
10. 小学二年生の私は、黙って見ていた
小学二年生の頃の自分を思い出すと、よくしゃべっている姿より、黙って人を見ている姿が浮かびます。
大人たちは、それぞれに真剣でした。
牧師が話す。
家族がそれを受け取り、家庭の中で話す。
また別の大人が、それを少し違う言葉で話す。
私は、その様子を見ていました。
そして不思議なことに、話の内容だけでなく、その周りにあるものまでよく覚えています。
誰がどこにいたか。
どんな顔をしていたか。
その前には何を話していたか。
誰が黙っていたか。
その場の空気が変わった瞬間。
子どもの私には、それらが何を意味するのか分かりませんでした。
ただ、覚えていました。
そして、覚えていることを日記に書いていました。
誰が何を言ったのか。
そのとき何が起きたのか。
自分は何を見て、どう感じたのか。
もちろん、子どもの日記です。出来事を客観的に記録するために書いていたわけではありません。
それでも、言葉にできない違和感を、分からないまま残しておくことはできました。
大人になってから昔の出来事を文章にすると、ときどき自分でも驚きます。
「あのとき、こんなところまで見ていたのか」と。
もちろん、記憶は記録ではありません。
時間が経てば変化することもあるし、自分の見方が正しかったとは限りません。
だから大人になった私は、記憶だけに頼らない方法を覚えました。
メールを残す。
話し合ったことを議事録にする。
日時を確認する。
以前の説明と照らし合わせる。
自分だけで判断できないことは、外部の人や専門家にも見てもらう。
実際、後年のやり取りでは、話し合いの翌日に議事録案を作り、相手に修正を求めるようにもなりました。
たぶん、これは突然身についた習慣ではありません。
小学二年生の私は、もちろん議事録を書くことはできませんでした。
でも、日記を書くことはできました。
見たことを覚えて、書いておく。
それが、当時の私にできることだったのだと思います。
長い間、その子は私の中でほとんどしゃべりませんでした。
ところが、大人になってカウンセリングを始めると、またその姿が出てきました。
何かを訴えるのではなく、じっとこちらを見ています。
まるで、こう尋ねているようでした。
「ちゃんと見てたよね?」
いまの私は、その子に、
「見ていたよ。だから今度は、残しておこう」
と答えているのだと思います。