
14. 正しい答えは、もう決まっていた
子どもの頃、私は質問をすれば、一緒に答えを探してもらえると思っていました。
しかし、宗教の話では、少し違うことがありました。
質問する前から、正しい答えが決まっているように感じるのです。
神は正しい。教会は正しい。信仰を持つことはよい。疑うことはよくない。
まず結論があり、そのあとに説明がついてくる。
小学三年生の頃、自分で聖書を読み、教えられた箇所以外にも目を通していました。すると、大人たちの説明と合わないところが出てきました。
それを自分なりに理解して口にしたところ、家族から「何かに洗脳されている」という趣旨のことを言われました。
聖書を読むように教えられているのに、自分で読んで考えると問題になる。
子どもの私には、不思議なことでした。
広島三育学院の中学生だった頃、教えられているルールと法律との関係(矛盾)を牧師に尋ねたときも、「それがここのルールだ」という趣旨の答えが返ってきました。
私は次第に、これは答えを探す会話ではなく、すでに決まっている答えに自分を合わせるための会話なのかもしれない、と思うようになりました。
小学三年生の頃の日記にも、私は「周囲の大人たちは、牧師が言った箇所しか読まず、教会が指定した部分しか信じていない」という趣旨のことを書いています。
私が問題だと感じるのは、宗教的な解釈が存在することではありません。
確認できる歴史的事実と、伝承や宗教的解釈が区別されないまま、一つの「真実」として教えられることです。
さらに、異なる説明を受け入れることが「救われない」「地獄に行く」といった恐怖と結びつけば、子どもが自由に考え、比較することは難しくなります。
そのまま大人になれば、異なる考え方に出会ったとき、それを単なる意見の違いではなく、自分の信仰や救いを脅かすものとして受け止めてしまうこともあるのではないでしょうか。
私が実際に話したSDA信徒の中には、答えの定まらない問いを向けると、権威ある説明や明確な正解を強く求める人がいました。
善と悪、白と黒という二元論では説明できない問題や、立場によって異なる答えが成り立つ問題について話し合おうとしても、そうした曖昧さを受け入れることが難しいように見える場面がありました。
私は、なぜ正解が一つに定まらないことを、そのまま受け止めて考え続けることが難しいのだろうと、不思議に感じていました。
もちろん、宗教には信じることが前提になる部分があります。
しかし、人間が実際に何をしたのかという出来事まで、信仰によって説明を変える必要はないはずです。
「教会は人を大切にする」と教えられていても、目の前で大切にされていないように見える人がいれば、なぜなのかと聞いていい。
説明と行動が違えば、その違いを確かめていい。
私は、その普通のことをしたかっただけでした。
答えを探す教育だったのか。それとも、すでに決められた答えへ子どもを到達させる教育だったのか。
子どもの頃の私が欲しかったのは、たぶん正解ではありません。
一緒に考えてくれる大人だったのだと思います。