
20. 次の世代に、何を残そうとしているのか
セブンスデー・アドベンチスト教会は、実に奇妙な構造体だと思います。
支配する側と、支配される側。虐待する側と、虐待される側。
私が経験した環境では、こうした関係が「牧師の言葉」や「信仰」によって正当化され、世代を超えて繰り返されることがありました。
牧師や教会員の家庭で育った子どもたちは、大人の言葉や行動を見て育ちます。家庭で身につけた関わり方が三育学院などの教育環境でも繰り返され、やがて大人になった子どもたちが、自分の家庭でも同じように振る舞う。
もちろん、すべての家庭や卒業生に当てはまるわけではありません。しかし、私が実際に見てきた中には、そのような世代間の連鎖がありました。
それが「正しい教育」や「信仰に基づく指導」として受け継がれるなら、誰がそのあり方を検証するのでしょうか。
私は、教会の中で起きた、ある出来事を今でも覚えています。
かつて自分の親から支配的な関わり方を受けて育った大人が、今度は自分の小学生の子どもに、同じような関わり方をしていました。
私は、その大人が親から受けていた関わり方も知っています。そして、その大人が次の世代に同じことを繰り返す場面を、実際に目撃しました。
子どもは肩を震わせ、泣きながら「私が罪深くてごめんなさい」と、大人に言われた言葉を祈っていました。
その祈りは、40分以上続きました。
私は後から話を聞いたのではありません。その場にいて、子どもの涙を見て、祈りの言葉を聞いていました。
私は、その場で何も言うことができませんでした。
当時の私は、安定した仕事に就くこともできず、自分自身が社会の中で何者にもなれていないように感じていました。
周囲を見れば、同世代の人たちは家庭を持ち、親になっていました。一方、私はまだ独身で、自分の将来さえ見通せずにいました。
家族からは、「いつまでそんな人生をやっているのか」と言われていました。まるで、私が好き好んでそのような人生を選んでいるかのような言い方でした。
目の前で起きていることは、おかしいと思っていました。しかし、当時の私には、その大人に向かって声を上げるだけの自信も、自分の立場を支えるものもありませんでした。
だからこそ、あのとき何も言えなかったことを、今でも覚えています。
親から子へ。そして、その子が大人になり、さらに次の子へ。
私が目撃したのは、世代を超えて繰り返される支配的な関わり方でした。
なぜこのようなことが許されるのか。どうすれば、この連鎖を断ち切れるのか。私は一人で考え続けていました。
以前、ある牧師から「教団の中には二世問題はない」という趣旨の説明を受けました。
本当に、そう言い切れるのでしょうか。
教団で育った二世・三世の人々について、卒業後や成人後の人生まで調査したことがあるのでしょうか。教団を離れた人々の声にも耳を傾けているのでしょうか。
私は小学生の頃から、「あなたたちは、いったい何を残したいのか」と問い続けてきました。
しかし、疑問を口にすると、「理解しようとするのは罪だ」「ペテロになるぞ、いいのか」といった言葉が返ってくることがありました。
私が求めていたのは、信仰を否定することではありません。
なぜそう考えるのか。なぜそのように行動するのか。その結果、誰がどのような影響を受けるのか。
それを理解したかったのです。
宗教を信じる自由は尊重されるべきです。同時に、信じない自由、疑問を持つ自由、理解しようとする自由もあるはずです。
次の世代に信仰を残そうとするなら、子どもたちが自由に問い、自分自身で判断することも尊重されるべきではないでしょうか。
理解することが咎められる環境に、次の世代の未来を託せるのでしょうか。