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自分の顔を見たことがない父の話


    父「お前は俺に似てイケメンやろ」

    いきなり父はこういった。いや、父よ。鏡見たことあるんか?どこの角度から見ても自分はイケてないぞ。大丈夫か?

    まぁ、父がそう思うのも無理はない。父は目が見えないのである。先天性のものではない。途中で見えなくなったのである。


    自分が生まれる前の話なので父は自分の顔を見たことがない。もちろん妹もだ。母は盲学校時代にあっているのでかろうじて見えていたらしいが。

    ってことは母と自分の顔(記憶の中の)を合体させて

    =「イケメンではない」

    ってことはすぐにわかりそうなものなのだが(笑)

    馬鹿なことばかり言っている父。2026年3月に鍼灸院の仕事を辞めて人生の一区切りがついたところで、息子の立場から父の生い立ちについて振り返っていこうと思う。

    父から聞いたお話なのでおそらく十中八九嘘が入っていると思うが(笑)


    ということで、ざっくりと振り返ってみよう。


    父は1945年11月26日生まれである。そう、戦後生まれだ。当時は大家族が多かったのだが、父ももれなく10人近く兄弟がいたのである。いすぎて自分は理解できていない。冠婚葬祭で親戚が集まっても父自身が頭にはてなマークを浮かべていることが多い(笑)。

    ただでさえ多いのに声だけで特徴を見分けなければならないのだ。いや、聞き分けるが正しいか(笑)

    まぁ、そんな感じの家族に育てられ、しかも末っ子に近かったので結構自由に育てられたっぽい。高校にも行かせてもらって青春を謳歌していたのだ。

    その後はなんやかんやでトヨタ系の整備士となり、がっつり働きつつ、車を改造して楽しんでいた。

    そして、趣味と実益を兼ねた資格マニアであったため、運転免許証の項目はすべて埋めた。そしてついでに船舶の免許もとっていた。とり過ぎである。


    父は国家資格だけなら10個以上はあったといつもふかしをこいていた。どれがどの資格かよくわかっていないので多分嘘なんだろうと思う。

    そして、鉄板ネタなのだが、

    父「見えなくなってすべてパーやわ(笑)」

    って言っていつも笑っていたのである。どう反応していいかいつも困る(笑)


    話がだいぶそれてしまったのだが、そうやってなんとなく人生を謳歌していた父はまず一個目の壁にぶち当たったのだ。


    当時父はどちらかというと人に使えるのが苦手なタイプだったみたいである。そのため、友人と会社を立ち上げようという話になった。

    ただ、会社を立ち上げても成功するかどうかはわからない。当時父は一人目の奥さんと結婚しており、家庭を作ったばかりで安定した収入が必要な時である。何してんだ父よ・・・。そのタイミング、必要か?

    結局離婚して会社を立ち上げたのだが(ちゃんと今も残っている)・・・


    その話を成人になってから聞いて、

    父「お前には兄がいる」

    自分「はぁ?」

    ってびっくりしたのはいい思い出・・ではないが。

    そして、会社を立ち上げ社長となった父は仕事と趣味に明け暮れて・・・


    そして、運命の日がやってきた。


    父「うーん、最近目の調子がおかしいな」

    趣味のスキーを楽しんでいた時、父は目の異変に気が付いたのである。最初はすぐに治るから大丈夫だろう、って思って放置していたのだが・・・・

    仕事中にミスが続くようになってしまったのである。こうなっては仕方ない、と近所の眼科を受診すると・・・


    先生「ここでは手に負えないので大学病院を紹介します」

    といわれる。その際にできれば家族の方も一緒に行ってほしいといわれる。この時点で嫌な予感しかしないのだが、父はその時も結構気楽な感じで病院に行ったのである。


    そして、


    先生「このままでは確実に失明します」

    といわれた。父は

    何言っているのかわからない

    と、日本語分~かり~ません?ばりの混乱具合になったとのこと。
    いや、いまいち緊張感がないというか、言い方もう少しあったやろが・・って思うのだが。

    そのあと、病院から帰る際、父の母、自分から見るとばあちゃんだが、

    母「ごめんね、ほんとうにごめんね・・」

    といわれたのが一番ショックだったとのこと。目の前が真っ暗になってしまったという。

    そうして父の暗黒時代が始まったのである。

    仕事を辞めることになり、まだ片目の視力は残っていたがそのうち失明することが確定だったため、盲学校へ入ることに。盲学校に通うのも大変だったので、ついでに寮に入ることになった。

    父は成人していたため、鍼灸科という、鍼灸師になるための学科に入学。当時使っていた教科書を見せてもらったことがあるが、墨字(盲学校では印刷された本をこう言っている)で自分と同じ教科書を使っていた(笑)。

    最初はきれいな文字で書き込みされていたが、途中からだんだん下手な文字になっていき、あるページで突然文字が消えたのである。

    そのためか教科書は使っていた割にはかなりきれいな状態で残されていた。


    父の話に戻るが、父は盲学校ではそこそこ問題児だったらしい。いや、問題児?ではない年だったから(30代)、問題おやじなのか?

    なので、いつも冗談を言ったりして周りを困らせていた。息子として恥ずかしい。


    そして、運命の日。

    父がいつも通りおきるとあたりが真っ暗であった。早く起きすぎたかな・・って部屋のカーテンを開けるも変化なし。

    仕方ないので右往左往で手を前に伸ばしながら廊下を歩いていると、何か柔らかいものにぶつかったのである。

    父は真っ暗闇の中でようやく感じられた変化に必死でつかんだのだ。

    その、柔らかいものに。そう、本当に必死だったのだ。


    結局、その柔らかいものは寮母さんの大胸筋周辺の、なんというか、そう、脂肪の塊だったわけで。

    父は平手打ちをくらい、なんとか言い訳をしたのだが普段の行いが悪すぎたためしばらく信じてもらえなかったのだが、ようやく緊急事態だということに気が付かれ、病院へ。

    先生「完全に失明していますね」

    と、先生から言われ、父はさらに絶望することになってしまったのだ。左のほほをはらした状態で。そこに関しては自業自得だと息子として思う。

    その後はしばらく立ち直れないほど絶望し、寮を脱走して海に行って自〇をしようと飛び込もうとして、母に止められたり(たまたま近所の人が見かけて母に伝えていた)、自暴自棄になって周りの人にあたったりしていたのだが、

    時間の都合上、詳細は割愛する。


    そんなことより、この盲学校で父の運命を左右する出会いが発生するのである。

    そう、妻である。

    自分から見たら母であるが、両親の恋愛事情を書くのは非常に恥ずかしい。思っていた以上に恥ずかしい。

    ちなみに母は、先天性両股関節脱臼という整形疾患で、中学生当時手術をして右の股関節を曲がらなくして支えちゃえ。という珍しい手術をして右の股関節で支えながら歩くという歩き方を獲得したのである。

    左は骨切り術といって曲がっていたのをまっすぐにする手術だったそう。

    そういうことで、父と出会ったときから母は非常に足が遅いという状態であったのだ。

    まぁ、性格がうまくあったのかなんやかんやで二人は付き合うようになり、結婚に至ったのである。

    そうして、ここに、

    夫は全盲(中途失明)、母は歩行障害(独歩だが歩行速度が遅い)

    という夫婦が爆誕したのである。というか爆誕してくれないと自分が生まれないので困る。

    よく、父に、

    自分「よく結婚しようと思ったよね、大変じゃないの?」

    って聞くのであるが、

    父「まぁ、なんとかなるやろ。って思っていた」

    と笑顔で返してくるのである。実際なんとかなったのだが(笑)

    そうして、父と母は盲学校を卒業して鍼灸院を開業することになったのだが、

    そこで問題になるのが、

    二人して遠出できない

    問題である。見えない人と足が遅い人。組み合わせるとかなり厄介なのである。

    ということで、交通の便が良く、近くにスーパーや学校など何でもあって、そこそこ安いところ・・・

    って非常に都合がいいところを探すと、


    あった(笑)

    比較的大きな道路に近く、バスも通っており、学校も近い。保育園なんか徒歩1分で行けるレベルである。

    8個同じ家が建っている分譲住宅だったので、将来を見越して2軒購入し、1軒を貸家にしたのである。

    その後、自分と妹が無事に誕生したのである。ようやくかよ・・・。


    父、母ともに障害があって子育ては非常に大変だったらしいのだが、ありがたいことに近所の方、鍼灸院を利用してくれる方が子守をしてくれたりしてすくすくと育っていったのである。ありがたい。

    その頃には父も見えない生活に慣れ、徐々に活動範囲を広げていったのである。

    その活動の中で社会人のサウンドテーブルテニスという当時は盲人卓球といわれていたスポーツを立ち上げたのである。その年の石川国体(平成3年・1991年開催)に参加させるためだ。

    当時4人で立ち上げたクラブだが、このnoteを書いている現在も存続している。約30年ほどの歴史があるのか・・・。

    活動範囲が広くなるにつれて自分がいろんなところに連れていく機会が非常に増えたのである。

    ただ、当時は手引きが非常に拙く、父の顔を看板や枝にぶつけてしまうことが多々あったため、父に手引きを信用されなくなってしまったのである(笑)

    結局、数年前から申請していた盲導犬の話がうまく進み、父の順番が来たため東京で1か月の訓練うけたのちに自宅へ来たのであった。

    はじめて自宅で飼うわんちゃんに家族全員非常に浮かれていた。浮かれすぎてわんちゃんばっかり相手して、1か月ぶりに帰ってきた父をほったらかしにしていた。当時めっちゃさみしかったと酒に酔った父に言われた。すまん、父。

    こうして、田辺家は5人(4人+1匹)になり、ますます活動範囲が広がった。父はいろんなところに顔を出すので、石川県内では視覚障害のある方の中ではかなり有名になった。

    そのおかげで、父の息子として自分の顔も広くなってしまったのである。今はそれが自分の活動に役に立っているのである。不本意ながら。

    ただ、当時盲学校では田辺先生という、超有名な先生がいたため、父は自己紹介の時、

    父「有名じゃないほうの田辺です」

    と自己紹介をしていたのだ。芸人か。

    いろいろ活動している中に、盲導犬を連れて小学校で視覚障害についてお話しするという特別授業を行っていた。

    きっかけが、妹が学校でいじめを受けているということで先生が自宅に来た時の話である。

    いじめ自体はすぐに解決したのであるが、その時の先生が父のことを非常に気に入ったらしく、是非学校で話してくれ…っていったのが始まりであった。

    その先生とはいまだに年賀状でやり取りしている(笑)

    小学校で話をして時折テレビの取材を受けたりして挙句、24時間テレビ(地方版のほう)に出演して浅草キッドと卓球対決をしたりと

    よくわからい程充実した日々を送っていたのである。


    そんななか、父にさらなる事件が起こる。

    っていうか、父自身ではなく、自分だ。

    自分は中学、高校で柔道部に所属していたのであるが、高校時代の試合中に後頭部を強打して視力低下、視野欠損になってしまったのである。

    当時の父は自分よりも心配し、自分の友人に相談、結果盲学校で息子を勉強させるということを思い立ったのである。

    幸い盲学校の受験に合格し、盲学校に入学することが出来た。妹は介護の専門学校に入学し、その後息子、娘をともに卒業、就職まで世話することが出来たのだ。

    幸いなことに自分は視力が回復したので車の免許を取ることが出来、父の送り迎えができるようになった。一気に田辺家の移動事情が解決した瞬間であった。

    その後しばらくは特に変化らしい変化もなく淡々と過ごしていたのだが、

    父が表彰される機会が増えたのである。視覚障害関係の活動をしていたので、

    金沢市長→県知事と少しずつバージョンアップを繰り返し、

    最終的に厚生労働大臣に表彰されることになったのである。なんで?

    推薦人は金沢市長。同年に県知事からほかの方も推薦されていて同時に受賞となったみたい。ありがたいことである。

    正確には障害者自立更生等厚生労働大臣表彰という名前らしい。

    父「東京まで行かないと。うっきうきやな。」

    父、テンション高め。うざい。しかも、午後からは天皇陛下への拝謁が予定されているらしい。大丈夫か?父が行っても・・・。

    息子としては非常に不安であるが、めでたいことには変わりなく、

    自分「よかったね。楽しんできて」

    父「なにいっとる、おまえも行くんやで」

    ということで、自分も行くことになった。えぇ、大丈夫?(2度目)


    そうして、かなりビビりつつもその日その日を待っていたのだが、


    ※コロナ過のため中止します

    ってことで、表彰式自体が取りやめになった(笑)。そんなことあるんやな(笑)

    父、めっちゃ残念そう。息子、大爆笑。

    いや、非常にかわいそうであるが、仕方ない。ただ、ありがたいことに金沢市長に表彰伝達式ということで、時間をとっていただいた。推薦人の方も来て厳かに式は行われた。厳かすぎて記者に声をかけたが誰も来なかった。


    そんな感じで父の人生のピークを過ぎ、80歳になり、50年続いた鍼灸院をしめることになったのである。

    父「なんやかんやあったけど、無事に終えてほっとしたわ。」

    父がケーシー(セパレート型の白衣)を脱ぎ、鍼灸院の50年の歴史が終わった瞬間であった。


    なんとなく父の歴史を書いていったのであるが、ほかの人と比べるのはどうかと思うが、書いていて

    かなり人生の荒波を超えてきたな・・・

    っていうのが正直な感想である。そんな父の偉大な背中を見て育った息子は、

    小学校へ行き、ブラインドサッカーをしながら視覚障害についてお話し、子供たちに夢を語り、サインを書き、その足で・・・

    パチンコ屋へ

    向かう男へ成長したのであった。


    ※この話はノンフィクションであるが、若干スパイスがかかりまくっているので注意。









     
     
    皆様はじめまして。変態元理学療法士&便利屋のようちゃんです。現在は介護新人職員です。趣味でブラサカも行っています。 元視覚障害者であり、両親ともに障害者です(父全盲、母車いす)。 おもしろおかしく障害について(特に視覚障害について)語ってみたいと思っています。

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