
5. 「人を見るな」と父は言った
子どもの頃、父は私に「人を見るな」と言いました。
私は、その言葉を長い間、うまく理解できませんでした。
教会には牧師がいて、教師がいて、長老がいて、熱心な信徒がいました。子どもから見れば、当然、その人たちの言葉や行動を見ます。
ところが、誰かの言っていることと実際にしていることが違って見えて戸惑うと、父は「人を見るな」と言うのです。
たぶん父が言いたかったのは、人の失敗と、その人の価値や信仰そのものを混同するな、ということだったのでしょう。人間は間違う。だから、人間の失敗を理由に神まで否定する必要はない。大人になった今なら、そういう意味だったのかもしれないと思えます。
でも、子どもの私には別の疑問が残りました。
では、人を見なくていいのなら、誰の行動を見て「正しい」を学べばいいのだろう。
「隣人を愛しなさい」と教える人が、助けを求める人を黙らせるとき。
「嘘をついてはいけない」と教える人が、都合が悪くなると昨日までの説明をなかったことにするとき。
「自分のために生きるな」と教える人が、誰かを犠牲にしてでも、自分の立場や組織を守ろうとするとき。
難しかったのは、こうしたことが一人との間だけで起きたわけではなかったことです。
家族の中でも、教会員との間でも、三育学院の中でも、牧師との関係でも、似たことを経験しました。
場所や相手は違っても、
「なぜ信じないのか」
「家族を信じないのか」
「教会を信じないのか」
「信仰が足りないのではないか」
と、疑問を持った私の側が問われることがありました。
一方で、矛盾や不正について尋ねると、
「牧師なんてそんなもの」
「教会の中で不正なんていくらでもある」
というように、問題そのものを当然のこととして扱うような説明を受けることもありました。
私が知りたかったのは、その人や組織を信じるべきかどうか以前に、目の前で起きていることが、社会的なルールや倫理に反する行為ではないのか、ということでした。
けれど、矛盾を指摘すると、矛盾そのものではなく、私の信頼や忠誠のほうが問題にされる。時には、私の人生や社会的な立場を脅かすような言葉や行動まで向けられました。
信じるとは、その人の言葉と行動を確かめずに受け入れることなのだろうか。
それを見てはいけないのだろうか。
私は、むしろ見るようになりました。
言葉ではなく、行動を見る。
肩書ではなく、困ったときに何をするのかを見る。
そして不思議なことに、父自身は、その意味ではとても分かりやすい人でした。
父は信仰について長々とは語りませんでした。けれど、必要だと思えば黙って行動する人でした。
だから今になって思います。
「人を見るな」と言った父から、私は逆に、人の行動を見ることを覚えたのかもしれません。
完璧な人を探すためではありません。
その人が語るルールを、その人自身も引き受けているのかを見るためです。
「人を見るな」が、傷ついた側に沈黙を求める言葉として使われるなら、私は受け入れられません。
一方で、人の失敗と、その人の価値や信仰そのものを混同するな、という意味なら、そこには知恵もあると思います。
だから今の私は、
人を偶像化しない。
でも、人の行動から目をそらさない。
という形で、父の言葉を受け取り直しています。