
「ドラえもんは"最適化しないAI"として完成している」
最近ふと思っていることがあります。
日本社会の空気感や、資本主義の合理性、個人主義の価値観は、それぞれ別物のようでいて、実はずっと同じ場の中で混ざり合っているのではないか、ということです。
そしてそのバランスを考えていると、なぜか「ドラえもん」という存在が頭に浮かびます。
少し不思議なつながりですが、そのまま書いてみたいと思います。
日本社会の「空気で調整する感じ」
日本社会には、明文化されていないけれど、なんとなく共有されているルールがあるように思います。
・相手に恥をかかせないこと。
・なるべく衝突を避けること。
・言わなくても察すること。
・場のバランスを崩さないこと。
こうしたものは、外から見ると少し分かりにくい仕組みに見えるかもしれません。
ただ、一つだけ思い出す光景があります。
誰も反対していないのに、何も決まらない会議です。
全員が微妙に同意しているようで、でも終わってみると何も進んでいない。
あの独特の時間の止まり方は、空気の調整機能が少し過剰に働いたときに起きるもののように思います。
内側にいると、この仕組みは意外と機能していて、摩擦が少なくなる場面も多い。
ただ、その分だけ「言えなかったこと」が静かに積み上がっていく側面もあります。
「人間は感情や関係性の中などで揺れる存在である」という前提で調整されている感じ、とでも言えばいいでしょうか。
資本主義と個人主義が重なるとき
一方で現代社会は、かなりはっきりしたルールでも動いています。
・数字で評価すること。
・成果で判断すること。
・個人で責任を取ること。
・効率を上げること。
これらはとても分かりやすく、合理的でもあります。ただ、人間の感情や関係性のような「揺れ」とは、少し相性が悪い部分もあるように思います。
その結果として、空気で動いていた領域と、ルールで動かす領域が同じ場所に重なり、少しギクシャクすることがあるようにも感じます。
そこでなぜかドラえもんが出てきます
日本社会の空気感と、資本主義の合理性と、個人の欲望。
この三つが同じ場所に重なったとき、それを調整する存在のイメージを探していると、「ドラえもん」という像が浮かびます。
・機械でありながら家族、友達のような関係性の中にいる。
・未来から来たのに、今のここに留まる。
そういう存在として描かれているからかもしれません。
ドラえもんは未来の高性能ロボットですが、あまり冷たい合理性の存在ではありません。
むしろ、
・のび太を見捨てないこと
・一緒に関わり続けること
・問題を完全に消すより共に扱うこと
、といった距離感で描かれています。
ただ、正直に言うと、ドラえもんはそれほど有能な調整役でもありません。
道具は暴走するし、のび太は同じ失敗を繰り返す。「もしもボックス」で世界を書き換えようとしても、たいていどこかでほころびる。
それでも関わり続けるという、その「うまくいかなさごと引き受ける感じ」に、独特の安心感があるのだと思います。
ひみつ道具のちょうどよいスケール感
ひみつ道具も、世界を支配するとか社会を作り替えるといった方向にはあまり向かいません。
どちらかというと、
・少し楽をしたい
・少しやり直したい
・少し気持ちを整えたい
といった、かなり個人的なスケールの願いに寄り添っています。
つまりドラえもんの道具は、社会を変えるための装置というよりも、人が崩れないように支える装置として描かれているようにも見えます。
ドラえもんは「間をつなぐ存在」かもしれません
少し私的な見方ですが、ドラえもんは三つの要素の間にいる存在のようにも感じます。
・日本的な空気や関係性の感覚。
・資本主義的な合理性。
・個人の欲望や自由。
これらをどれか一つに決めつけるのではなく、壊さずに共存させる方向に働いている。
その意味で、ドラえもんは「支配する存在」というよりも、「調整する存在」に近いのかもしれません。
小さな社会としての家族
こうした考え方は、私自身の家族のあり方にも少し重なります。
そこではお金やルールもありますが、それ自体が中心というより、もう少し違う順番で動いている感覚があります。
まず関係性があること、その上にルールが乗ること、お金はその間を回す役割であること。
もちろんこれは理想論などいうつもりはなくて、あくまで一つの僕の実感に基づく感覚からのものです。
AIのこれからについて
今のAIは、どちらかというと合理性や効率性を強くする方向に進んでいるように見えます。一方で人間側は、それだけでは少ししんどい部分もあります。
そのため将来的には、正しいことを言うAIというよりも、一緒にいても疲れないAI、できれば少し癒されるAIのような方向性が重要になるのではないかと思います。
その意味で、ドラえもんは少し特殊な存在です。単なる機械ではなく、関係性の中にいる存在として描かれている。
パラメーターの数やベンチマークのスコアを競うのをやめた、僕だけのデバイスに居着く、少し不完全なローカルの知性。それがもし、22世紀の猫型ロボットの「正体」なのだとしたら。
おわりに
日本社会、資本主義、個人主義といったものは、それぞれ単独で存在しているというよりも、同じ場の中で常に調整され続けているものなのかもしれません。
ドラえもんという存在は、その調整のあり方を象徴したイメージとして捉えることができるように思います。
完璧な合理性を持つ存在というよりも、少し抜けていて、でも一緒にいてくれる存在。そうしたものに、人は意外と安心を感じるのかもしれません。
今のAIは、まだそこには届いていません。でも、そちらに向かおうとしている気配は、少しずつ感じます。