
1.
久しぶりに、
向田邦子のエッセイを読んでいる。
高校生の時、
現代国語の先生が授業で出した設問に
クラスで唯一回答できたことへの賞品として、先生がくださった本だ。
職員室で本を手渡しながら、
先生は前の授業で私の書いた
森鴎外『高瀬舟』の感想文が良かった
と褒めてくださった。
それくらいの思い出なのだが、
先生が
『この本をあなたに読んで欲しくて選んだ』とおっしゃったので、
私はとても嬉しかった。
悩みや不安、好きな同級生のこと。
そんな記憶が蘇った一冊だった。
2.18の時初めて、
自分のカメラを手に入れた。
黒いボディの『Canon AE-1』。
いつも首から斜めに下げていた。
『みなとみらい』になる前の
赤レンガ倉庫を撮影して
工事現場の人に叱られたり、
日本語の通じない中華街の路地で
猫の親子を撮影したりした。
時が過ぎ
子育てがひと段落しても
手に取ることはなくなっていた。
暗室で現像して自分で焼いていたなんて
もう信じられない。
今はデジタルカメラがある。
スマートフォンのカメラも優秀だ。
24枚撮り終えて現像に出すまで
写真の出来がわからない。
写真屋さんで受け取り
店先ですぐ確認した、
あの瞬間の落胆と歓喜を
ずしりと重い私のカメラは
思い出させた。
3.20代の初めに
初めて指輪をオーダーメイドした。
御徒町でルースを選んだ。
宝石商はスリランカの方で、
正確には言葉が通じないので
デッサンを描いた。
美しいネオンブルーの石に
囚われてしまったからだ。
おそらく小売はしていないのに、
知らずに入店した私を
お店の方はなごやかに迎えてくれ、
美しいゴールドの指輪になった。
出来上がった指輪を受け取り
その場ですぐに指にはめた。
あの時の高揚感は忘れがたい。
この石は『パライバトルマリン』という。
元気がなくなると眺め、
頑張る時ははめて出かける。
ゴールドが1グラム1500円もしなかった時代の話である。
4.
近い人が、
『なんとかなる』と言う人だった。
先回りして備えたい私に
『なんとかなる』と言う。
『なんとかって、具体的には?』と聞くと、
『その時にならないと分からない』と言う人だった。
考え過ぎる私が歯痒かったのかも知れない。
交わらない線だった。
ツバメの帯留を衝動買いした。
着物は自分で着られなかったので、
帯留が付けたくて着付けのお稽古に
通い始めた。
『なんとかなる』とは考えない。
『なんとかする』が、
私なのだなと思う。
5.10歳のクリスマスシーズンに
越路吹雪さんのディナーショーに
連れて行ってもらったことがある。
飾り付けのある大きなツリーのあるホテル、
照明は控えめだが煌びやかな会場に、
子どもは
私と知り合いの女の子だけだった。
バンドの生演奏に圧倒され、
子どもを見つけた越路さんが
握手してくださりサインもくださった。
上品なディナーにたじろぎつつ、
その歌声に聴き入っていた。
とても素敵だが、
どこか寂寞を感じた歌があった。
当時は意味は分からなかったが、
私の中に同じ感覚があったのかも知れない。
その曲が
『ラストダンスは私に』
だと知ったのは、
成人してからだった。
6.幼稚園の年中から8歳の夏休み期間、
姉と私は母方の実家に預けられていた。
その家は、
私が小学生になるまで茅葺き屋根で、
中央には麻紐で編んだブランコがあった。
母屋続きの牛小屋には
薄暗い和式トイレがあって、
小さな私は
落ちたらどうしようと怖かったものだ。
従姉妹たちは姉と歳が近く、
四歳下の私はいわゆる『みそっかす』で、
遊び相手のいない私は
牛を世話する祖父にいそいそとついていった。
牛は大きな潤んだ瞳で、
美しい毛並みは黒くツヤツヤだった。
姉は
怖いとか動物臭いと嫌がって、
『よく触れるね』と
半ば呆れていた。
『モーちゃん』と私は呼んで
餌をあげたり触ったり、
夏の間中可愛がったものだ。
牛小屋の牛が
毎年入れ替わっていたと知ったのは
小学生になってからだった。
モーちゃんは、
和牛だった。
7.あと少しで夕食という初夏の日、
『ギャー!』
と息子の叫ぶ声が聞こえた。
子ども部屋では
三人全員が泣いていて、
何が何だかわからなかった。
長男と次男が喧嘩をして
次男が腕を引っ張られたらしい。
三男は次男の泣き方が異様で
驚いたのだ。
空腹で目が回るなか、
腕に力の入らない次男を抱き、
泣く三男をベビーカーに乗せ、
ごめんなさいと泣く長男に
『大丈夫だよ』と
声を掛けながら、
暮れなずむ海辺の病院へ車を走らせた。
人もまばらな聖T病院。
三人とも泣いているので
医師は
『怪我をしたのはどの子?』
と尋ねた。
治療は腕をクイッとするだけ。
亜脱臼だったのだ。
次男は一瞬、
『ギャッ!』と叫んだが
すぐに眠ってしまった。
『ここだけの話……どうやって治すのですか?』
私が聞くと、
連れてきた時の状況がよぎったのか
医師は
『ここだけの話、ですよ……?』と
関節のはめ方を教えてくれた。
秘密の魔法を教わった気持ちになった。
夕食の支度はもう済んでいる!
『次は、いける』
妙な自信がついた帰り道、
すれ違う江ノ電にまで、笑いかけてしまった。
8.
木葉蝶は葉に擬態した蝶だ。
だが、知らぬ人には見分けもおろか、
虫ですらない。
学校や職場ではそつなくこなせるのに、
近い人との距離感が掴めない。
物心ついた頃には、
『おとなをくったようなこども』
と言われていた。
意味はわからなかった。
楽しそうに振る舞っていた高校生のころ、
ただ1人の人に見抜かれたことがある。
私にとっては生涯の親友だけれど、
家族ですら片想いがある。
いわんや友人である、
相手の気持ちは分からない。
私がその人にとって何であっても
私にはもう
『幸せ』を擬態せずにすむ相手がいる。
そのことを、
この上なく嬉しく思っている。
9.
小さな頃、
父が着席すると玄関に朝刊を取りに行き、
帰宅した父が言葉にする前に
冷蔵庫からキリンラガーとグラスを運んだ。
『Kは気が利くな』
と言われるのが誇らしかった。
就職し一人暮らしを始めた頃、
話があると父に呼び出された。
電車で父は
母の更年期症状が重く、鬱気味で
独りにするのは危険と医師に指摘された
と話した。
『お前、仕事を辞めてお母さんと一緒にいてくれないか』と父は言った。
『…そういう事は夫婦でしてください。症状が治って私が仕事に就いたら、また同じことになると思う…』
やっとの思いで答えた。
その刹那、
薄情な娘を見る父の
驚いた表情をまだ覚えている。
母も落ち着き
退職した父は20年ほど前
自分史を自費出版した。
あの電車での出来事の記述はなく、
三女の可愛さは別格と記してあった。
そこで初めて、私は父から卒業できた。
悔恨などは微塵もない。
ただ
『ああそうだったのか』と
霧が晴れたような気持ちだけだ。
昭和ヒトケタ生まれの両親は
90歳を超えたが元気だ。
私は三姉妹の次女。
人は見たいものを見て、
信じたいストーリーを描いてしまうのだ。
11.
誰かが私を薄情だとか、
冷たいとか言ったとしても
私は私を、そうだとは思わないことを選んだ。
自己憐憫や、今は良い思い出、
学びだったなどと
美しく記憶を上書きするなんぞ、
真平ごめんなのだ。
事実と解釈の間には、
時間も距離もある。
どんな出来事も、一方的な言い分は
受け入れなくて良い。
渡された物がなんであれ、
底には希望が残っているはずだ。
だってあれは、
パンドラの箱だったのだから
12.
養子に出されそうになった事がある。
父方の分家に後継がいなかったからで、
本当は物心つく前に
田舎の父の次兄宅に貰われるはずだったらしい。
反対したのは母方の祖母で、
おかげで私は養子に出されずに済んだ。
昭和の話だし、
昔は珍しい話でもない。
結局は養子にいかなかったのだから
もう良いではないかと言う人もいる。
だが、
三姉妹の中で
養子に出してもよい子どもに
選ばれたこと、
養子に出したくない子どもに
選ばれなかったこと。
両親になぜかと聞く気はないが、
その気持ちが消えることはない。
私は
私の好きな人に好かれたかったのだ。
13.
生きている間には
最後まで結論の出ないこともある。
私の選択が、
いつか後悔になる日が来るかもしれない。
でも、
後悔する一秒前まで幸せだったのなら、私はそれでいい。
選ぶという自由は、何事にも代え難い。
その自由が私を解放してくれたのだ。