
19. 汚れた世界に支えられる教会
小学生の頃から、私は教会の大人たちの言葉と行動を観察し、不思議に思うことがありました。
教会の外にある政府や大企業、世俗社会を否定的に語り、自分たちは特別な真理を知る、選ばれた存在だと、毎週のように説教で教えられていました。
しかし、教会へ向かうバスや地下鉄を運転する人たちも、その「汚れた世界」の人々なのでしょうか。
教会で使う電気、ガス、水道、通信は、誰が供給しているのでしょうか。
そこまで外の社会を低く評価するなら、すべて自分たちで用意すればよいのではないでしょうか。
もちろん、本当にそうすべきだと思っていたわけではありません。ただ、外の社会を批判しながら、その社会の人々に支えられていることを、大人たちはどう考えているのだろうと不思議だったのです。
成長するにつれ、同じ疑問を持つ場面が増えました。
教団に関係するADRAなどの国際的な人道支援活動では、政府や国際機関との協力、公的資金が用いられる場合もあります。
人道支援には大きな意義があります。しかし、その公的資金は、信仰の有無にかかわらず、社会の人々が納めた税金などに支えられています。
公的支援は、教団の信仰が社会から承認されたことを意味しません。公共的な活動が、制度に基づいて支援されているのです。
その活動を信仰の成果として語るのであれば、同時に、それを支える社会の人々への感謝や敬意も必要ではないでしょうか。
伝道活動についても同じです。
教会の人々が笑顔で親しげに近づきながら、「救われませんよ」と告げてくることにも、同じ矛盾を感じていました。
牧師からは「羊のように素直で、蛇のように賢く」という言葉を聞きました。また、「アメリカンのマーケティング手法」を応用したコーチングも紹介されました。
しかし、その手法は私には、伝道する側の責任を曖昧にし、働きかけられる相手に責任を負わせるものに感じられました。
政府や巨大企業を批判する教団自身も、国際的な組織として資金を集め、米国本部につながる仕組みの中で運営されています。
もちろん、組織には資金も管理も必要です。公的制度やマーケティング手法を利用すること自体を否定するつもりはありません。
しかし、他の巨大組織を批判しながら、自分たちも似た手法を使い、そのことには疑問を向けないのであれば、何が違うのでしょうか。
「蛇のように賢く」とは、都合よく基準を使い分けることなのでしょうか。
巨大組織を批判しながら、自らも組織としての正当性を強調する。その振る舞いは、皮肉にも私には非常にアメリカ企業的に見えました。
振り返れば、小学生の頃から不思議に思っていたのは、同じことでした。
なぜ、大人たちは他人に向ける批判の基準を、自分たち自身には当てはめないのでしょうか。
私は、教会が社会の制度を利用することを問題にしているのではありません。
社会の人々の労働や資金に支えられながら、その人々が生きる世界を低く評価し、自分たちを特別な存在として語ることに、矛盾を感じているのです。
教会を支えているのは、教会の中にいる人たちだけではありません。