余は如何にしてアホとなりし乎
余は如何にしてアホとなりし乎 草井 修喜
余は中学生の時から国家権力にマークされ、警察からマークされていたのでして、勿論、以降ずっーと今、現在に至るまで、常時、同じことで警察や公安警察にマークされて来ていたのでございます。ちなみに余は今、現在(令和6年12月)に至るまでも、常時コンスタントに国家、警察に、また、公安警察に監視され、いじめられて(来た)いるのでございます。
余の差別語はアホ、気持ち悪い、クサイである。
平成元年頃、タレントの山城新伍氏が「日本の警察は実像の部分と虚像の部分があるのです。」とテレビで言っていたのですが、実際その通りであります。このことは公安警察もいい人と悪い人の2種類いるのですが、同じ事であり、どこでも2種類いるのであります。今時、警察だから言っている事、やっている事は全部正義だとか、公安警察だから言っている事、やっている事は全部正義だというのは間違っています。
政府、国会議員、県知事、県会議員、市会議員、町会議員、村会議員といった国、痴呆の政治家も余の差別迫害活動をしているのであり住民は洗脳されて余を理由なく憎むこととなったわけです。
昭和38年の余が中学3年生(1963年)の時、時の中学校校長、篠崎信夫(教科は保健体育)が何ら正統なる理由もなく中学3 年生の余を「アイツは生意気だ! 」という事で、余をして、一生、国家、社会から憎悪され、人々から疎外され、差別され、忌み嫌われる生活、蔑(さげす)まされる人生を送らせられる様に仕向けたのです。これが余が苦しい人生、監視された生活を送らせられた原因なのです。
そりゃあー中学校校長といえば確かに社会的地位は高いですが、一個人の人生をメチャクチャにしてやれるほどの影響力や力があるわけがない。・・・・・と思うでしょう。そうなんです。ごく普通の善良な何ら罪のない中学生(余のこと)を目をつけて、毎日、自宅の家宅侵入を始め、プライバシーが知れ渡るとか「アイツはアホだ! 」といわれて名誉が傷つけられるとか著しい人権侵害を受ける等、嫌な事がいつも多数起こる差別された生き地獄の生活が一生、強いられるように仕向けることは大抵の人はそんな事は物事の発想として思いつきませんが、仮に篠崎信夫と同じ発想を思いつき、『あの中学生は生意気だ! 一生苦しめられるように仕向けたる! 』と決心して、いざ、やろうとしても実現不可能、せいぜい地域で差別される位にしか影響を及ぼすくらいに留まるぐらいで、その被害者は引越しをして環境を変えれば生活環境はよくなるのであります。然しながら篠崎信夫中学校校長は驚く勿れ、とんでもない強大な影響力、力を持っていたのでして、こんな途方もない無限大のアホの篠崎信夫校長に余は中学時代に縁を設けてしまい、不運、不幸極まりない事だったと思っています。譬えが悪いかもしれませんが、篠崎信夫校長の権力、力は太陽に向かって「西からのぼり、東に没するようになれ」と命ずればそのようになる程の力をもっていたのです。
余はクラスで1~3番の学業成績の立場だったが、神童と言われる程の立場ではなかった。家で机に向かって、みっちりと勉強しないと学力が備わらない。勉強、勉強とガリ勉亡者(もうじゃ)だった。1年生の時は翌日の朝の3時や4時頃まで自宅で勉強をしていたことはよくあったし、徹夜したこともあったように思う。 そのため教師がその授業中に冗談を言って生徒の我々を笑わせても余は反応せず能面面(のうめんづら)だった。また、遠足に行っても、英語の豆単をポケットに持って行きそうなタイプであった。(実際には持って行っていなかったが。)
あのあたりで、一番の学力のある高校は旧制一中の歴史と伝統のある岐阜高校であるが、余はこの高校に行ける程の学力は十分にあった。どうも、高齢者になった今になって気づいて思う事だが、中学校側では多分、篠崎の方針で岐阜高校に行けそうな生徒はクラスに1~2人ずつ均等に配分していた。ところが中学3年生の時には余のいるクラスに岐阜高校に進学出来そうな生徒は余も含めて3人もいた。確か、一人だけいるクラスもあったと覚えている。という事は篠崎校長は余を岐阜高校に進学はさせない事を考えていたと思うのです。だから余のいるクラスには岐阜高校を受験する生徒は2人が合格、進学し、余は初めから岐阜高校に合格出来ない様にしていたのだと思うのだ。余が篠崎信夫に睨まれ出したのは中学2年生の時だので、こうなったと思うのだ。
岐阜高校志願で受験は出来たが、答案が書けず白紙答案を出した。余の得意な数学も何故か? 答案が書けず、白紙答案で、こりゃぁー岐阜高校落ちるなぁーと思いつつ、受験会場の岐阜高校の廊下で窓の外を眺めながら、休憩時間に泣いたことを覚えている。余はその頃、県紙の岐阜日日新聞や中日新聞の模擬試験に得意の数学や理科は単科の成績優秀者でよく氏名が載っていた。
余には落第する事は分かっていた。合格発表の日、母と一緒に発表の会場の岐阜高校に行ってみた。会場の岐阜高校に近ずくや石田という理科教諭が会場にいて私達に近ずいて来て「あー、草井君は岐阜北高校の方に行って下さい。」と言われた。それで、結果は分かっていますので、合格者発表掲示板の所に見に行かないで、すぐにUターンして岐阜北高校に行く事となった。母と二人で岐阜北高校に向かって歩いていた時、途中の川の大きな橋を歩いて渡っている時、余は悔しさがこみあげて来て涙を流して子供みたいにワンワン泣いていた。歩いて30分位で岐阜北高校に到着した。岐阜北高校に着く頃には涙も涸れてしまっていた。岐阜北高校に着いたら合格者発表掲示板に岐阜高校受験者で岐阜高校を落第して岐阜北高校で拾われて合格を認められた生徒の氏名が15人位かが氏名が発表されていた。その中に余の氏名が載っていた。当時は高校の受験制度で第一志望校を受験して落ちた場合、受験願書に第二志望校を書く欄があった。第三志望校迄の志望高校欄迄もあったのでないのか? と思う。
余は答案が書けなくて得意の数学の学科でも白紙答案なので総合点があまりに惨めなので第二志望の岐阜北高校でもホントは不合格になる位だったのである。恐らく、県立高校は当時の高校入試で余の入試の総合点ではどこも合格を認めてくれる学校はなかったと思う。その位の白紙答案だった。
また、この頃の文部大臣は劒木(けんのき)という人でおそらく、篠崎信夫校長が東京に行き、この文部大臣に会って余の事を訴えていた? と思う。「この者(余の事)は岐阜高校に進学は出来ない。将来の大学進学についても希望通りには進学出来ない。その後の人生についても、アイツはみんなから差別され、侮られて、憎まれて生活させられるべきだ。アイツの人権は否定されるべきである。」等と、そのように 余の事を訴えて陳情していたと思うのです。
なぜ、そのように思うのか ? については余が中学3年生の時の大橋秀耳というクラス担任教諭がその授業かHRかの時に余を指名して「文部大臣の名前を知っているか? 」と聞いたことがあったからです。余は「知らないです。」と返事をしたのですがこの事は何十年もの年月が経つてから、意味のある発言だったと思うに至った。それで上記の様なことが仮説として思いつくに至ったのです。
福沢諭吉が「点は人の上に人をつくり、人の下に人を作らず。」と言ったが、その有名な言葉宜しく、中学生の余は点取り虫になっていた。このことが問題になったのであり、教師等から篠崎校長に余のそういうあり方がおかしいと訴えられ、それで篠崎校長は中学生の余を憎んだのである。理科教師の石田信行がその人だ。この人はダンボというあだ名がついていたが、その授業中、時々ジョークを演じる。宿題忘れたら坊主頭の男子生徒の髪の毛を引っ張ってその生徒に顔を覗きこんで「 宿題を忘れたらいかんぞ!」と言うのです。その時男子生徒は「いててて」と言うのですが、石田先生が「痛いのは分かっている。」と言い、その時、クラス員全員が笑うのです。坊主狩の私共中学生の男子を髪の毛を上に引っ張って「いててて!」と言わせて笑いを取っていたのですが、それが不思議な事に散髪した直後の男子の髪の毛が物凄く短くてもこの事をやってのけていたのでした。多分、長年のキャリヤでこの不思議な事をやれるようになっていたのだろう。勿論、女の子にはこのことはしなかった。「宿題を忘れてきたらいかんぞ!」と言うだけでした。石田先生は少しコメディアンの素養があるらしく、クラスの中の余だけが笑わないので、それで余に反感をもったようです。それで石田教諭は余のことを篠崎校長に訴えたのであろうか? と思います。そして篠崎校長は余を裁き、世紀の大犯罪者だ ! と余を決めつけたのです。これはおかしいのであり、余に対して「君はよく勉強しているが、これはいい事だが、それが百パーセントで、その他はゼロだという事では如何かと思うのね。例えばだが、遠足に行った時にはポケットに英語の豆単を入れて持って行って、時々豆単を開いて見る様な事はしないで皆と打ち解けて楽しむようになりなさい。」と優しく注意、諭す位が相場です。
石田先生は学校行事の遠足ではえらく機嫌がよくなり、よく周りにいる生徒らに話しかけていました。彼は悪い言葉で言えばお天気屋、よく言えば、天真爛漫、楽天家と言えるかと思います。
余も年をとって来るにつけ、自分が三枚目であり、笑わせてくれる事があると愉快で嬉しいし、また、余が周りの人を笑わせてやりたいと常々思うようになり、三枚目の素養があるのであり、そのように努力して来たのです。余は社会から差別、迫害されて来て、劣等感に悩んでいますので、笑いをとって紛らわせたいという事であるからです。今になったら同じ三枚目という点では『僕は本当は石田先生と相性が合うんだった。』と思う次第です。
余のことで高校受験で妨害してやる。大学進学も妨害してやる。将来の恋愛、結婚も性犯罪を採用してまで妨害してやる。人との付き合いも妨害してやる。就職も良い所には就職できないように妨害してやる。さらにアイツの名誉は著しく傷つけられて悩む生活が強いられる。あいつが死ぬまで一生苦しめたる。・・・・・・・等々と篠崎が決め込んでいた。また、篠崎信夫は常々、余について「アイツをマークしろ!」「アイツをマークしろ!」・・・・・「あいつはエゴイストだ!」「あいつはエゴイストだ!」・・・・・と一生、平成3年に死ぬまで、周囲やあちこちで余の事を言いまくっていたという事らしいのです。
余が中学2年生の時から篠崎校長は余の差別、迫害活動を絶え間なく、平成3年8月に死ぬまで゛、したのだが、恐らく月に一回位の頻度で上京して、毎回、政府の要人、総理大臣、各大臣、幾つかの各省庁の事務次官、政務次官、自民党派閥の領袖等の有力者に会って、余の事で「こうしてほしい」「こうすべきだ」等と 訴えていたと思うのだ。同様に天皇家や米軍要人やCIA要人等にも会って余の社会から差別、疎外されるように訴えていたと思うのだ。その他にマスコミ、新聞社やテレビ局やラジオ局の要人、有力な芸能人等にも会って余の事を訴えて遠回しに余の事を攻撃したりプライバシーを取り上げて報道するように訴えていたと思います。
マスコミと言えば後述する山上たつひこの『ガキデカ こまわり君』という漫画は余の事を取り上げていた漫画で、おかげで余の青春時代は非常に暗かったし、悩んだのですが、おそらく間違いなく篠崎信夫は東京に行った時に山上たつひこにも会っていたと思います。また、『ガキデカこまわり君』の漫画の出版社の秋田書店にも出入りしていたと思います。また余の事で秋田書店で会議を開いていて篠崎はこれに参加して、当時の秋田書店で訴えていたと思うのです。
中学校長を勤めていた篠崎が東京に多分、毎月一回位の頻度で出向いて余の事を権力のある人や有力者に会って訴えたり、「こうすべきです。」等と意見を言う事をしていたと思いますが、その時にかかる旅費や東京での宿泊費、食事代等お金が沢山かかる、これについては恐らくこの事をやり始めた頃に政府に頼んで「アホの草井を苦しめてやる事は国家事業として当たり前の事なのだから、そのために貢献した人々は国や政府から謝礼を受けることは当然の事としてほしい。全員そういう待遇にするのは難しいでしょうが、強力な貢献をした人は勿論、必ず厚遇し、政府、国側の依頼で軽く草井を苦しめてやる事に協力した人は全員恩賞に預かることは無理でも、適当にピックアップして、給料をもらっている人の場合であっても給料とは別に謝礼や権利を授けて欲しい。」とお願いし自分は積極的にアイツの迫害、差別の運動しますので『まず隗(かい)より始めよ』の諺どおり、私に十二分な活動費や謝礼を校長の給料とは別に頂けるように陳情をしていたと思います。だから、一生死ぬまで頻繁に東京に通って余の事で陳情、訴えることが可能だったのだと思います。
日本の権力構造は2重構造なのです。政府、天皇家といった国内の権力だけでなく米国のCIAや米軍、GHQの後身のCSISなるジャパン・ハンドラーズといった外国の人達による権力も日本を支配しているのです。その他に明治維新はユダヤ、ロスチャイルド家による革命でそれ以降、英国のロスチャイルド家が日本をずっーと支配しているとも言えると思います。
中学校時代は大体において、余の差別は職員室だけだった。ところが高校以上となると生徒や学生も(全部の人がそうだとは言えないが)余を憎み差別、迫害をした。 余の高校生時代 ( 県立岐阜北高校 )もやはり教職員達 ( 英語:沢端修三、古典:浅野義二、有川景三:倫理社会、保健体育:浅野総雄(ふさお)、数学:安田 正・・・・・等々 )が余を憎んでいた。これらの教師等は余のいるクラスでは余の実名を挙げすに遠回しに余に対するイヤミや憎しみをみんなの前で言ったのであったが、余がいない他のクラスではおそらく余の実名を挙げて「〇年〇組のアイツはなー・・・・・」等と余の憎しみを言いまくっていたと思います。
これらの余を憎んでいた高校時代の教師(←狂師である。)等は時々、余が卒業後に社会人になってからも、余の不在の時に実家に訪ねて来て、家に上がり、父と会っていたと思う。そして余の部屋も見物して、父に対して息子の余の将来を呪い、憎悪、悪口を言い、憎しみを語り、且つ、父親に対しても侮辱の言葉をさんざん言っていたと思います。これらの事は中学校校長篠崎信夫がしていた事であり、おそらく、高校時代の教師達の沢端修三(英語)等は篠崎信夫と同様に私の実家に来て篠崎のマネをして(というよりは篠崎信夫と付き合いがあって唆しを受けていたのだろう)家に上がり、父を侮辱し、息子の余の将来を呪い、冷蔵庫の中を見たり、引き出しの中を見たり、余の部屋を見物、物色していたと思います。余の中学時代の校長の篠崎信夫は余の進学先の岐阜北高校に出入りして、これらの沢端修三達の余のことを憎んでいる教員達と接触があったと思います。また、おそらく警察官が2人ぐらい私服で毎日、同高校内に入り込んで篠崎信夫校長と同様に「〇年生のアイツはなぁー・・・・・・」と余のプライバシーを言いまくり、また、憎しみを込めて悪しざまに余のことを中傷しまくっていたと思います。
倫理社会の教師の有川景三は余のいるクラスで「ここに一人の女の子がいるとしてこの女の子をめぐって二人の男性が競り合って彼女を獲得しようとした場合、恋敵の相手の男の名誉を傷つける小説を書いて世に出して攻撃し、ぶっ叩いた後、しかる後にその女の子をせしめる。」という話をしている。これは余が大学に進学してから以降の余のその時その時の女の子と余との恋愛関係の、いえ、そうでなくても、場合によっては接点があるだけの女の子を口説き落としたり、強姦しまくって、さらに余をしてアイツこそが強姦魔だと追い打ちをかけてダブルパンチを加えて世間から中傷しまくる事をコンスタントに継続してやってのけられて来ましたが、また余の女性問題はその都度、テレビ、ラジオ、新聞、漫画等で遠回しに妬んでイヤミとして攻撃して報道されても来ました。余が高校生の時に教室で言った有川のこの発言はこういったことの予言だったのだと思うのです。
保健体育の浅野総雄教諭は保健体育の授業で余のいるクラスで「オレが若い頃、クラスにロクさんという人がおった。みんながその人をロクさんロクさんと言ってて馬鹿にしていた。それがこの前、ロクさんが豪華な運転手付き高級車に乗って隣に美人の娘さんを侍(はべ)らっせて通っていくのを見たんですわ。それがこのオレはしがない高校教師や!えらい差を感じたなぁ!」と言った。その時クラスの生徒達は笑った ? かと思うが、これは明らかにクラスの中の余をロクさんになぞらえてイヤミを言った事は明白です。余のいない他のクラスではこの浅野教諭はその授業中に「〇年〇組の草井は馬鹿野郎だぁ―」と言い、「〇年〇組のアイツはなぁ・・・・」 と余を憎むように、そそのかす事をしていたと思う。警察の悪人派の私服警察官が毎日2人位岐阜北高校に入り込んで、余のプライバシーや悪口雑言を同様に言いふらしていたと思います。ロクさんの話は浅野総雄教諭が余のいるクラスで余の事をイヤミを言いたいがために本人の作り話でイヤミをぬかしたのだと思います。
沢端修三(英語)教師は私のいるクラスでその授業で遠回しに余の将来恋愛、結婚は妨害されるという事を遠回しに言っている。
保健体育の浅野総雄という教師は余のいるクラスで余の事をあてつけて、実名を挙げずに遠回しにみんなの前で侮辱することを言っていたように感じました。ある時、「君達はナイフで人を刺す場合、刃を上にして刺す場合と刃を下にして刺す場合とではどちらが罪が大きいか知っているかね ? 」と聞きました。それも教壇に立って確か、ナイフで人を刺す仕草をしたと思う。変なことを喋ることでしたが、これもこの高校時代の嫌な思い出である。その場で余のことを言っているような気がしたのである。余のいない他のクラスではこの浅野総雄教諭は教壇に立って、生徒の皆の前で余のことを「〇年〇組のアイツは馬鹿野郎だ。君達はナイフで人を刺す場合、刃を上にして刺す場合と刃を下にして刺す場合とではどちらが罪が大きいか知っているかね ? 先生のオレはだなーアイツを罪の重い刺し方でアイツを刺してやりたいのだ。その位、君達も先生と同様にアイツを憎みなさい。」と言いまくっていたのではないか? と思う。こういう事が余の高校時代でこういった澤端修三等の教師の事が全く問題にならず、逆に余の事がいつもどこでも理由なく憎まれて、問題になり排斥、忌み嫌われる、憎まれる扱いをコンスタントに受けて来たわけです。
また、浅野総雄はその授業で余のいるクラスで「俺には娘がいるけども、たとえ娘と恋仲になっても、心を変えずに嫌な奴は嫌だなぁー」と言っているのです。余のいる保健体育の授業で浅野教師は自分の娘と余とが仮に恋仲になっても余に対しての憎しみは変わらない。その位、草井を憎むぞ!という事を皆の前で遠回しに言ったのである。教師の俺がそうなんだから、君達も同様に強く草井を憎みなさい!という事だったのだろうと思われる。そう思うのです。篠崎信夫は明治末年生まれで平成3年に亡くなったのですが、彼には娘がいた事は分かっている。
私が社会人になってから、篠崎校長をよく知っている人と会った時に「篠崎校長には娘がいたそうですが、美人だったのですか ?」と聞いてみたら「ウン。篠崎信夫校長には娘がいる。篠崎校長はね、あれ程のブ男だからね、そんな事、聞かなくても分かるでしョ!」と言われ、こんな時は余は笑わないようにしているのだが、恨みのある篠崎校長の場合は別でして、おかしくて遠慮なく大口を開けて余は笑った。
おそらく篠崎信夫は金魚の糞なるストーカーの本分宜しく、余の通っていた高校に時々訪ねて来て、教師達や生徒達に余のプライバシーの情報交換や憎悪感情の言いふらしをしていた。と思うが高校側では浅野総雄が篠崎信夫と同じ保健体育という教科なので特にこの2人は特別に親しかったと思う。
篠崎信夫校長が浅野総雄教諭と親しくしていてアイツのいる教室で同じ娘がいる立場なので、仮に、万が一自分の娘が草井と恋仲になっても草井に対しての憎悪は消えないという事は我々の2人の共通の差別感情なのでその意思表示をアレのいるクラスでして下さい。と頼まれていたので浅野総雄教諭が保健体育の授業で「オレには娘がいるけど、たとえ恋仲になっても(アイツを)嫌うなぁ。」と言ったのだと思うし、この発言は篠崎信夫の発言でもあったとも言えるのだと思う。
余は篠崎信夫中学校校長は昭和36年(1961年)の時点で、すでに何人も人を頃していたのでないやろか?と思う。この人は上級国民なので人を頃しても罪に問われないし、問われなかった、つまり守られていたと思うのだ。だから平気で余に付き纏い、やりたい放題、言いたい放題ふるまって平成3年8月に死ぬまで、余を苦しめることが出来たのだと思う。同様の事は、余以外の人々にも加害行為をしていると思う。
余が高校2年生の時、昭和41年(1966年)11月23日の勤労感謝の日だったと思いますが明仁、美智子皇太子夫妻(現上皇夫妻)が確かバレーボールか何かの球技大会があって、見物に来校するという事があり、休日なので、私共生徒は希望者だけ来校しなさいという事であった。ガリ勉の余は家で勉強したいと思って、登校はしなかった。
「余が中学生や高校生の頃さらに浪人生の時、そして昭和43年(1968年)岐阜薬大に進学した頃に、警察が当時の自宅に父と私共子供の不在の時母親が留守番で家に居る時に、家に訪ねて来て、家に上がっていたという事は2人の証言があり、確実なのです。その頃、私ども子供は学校に行ってて、父親は出勤していて母親だけが家にいたのですが、刑事が訪ねて来て、家に上がっていたという証言を頂いているのです。つまり、その時から母は父と余を裏切っていたのです。そういう事も進学先の岐阜北高校や岐阜薬大や名古屋工業大学の余が在籍した高校や各大学に私服の警察官達がこれらの各学校の構内に入り込んで、余のプライバシーを言いまくったり、悪口や、憎しみを言いまくっていたと思いますが (これらの各学校で余の事で学校内に私服警官達が毎日入り込んで余のプライバシー、中傷、憎悪、を言いまくっていたという証言はまだ頂いていないのです。) 余の当時の自宅に刑事が訪ねて来て、家に上がっていたのですが、この事もおそらくこれらの各学校構内に入り込んでいた別の私服警察官達が常々その余の自宅に訪ねて家に上がっていた警察官と連絡しあっていて、余の家の中の様子もその各学校で言いまくっていたと濃厚に思われます。
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