
18. 悪魔の世界は、どこにあったのか
子どもの頃、私は教会の外の世界に怖さを感じていました。
教会の中には神がいて、外には誘惑や危険がある。
大争闘、善と悪、神と悪魔。
私は、そうした物語を通して世界を見ることを覚えました。
もちろん、宗教の象徴的な物語そのものを否定するつもりはありません。ただ、子どもにとって、象徴と現実を区別することは容易ではありません。
「外の世界は危ない」と繰り返し聞けば、外にいる人々まで危険に見えてくる。教会を離れることが、善い側から悪い側へ移ることのように感じられる。
ところが、一般の小学校に通い、教会の外の人々と接するうちに、教えられていた世界と現実が一致しないことに気づきました。
教会の外にも誠実な人はいます。教会の中にも、人を傷つける人はいます。
では、善と悪を分ける境界線は、どこにあるのでしょうか。
さらに不思議だったのは、「悪魔」という存在が、あまりにも都合よく使われているように見えたことです。
何か問題が起きれば、悪魔の働きだと説明される。信仰から離れようとすれば、誘惑に負けたと説明される。
しかし、それによって、実際に何が起きたのか、誰が何をしたのかという問いまで終わってしまうのであれば、それでよいのでしょうか。
私は、悪魔が存在するかどうかを証明したいわけではありません。
ただ、外の世界に悪魔がいるという物語がなければ、自分たちが「選ばれた側」にいるという確信を保てなくなるのではないか、と疑問に思ったのです。
教会の内外で善悪を分けられないなら、誰が正しい側にいるのかも、あらかじめ決められません。
それは、自分たちが選ばれた側にいると信じる人にとって、不安なことなのかもしれません。
権威ある人が「これは悪魔の働きだ」と説明すれば、その言葉を繰り返すだけで、自分も正しい側に立っているように感じられる。
自分で事実を調べたり、相手の事情を理解したりしなくても、誰かを悪魔の側に置くことで安心できてしまう。
そうなると、教会は善悪について考える場所ではなく、誰を悪い側に置くかを教わる場所になってしまわないでしょうか。
極端に言えば、誰かを悪魔の側に置く説明を権威者から受け取り、その言葉を繰り返すだけで、自分は選ばれた側だと確認できてしまうのです。
もしそうなら、「悪魔」という説明は、自分の行動を問い直すためではなく、自分の正しさを保証する便利な道具になってしまいます。
私には、外の世界を悪魔の世界として描くことの方が、むしろ恐ろしく感じられました。
なぜなら、目の前の人が何をしているかよりも、どちら側に属しているかが先に決まってしまうからです。
悪魔の世界は、本当に教会の外にだけあるのでしょうか。
それとも、善と悪を都合よく分け、目の前の人を見なくなってしまうこと自体に、もっと注意を向けるべきなのでしょうか。