
嵐のいない世界で、わたしは母になれるだろうか
当時は、VHSだった。
黒くて、おもちゃみたいに軽いプラスチック。それでも、翌朝になれば観たかった番組はきちんと録画されていた。
小学校3年生だった私はまだその扱いがわからず、夜遅くに帰ってくる父に置き手紙を残して眠りについた。「金曜日、22時からはじまる『花より男子』を録画してね」と。
1週間の終わり。父からすれば若者向けの恋愛番組など知ったこっちゃない。さっさと夜ご飯を食べて布団に入りたかっただろう。録画ボタンひとつでできる今とはちがって、設定も面倒だったと思う。それでも父は毎週わすれることなく録画してくれた。
そんな父のおかげもあり、通称『花男』からまんまと松潤推しになった小学生のわたしは、それ以降、のめり込むように嵐を好きになっていった。
今は休刊している男性アイドルの雑誌『POTATO』をおこづかいで手に入れ、松潤と結婚する未来を妄想しながら写真を切り抜いてシール帳に集めた。もちろん花男の映画も観に行った。引き続き父の力を借りながら、こんどは嵐のバラエティ番組をたくさん録画した。そういえば、人生で初めて買ったCDも『Love so sweet』のシングルだった。
しかし時とともに興味関心も変わり、高校2年生でkpopに目覚めてからは遠のいてしまった。実家のテレビは新しくなり、思春期に入ってからは父親と口を聞かなくなってしまった。そもそもテレビを観る時間が減り、毎日YouTubeでkpopアイドルのダンス動画を観ては、友達と韓国トレンドの話をする日々が高校卒業まで続いた。
ラストコンサートを観ようと思ったのは、弟からの「嵐の配信観る?」という連絡がきっかけだった。同棲中の彼女が観るらしく、いっしょに準備をしているらしい。そういえば嵐を好きだった姉はどうなのかと聞いてきたのだ。それが配信前日のこと。
上に書いた嵐との記憶を思い出しているうちに、なんだか立ち会わなければいけないような気がしてきて、弟に返信した。「観るわ」と。
最初で最後の嵐のライブ観戦だった。MCをしながら交代で着替える場面や、東京ドーム最上階の天井席まで会いに行くような壮大な演出に、自分が遠のいていた時間も着実に「嵐」をしていた彼らの時間の重みを感じた。どこか申し訳ない気持ちと、畏れと、懐かしさで、胸がいっぱいになる。
「人生初めての推し」こと松潤には、相変わらずどきどきした。さすがに大人の余裕を感じたけれど、不意に飛ばしてくるウインクや目を細めるようなカメラ目線に、熱心に追いかけていた当時の感覚が蘇ってくる。
嘘みたいだ。嵐が、終わってしまうなんて。
彼らの活動終了はわたしにとって、自分の青春時代、もっといえば少女時代が終わることを意味する。
いやもうとっくに終わっているのだけど、なんせ同じ身体に今と昔が詰まっているせいで、踏ん切りがつかない。今回嵐が終わることにより、強制的に次の時代へと押し出されたような気がする。
でも、あくまで「気がする」程度で、結局はその実感も湧かないまま、ついに嵐は活動を終了してしまった。
配信後、ふと向こうに目をやると、生後一ヶ月の赤ちゃんがご機嫌な様子で手足をばたつかせている。その隣には、パンツ一丁で横たわる男。
『花男』から嵐を好きになって19年、わたしはあれから松潤とは別の人と結婚して、娘が生まれた。分娩時間は5時間、それこそ嵐のように過ぎ去っていったスピード安産で、いつのまにか母になった。わたしの少女時代は、どんなに遅くとも2026年の4月21日に終わっているはずだ。
だが正直なところ、自分が母になったという実感はいまだない。毎日3時間おきの授乳とおむつ替えという、いかにも母親的な行為をしているにも関わらず、病院や役所で「ママ」と呼ばれるたびにドキッとしてしまう。
夫と赤ちゃんの3人の暮らしは、とても幸せだ。子を持ち、母となることは、少女の頃からうっすらと思い描いていた理想だった。これからの未来に2人がいると思うと、多少のことは乗り切れる気がする。
それなのに、どうも寂しい。
いずれ時が解決してくれると頭でわかっていても、やっぱり寂しい。一度産んでしまうと、当たり前だがもう母になる前には戻れない。思いつきで深夜に夫とコンビニに行くこともできないし、夜な夜な桃鉄で遊ぶこともできない。暇な休日に、ひとりで街に出かけることもない。
あまりにも贅沢な、そう思うことすら許されないような悩みであることは重々承知のうえで、前の暮らしを恋しく思うことがある。そしてそれは、我が子に対するこのうえない愛おしさや喜びとも、ちゃんと共存している。
配信中は、その混沌とした気持ちを落ち着かせるのに必死だった。人生を始めたばかりのちいさな娘と、数時間後にはグループとしての活動を終了する5人の姿。同じ部屋で彼らを交互に見ながら、最終的には無に近い感情に襲われた。配信中に泣くだろうと用意した手元のティッシュは、ついに使うことなく終わってしまった。
夜、子が眠りについたあと、ダイニングテーブルに座って夫とふたりで話していた時のことだった。
「俺、配信中にこっそり泣いてたんだよね。差詰は気づいてないと思うけど、〇〇ちゃん(娘)が俺の袖をぎゅっと掴んでくれててさ」
思い出すだけで泣けてくるわ、と笑いながら、夫はさめざめと泣き出した。映画やアニメといったコンテンツ以外で彼が泣くのは珍しい。どうしたのよ、と私が笑うと、夫はまた泣いた。
「だって、今はこんなに小さい〇〇ちゃん(娘)も、進学とか結婚とかで、いつか独り立ちしてしまうんだろうな、って」
父なんだ、と思った。
いつのまにか、恋人は父親になっていた。毎週『花男』を録画してくれた、わたしの父のように。
夫も、娘も、嵐も、みんな向こう側にいる。夫はちゃんと今にいて、なんなら未来まで見ている。娘も今この瞬間を必死に生きていて、嵐はすばらしい形で過去を収めた。
わたしだけが、今と過去をさまよいながら生きている。
わたしだけが、嵐が当たり前に存在していたはずの世界で、夫が「恋人」だったとき、つまりは母になる前の感覚のまま生きている。
最近、すこしだけ笑うようになった娘はさらに愛おしい。むちむちのほっぺを触りながら「おはよう」と声をかける朝には、出会えてよかった、と心から思う。「だいすきだよ」と何度も声をかける。
手をグーにして、一生懸命に哺乳瓶をつかもうとする彼女は、これから嵐のいない世界を生きていく。
そっちの世界に、わたしはいつ行けるだろう。
嵐がいないまま、わたしはちゃんと母になれるだろうか。
嵐のいない世界に慣れるには、もうすこし時間がかかるようだ。