しさが変わり、理由を尋ねれば「信仰だから」と話が終わる。時には、「神の名前を叫べ」「ペテロになってもいいのか?」という言葉まで飛び出す。
これらは、幼少期から大人になるまで、異なる時期や場面で家族や周囲のクリスチャンから耳にした言葉です。
何が正しいか分からず、それでも従うよう求められる。自分の経験や記憶まで、なかったことにされる。
私は子どもの頃から、大人たちの言葉を覚え、比べるようになりました。
昨日は何と言っていたか。
別の人には何と説明しているか。
同じルールが全員に適用されているか。
言葉と行動は一致しているか。
質問できない代わりに、観察するようになったのです。
今になって思えば、それは、自分の経験を確かめ、何を正しいとするのか分からない大人たちの中で、自分自身を守るために身につけた処世術だったのでしょう。