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ニーチェ入門⑤ ニヒリズムとは何か

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    「神の死」のあとに来るもの

    前回は、『悦ばしき知識』に登場する「神は死んだ」という言葉を読みました。狂人の寓話が告げていたのは、神への信仰が力を失ったという出来事の重大さが、まだ人々に理解されていない、ということでした。そして第五書の第三四三節でニーチェは、この信仰の上に建てられてきたもの、たとえばヨーロッパの道徳全体が、これから崩れていくだろうと予告していました。

    神の死のあとに、何が来るのか。ニーチェはその答えを「ニヒリズム」と呼びました。今回は、この概念を正面から取り上げます。

    ニヒリズムは、ニーチェの名前と最も強く結びついた言葉の一つです。第一回で、ニーチェについての通俗的なイメージの一つとして「ただのニヒリスト」を挙げました。しかし、ニーチェ自身にとって、ニヒリズムは自分が掲げる主義ではありませんでした。それは、ヨーロッパが直面しつつある事態についての診断であり、ニーチェ自身がその内側を通り抜けなければならない問題だったのです。

    先に断っておくべきテキストの問題

    本題に入る前に、一つ確認しておくべきことがあります。

    ニーチェがニヒリズムについて最もまとまった形で論じているのは、生前に出版された著作ではなく、一八八〇年代後半の遺稿、つまり公刊を意図していなかったメモの中です。第一回で取り上げた、妹エリーザベトが編集した『力への意志』は、ニヒリズムを論じたメモを冒頭に置き、全体を「ヨーロッパのニヒリズム」から始まる構成にしていました。そのため、ニヒリズムはニーチェの体系の出発点だというイメージが広まりました。

    しかし、この構成はエリーザベトたち編集者によるものであって、ニーチェ自身が完成させたものではありません。本連載では第一回で、生前の著作を中心に読み、遺稿を使うときはそれを明示すると述べました。今回はニヒリズムを主題とする以上、遺稿を多く参照しますが、そのつど遺稿であることを示し、出版された著作での議論と区別しながら進めていきます。

    「何のために」への答えがない

    遺稿の中でニーチェは、ニヒリズムを簡潔に定義しています。

    ニヒリズムとは何を意味するのか。最高の諸価値が、その価値を剥奪されること。目標が欠けている。「何のために」への答えが欠けている。一八八七年秋のメモで、ニーチェはこう書いています。

    ここで注目すべきは、「最高の諸価値が価値を剥奪される」という言い方です。ニヒリズムとは、何も信じない人がいるとか、価値のあるものが世界から消えたとかいう状態ではありません。かつて最高のものとされてきた価値、つまり神や真理や道徳が、もはやその価値を保てなくなるという過程を指しているのです。そして、その価値の剥奪は、外から誰かによって行われるのではなく、価値そのものの内側から起こる、とニーチェは考えました。

    ニヒリズムは「戸口に立っている」

    一八八五年から八六年ごろのメモで、ニーチェはこう書き始めています。ニヒリズムは戸口に立っている。この最も不気味な客は、どこからやって来るのか。

    ニーチェはここで、よくある説明をはっきり退けます。ニヒリズムの原因として、社会的な窮乏や、生理的な退化や、道徳的な腐敗を挙げるのは誤りだ、というのです。人々が貧しくなったから、体が弱ったから、道徳が乱れたから、人生に意味を見いだせなくなる、という説明は成り立たない。ニーチェによれば、窮乏は、魂の窮乏であれ身体の窮乏であれ、それ自体としてニヒリズムを生み出すことはありません。

    では、どこから来るのか。ニーチェの答えは、ある特定の解釈、つまりキリスト教的・道徳的な世界の解釈の中に、ニヒリズムが潜んでいる、というものでした。

    道徳という解毒剤

    この考えを最も詳しく展開しているのが、一八八七年六月、スイスのレンツァーハイデという土地で書かれた「ヨーロッパのニヒリズム」と題する遺稿です。

    ニーチェはまず、キリスト教の道徳がこれまで果たしてきた役割を確認します。キリスト教の道徳的仮説は、人間に絶対的な価値を与えました。人間は、生成と消滅の流れの中で取るに足りない存在であるにもかかわらず、神の前では無限の価値を持つとされた。また、この仮説は、世界には苦しみや悪があるにもかかわらず、世界は完全なものだと弁護しました。さらに、人間が絶対的な価値についての知識を持つことができるとし、何が最も重要かを知りうるようにしました。

    ニーチェによれば、こうしてキリスト教の道徳は、人間が人間としての自分を軽蔑したり、生に反抗したり、認識に絶望したりすることを防いできました。つまり道徳は、実践的なニヒリズムと理論的なニヒリズムに対する、大きな解毒剤だったのです。

    誠実さが道徳に牙をむく

    ところが、ここで逆転が起こります。

    キリスト教の道徳が育ててきた力の一つに、誠実さ、つまり真実であろうとする態度がありました。嘘をつかない、自分をごまかさない、真理を求める。この態度は、道徳によって長いあいだ鍛えられてきました。

    ニーチェによれば、この誠実さが、最終的には道徳そのものに向かっていきます。真実を求める目が、道徳の成り立ちを見抜いてしまう。道徳が実は特定の目的に仕えるものであり、利害にもとづいた見方であり、長く根づいた嘘であることを見抜いてしまうのです。

    前回、『悦ばしき知識』第三四四節で、神を否定する学問でさえ、真理を最も尊ぶという古い信仰の炎から火を得ている、という指摘があったことを確認しました。レンツァーハイデの遺稿で語られているのは、その炎がついに、それを灯した信仰そのものを焼き尽くそうとしている、という事態です。神の死は、外からの攻撃によるものではなかった。キリスト教が育てた誠実さが、キリスト教を信じられないものにしたのです。

    こうして、最高の価値は自らの価値を剥奪します。そして、それまで最高の価値に支えられていた生は、支えを失います。ニーチェはこの事態を、解毒剤がかえって毒となる過程として描いています。

    心理状態としてのニヒリズム

    一八八七年から八八年にかけてのメモで、ニーチェは、心理状態としてのニヒリズムがどのように生じるかを、三つの段階に分けて説明しています。

    第一に、人間は、あらゆる出来事の中に「意味」を求めてきました。世界の歴史は何かの目標に向かって進んでいる、と考えてきたのです。その目標は、道徳的な世界秩序の実現であったり、愛と調和の増大であったり、普遍的な幸福の状態への接近であったりしました。しかし、長い時間をかけても、そのような目標は見つからない。生成は何も目指していない、何も達成しない。これに気づいたとき、ニヒリズムが生じます。

    第二に、人間は、あらゆる出来事の根底に、全体性や統一性や組織を想定してきました。自分はその全体の一部であり、全体があるからこそ自分にも価値がある、と感じてきたのです。しかし、そのような全体が存在しないことに気づいたとき、人間は自分自身の価値への信頼を失います。

    第三に、この二つの洞察、つまり生成には目標がなく、その根底には統一もないという洞察のあとで、人間にはまだ一つの逃げ道が残されています。それは、この生成の世界全体を錯覚として退け、その彼岸に「真の世界」を想定することです。しかし、その「真の世界」もまた、心理的な欲求から作り出されたものにすぎないと見抜かれたとき、最後の形のニヒリズムが現れます。この世界は唯一の現実でありながら、それを否定する。それでいて、別の世界を信じることも許されない、という状態です。

    こうして、「目的」「統一」「存在」という、世界に価値を与えてきた三つのカテゴリーが引き上げられたとき、世界は無価値に見えるようになる、とニーチェは述べています。

    ただし、ニーチェは、ここから世界そのものが無価値だという結論を引き出しているわけではありません。ニーチェによれば、問題はむしろ、これらのカテゴリーで世界の価値を測ろうとしてきたこと自体にあります。世界が無価値に見えるのは、もともと世界に当てはまらない物差しを使ってきたからだ、というのです。

    「真の世界」はついに寓話となった

    この第三の段階を、ニーチェは出版された著作の中で、見事な形で描いています。一八八八年に書かれた『偶像の黄昏』の中の「いかにして『真の世界』がついに寓話となったか」という一節です。ここでニーチェは、ある誤りの歴史を六つの段階で描いています。

    第一段階では、真の世界は、賢者や敬虔な人や有徳な人が到達できるものとされます。彼らはその世界の中に生きており、彼ら自身がその世界です。ニーチェはこれを、プラトンの考えの最も古い形と呼んでいます。

    第二段階では、真の世界は今は到達できないが、賢者や敬虔な人や有徳な人、つまり悔い改める罪人には約束されたものとなります。ここで理念は、より繊細になり、捉えがたくなり、キリスト教的になります。

    第三段階では、真の世界は到達できず、証明もできず、約束もできない。しかし、それを考えることだけでも、慰めであり、義務であり、命令であるとされます。ニーチェは、ここにケーニヒスベルク的な姿、つまりカントの哲学の姿を見ています。

    第四段階では、真の世界は到達できないのだから、知られてもいない。知られていないのだから、慰めにも救いにも義務にもならない、と考えられるようになります。ニーチェはこれを、夜明けの灰色の時、理性の最初のあくびであり、実証主義の鶏鳴だと書いています。

    第五段階では、真の世界は、もはや何の役にも立たない、余計な理念となり、したがって反駁された理念となります。それを廃止しよう、という段階です。ニーチェはこれを、明るい昼、朝食、良識と快活さの回帰と表現しています。

    そして第六段階。真の世界を我々は廃止した。どんな世界が残ったのか。おそらく、見かけの世界か。いや、そうではない。真の世界とともに、我々は見かけの世界も廃止したのだ。ニーチェはこの段階を、正午、最も影の短い瞬間、最も長い誤りの終わり、人類の頂点と呼び、最後に「ツァラトゥストラが始まる」と書き添えています。

    この一節は、ニヒリズムの過程が、単なる喪失ではないことを示しています。「真の世界」がなくなれば、それと対比されて「見かけの世界」と呼ばれてきたこの世界も、もはや見かけではなくなる。プラトン以来の二つの世界という図式そのものが崩れるのです。前回の第一〇八節で語られていた「神の影」との闘いは、ここで一つの到達点を迎えています。

    受動的ニヒリズムと能動的ニヒリズム

    ニヒリズムは、一つの同じ態度ではありません。一八八七年秋のメモで、ニーチェは、ニヒリズムを二つの種類に区別しています。

    一つは、精神の力が上昇したしるしとしてのニヒリズム、つまり「能動的ニヒリズム」です。もう一つは、精神の力が衰退し後退したものとしてのニヒリズム、つまり「受動的ニヒリズム」です。

    受動的ニヒリズムとは、最高の価値が崩れたとき、それに疲れ果て、力を失っていく状態です。ニーチェはこれを、疲れたニヒリズム、もはや攻撃しないニヒリズムとして描いています。その最も有名な形として、ニーチェは仏教を挙げています。もちろん、これは仏教についてのニーチェ独自の見方であり、ニーチェはそれを、生への意志の否定として捉えていました。

    これに対して能動的ニヒリズムは、もはや信じるに値しなくなった価値を、自ら積極的に破壊していく力として現れます。ニーチェは、この力が最大に達したとき、それは破壊の暴力的な力として、つまり能動的ニヒリズムとして現れる、と書いています。

    ここで重要なのは、ニーチェがニヒリズムを、それ自体として良いとも悪いとも決めつけていないことです。同じニヒリズムが、ある人にとっては衰弱のしるしであり、別の人にとっては力の高まりのしるしでありうる。どちらであるかは、ニヒリズムという事態にどう向き合うかによって決まるのです。

    不完全なニヒリズム

    遺稿の中でニーチェは、もう一つの区別も示しています。「不完全なニヒリズム」と「完全なニヒリズム」です。

    不完全なニヒリズムとは、古い価値が崩れたにもかかわらず、価値の評価の仕方そのものは変えないまま、ニヒリズムから逃れようとする試みのことです。ニーチェは、こうした試みは問題を鋭くするだけだと述べています。

    この姿勢の典型として、出版された著作の中でニーチェが挙げている例があります。『偶像の黄昏』で、ニーチェは、イギリスの作家ジョージ・エリオットを取り上げています。イギリス人たちは、キリスト教の神から解放されると、そのぶん一層キリスト教の道徳にしがみつかなければならないと思っている。しかしニーチェによれば、キリスト教の道徳は、神への信仰と切り離して成り立つものではありません。キリスト教から神への信仰を取り去れば、その道徳もまた支えを失う。神を捨てて道徳だけを保とうとすることは、まさに第一〇八節の言う「神の影」に仕えることなのです。

    永劫回帰というニヒリズムの極限

    レンツァーハイデの遺稿には、もう一つ重要な論点があります。ニーチェはそこで、ニヒリズムの最も極端な形として、「永劫回帰」を挙げているのです。

    あるがままの存在が、意味も目標もなく、しかも無に終わることもなく、避けがたく回帰し続ける。ニーチェはこれを「永遠の回帰」と呼び、ニヒリズムの最も極端な形、つまり無意味さが永遠に続くことだと書いています。

    前回、『悦ばしき知識』の第三四一節で、デーモンが「この人生を無限にくり返さなければならない」と告げる場面を見ました。レンツァーハイデの遺稿によれば、この思想は、目標や意味をすべて奪われた世界が、それでも永遠に繰り返されるという、最も過酷な考えです。ニーチェは、この思想に耐えられる者が誰なのかを問い、それは最も節度ある者、極端な信仰箇条を必要としない者だろう、と書いています。

    永劫回帰は、ニヒリズムの極限であると同時に、それを乗り越える試金石でもあります。このことは、次回『ツァラトゥストラ』を読むときに、改めて詳しく扱います。

    「無を意志する」 禁欲主義的理想

    出版された著作の中で、ニヒリズムの問題が最も深く掘り下げられているのが、一八八七年の『道徳の系譜』第三論文です。この論文のテーマは、禁欲主義的理想、つまり欲望を抑え、この世の生を否定することに価値を置く理想です。

    ニーチェは、人間がなぜこれほど長いあいだ禁欲主義的理想を受け入れてきたのかを問います。その答えは、人間は苦しみそのものに耐えられないのではなく、苦しみに意味がないことに耐えられない、というものでした。禁欲主義的理想は、苦しみに意味を与えました。おまえが苦しむのは、おまえ自身の罪のためだ、と。この解釈は新しい苦しみをもたらしましたが、それでも人間は救われた、とニーチェは述べます。なぜなら、意味があったからです。

    そして第三論文は、次の言葉で締めくくられます。人間は、何も意志しないよりは、むしろ無を意志する。

    禁欲主義的理想とは、生に背を向け、無を目標とする意志です。しかしそれは、何も意志しないこと、つまり意志そのものが途絶えることよりはましだった。ニーチェはこう診断します。ここにニヒリズムの奥深い根があります。キリスト教道徳は、ニヒリズムに対する解毒剤であると同時に、それ自体の内部に、生を否定する、無への意志を抱えていたのです。

    ニヒリズムの政治的な側面

    ここで、本連載で毎回確認してきた政治的な側面にも触れておきます。

    ニーチェは、出版された著作の中で、同時代の民主主義の運動を、キリスト教の延長として捉えています。一八八六年の『善悪の彼岸』では、民主主義の運動はキリスト教の運動の相続人であると述べ、それを政治組織の衰退形態であるばかりか、人間の衰退形態、つまり人間の矮小化、凡庸化、価値の引き下げの形態だと書いています。また、一八八八年に執筆された『アンチクリスト』では、神の前での魂の平等というキリスト教の教えが、あらゆる特権に対する反乱の原理となった、と論じています。

    つまりニーチェの見方では、平等をめざす近代の政治運動は、神が死んだあとにもキリスト教の価値を引き継ぐものであり、その意味で「神の影」の一つでした。ニーチェにとって、ニヒリズムの克服とは、こうした平等の価値をも含めて、これまでの価値を根本から問い直すことを意味していたのです。

    ニーチェの晩年の著作には、「すべての価値の価値転換」という言葉が繰り返し登場します。これは、ニヒリズムを通り抜けた先に、新しい価値を立てることを指しています。しかし、その新しい価値の中身が何であり、それが政治的にどのような含意を持つのかは、ニーチェの受容史の中で大きく解釈が分かれてきた問題でもあります。この点は、第十回以降で詳しく検討します。

    二百年の歴史

    一八八七年から八八年ごろ、ニーチェは、計画していた主著の序文の草稿に、こう書いています。

    自分が語るのは、次の二世紀の歴史である。自分は、やって来るものを、もはや別様には来ることのできないものを書き記す。それは、ニヒリズムの到来である。

    そしてニーチェは、自分自身を、ヨーロッパ最初の完全なニヒリストと呼びます。ただし、ニヒリズムを自分の中で最後まで生き抜き、それを自分の背後に、自分の下に、自分の外に置いた者として、と付け加えています。

    ニーチェにとってニヒリズムは、選び取る主義ではなく、通り抜けなければならない歴史の段階でした。そして、それを通り抜けた先で何が可能になるのかという問いが、ニーチェの後期の思想全体を動かしていくことになります。

    まとめ

    今回のポイントを振り返ります。

    ニヒリズムについてのニーチェのまとまった議論の多くは、遺稿の中にあります。妹たちが編集した『力への意志』はニヒリズムを冒頭に置いていますが、それはニーチェ自身の構成ではありません。

    ニヒリズムとは、最高の価値がその価値を剥奪されることであり、「何のために」への答えが欠けた状態です。その原因は、社会的な窮乏や道徳の腐敗ではなく、キリスト教的・道徳的な世界解釈そのものにあります。

    キリスト教の道徳は、ニヒリズムに対する解毒剤でした。しかし、道徳が育てた誠実さが、最終的に道徳そのものの成り立ちを見抜き、最高の価値を崩壊させます。

    心理状態としてのニヒリズムは、「目的」「統一」「存在」という三つのカテゴリーが引き上げられることで生じます。『偶像の黄昏』は、「真の世界」が寓話となり、見かけの世界とともに廃止される過程を六つの段階で描いています。

    ニヒリズムには、精神の力の衰退としての受動的ニヒリズムと、力の上昇としての能動的ニヒリズムがあります。また、神を捨てて道徳だけを保とうとする試みは、不完全なニヒリズムとして退けられます。

    永劫回帰は、ニヒリズムの最も極端な形とされます。『道徳の系譜』は、人間は何も意志しないよりは無を意志すると結論しています。

    ニーチェは、民主主義の運動をキリスト教の相続人として捉えており、ニヒリズムの克服は、そうした価値の問い直しをも含んでいました。

    次回は、いよいよ『ツァラトゥストラはこう語った』を読みます。超人、末人、そして永劫回帰。ニヒリズムを通り抜けた先に、ニーチェは何を見ようとしたのかを考えます。


     
     
    トリクルダウンが起こりえないことは明らかになっているのに、まだトリクルダウン論法を使っている人がいることは大いなる謎