
日記 大学院の話
少し考えたので、備忘録として。
自分の周りには大学院に進学する人が多い。学部時代、自分も当然のように修士に行くと思っていた。学部→修士→就職が王道ルートだという雰囲気があり、実際自分もそうするのかなと思っていた。
大学院は闇が深い。どこにでも闇はあるが、その闇に落ちてしまうとそこから抜け出すのが大変という意味だ。いろんな人が「大学院は〜だ」「博士課程は〜だ」と様々に言っていて、そうかもなと思ったり思わなかったりするが、少なくとも「孤独と付き合うことになる」のは正しいなと感じている。
サークルのような課外活動的つながりが薄くなり、ラボという小さな世界に閉じこもる。一人暮らしをしている人も多いし、たとえ実家に住んでいたとしても家族と生活時間帯が合わなくなってくる。ラボの環境とメンバー、特に指導教員とのやりとりが世界の全てになってくる。
大学院生にとって、指導教員との関わり方は独特だなと感じる。
大学の教員は高校までの先生と違って、学位を授与する指導者でもあり、自分との共同研究者のような立場でもあり、大学で働く研究者でもある。いろんな立場を併せ持っていて、ときどきで違う顔をのぞかせる。
研究の進捗報告をするとする。
どこまで進んだのか、スケジュール通りに進んでいるのか、何がいま問題になっているか、それをどう解決するつもりか、次の報告までに何をする予定か、といった研究内容を報告する場である。
例えば、学生がスケジュールに遅れていたとしよう。
指導教員は、それを叱るべきなのか、本人に原因を列挙させるべきなのか、一緒に原因が何かを考えるべきなのか、遅れの原因の一部になっているプライベートな事情まで踏み込むべきなのか。その上で、解決方法を本人に提案させるのか、解決方法は一緒に考えるのか、解決方法はこちらから提示するのか、どの程度の指導をするべきかの判断が問われる。
教育者としてなら、まずは本人に考えさせ、それをサポートするのがいいだろう。共同研究者としてなら、学生を一人の研究者として信頼している立場をとるわけで、学生本人の考えを述べてくれないと困るだろうし、教員側から積極的に干渉しようとはしないだろう。研究の結果や業績を重視するなら、叱りつけて反省させ、自分が考えて進めてしまった方が効率が良いと判断するかもしれない。どの顔を見せるのかによって、学生と指導教員との関係性は変動する。
教育者として、大学教員は学生にどこまで踏み込むべきなのだろうか。多少の家庭の事情は知っておくべきなのか、研究に関係ない悩み相談も受けるべきなのか。そこは曖昧になっている。仮に踏み込んだとして、大学の先生には責任を取る義務はない。プライベートな事情に関しては友人程度の付き合いがせいぜいで、そうするのが正しいような気がする。
中高の先生であれば、教育者の顔をして、その上で生徒の家庭の事情やサークル所属の有無まで把握しているはずだ。学生は、このような高校までの先生像を「先生」だと思い込んでしまっている節があるように思う。学校として生徒を守る、というような姿勢は大学にはない。指導教員は「先生」という名前を背負っているだけに、学生から見ると、自分を守ってくれる存在なのではないか、と思ってしまう。「先生」が教えてくれることは正しく、自分が間違っている、と無意識に思ってしまう構造になっている。実際はそうではなく、大学院は自分で歩いていかねばならないところなのだ。教員は教育者でもあるが、自分の共同研究者でもあり、一人の研究者でもある。足元にあるそのギャップに気づかないまま、孤独の隙間に堕ちてしまうことがある。
そもそも、教員も大学院を生き延びてきた人だ。
孤独との付き合い方を自分で確立してきている。「大学院に入ったなら修了して当たり前」と多くが思っていて、それに異を唱えるような雰囲気はない。生存者バイアスが強くかかった環境なのだ。孤独に陥ってしまいそうな人に対しても「本人に問題がある」と決めつけてしまう危うさがある。本当は誰にでも起きうることなのに。
孤独に陥った学生に対して、大学は何もしてあげることができない。
人として、心配してくれる指導教員は多いだろう。学生相談室に案内してくれる教員もいるだろうし、学生自ら相談室に行くことも多い。ラボのメンバーだって見捨てるようなことはしないはずだ。でも、家庭訪問をしたり、休日に一緒に遊びに行ったり、家族に連絡してくれたりするわけではない。周りは本人のアクションを待つことしかできない。孤独に囚われていく人を直接助けることはできない。
本人が大学に来れなくなったとしても、何か補償があるわけではない。大学院は学費を払って通うものだ。大学院が学生を引き留めておくモチベーションはそもそもないだろう。失業保険のようなものは当然ないし、次のステップを探すハローワークだってない。大学院からドロップアウトしそうなとき、それを止めてくれるシステムはなく、ドロップアウトしたら手元には何もない状態になる。
研究室との相性が悪いなら、他のラボに移ればいいとも言える。それでも「大学院」という世界の中で少し場所が変わるだけで、大学院の体質から脱することはできない。業種が変われば集まる人も変わるように、逆に同じ職種をぐるぐると移っていっても、同じような人たちに出会うのではないか。
ある友人は、孤独に囚われそうな人に対して「就活をして内定を持て」と諭している。大学院を出る方法を獲得し、大学院に囚われる期限を設定し、耐え忍べるように。大学院でうまくやっていけなかったからといって、他の場所でうまくいかないなんてことにはならない。
私たちはお互いに他人であり、人生の素人だ。一生付き合う家族やそれに準ずるパートナーではないし、訓練を受けて孤独についての知識を持つ専門家でもない。一緒になって孤独に囚われるわけにはいかない。ただ、その人の生きる力や健康を願うこと、願っているひとが一人ここにいることを伝えるしかできない。一見冷たいようでいて、見捨てることではなく、お互いに健やかに生きていくためにエールを送ることなのだと思う。
会社に入ったところで同じ状況なのかもしれない。自分は大学院にかれこれ4年ほどいて、それなりに生き延びている。就活もしたことがないし、あまりに外の世界を知らない。だからこの文章は偏見に満ちていると思う。何も結論は出ないが、ひとまず自分の中で今思ったことを記録しておく。