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適応の先に残ったもの

    本記事は、制度の是非を論じるものではありません。
    タイトル通り、いくつかの環境適応にまつわる経験を記録するために書いた個人のエッセイです。性別の話が出てきますが、留学に似た、誰にでもある普遍的なマイノリティ経験として読んでいただけるといいなと思います。

    大学で理工系に進学し、工学系のサークルに所属、博士課程まで進学しました。結果的に、自分と同じジェンダーである女性が少ない環境を選び、周りでも圧倒的に進学者が少ない博士課程を選びました。

    人生を語るときの切り口はいろいろありますが、今回は「環境への適応」というテーマで振り返ってみます。未熟な文章かもしれませんが、感じたことをできるだけ素直に書きました。今後自分が何かを考える糧になればいいなと思います。

    まえがき

    現在、自分は博士課程の3年生だ。

    これからの話は、大学入学から9年間を扱う。その前に、大学入学以前の進路選択を簡単に整理しておきたい。

    中高の成績は文系科目の方がよく、好きな科目は現代文・地理・生物・物理、苦手な科目は英語・日本史・化学・数学だった。理系も文系も選びたくない、選んでしまったらもう片方の勉強ができなくなるなんて嫌だと思っていた。それでも文理選択の決め手になったのは、数学と生物の先生の話が好きだったからで、最終的には人が面白そうという理由で理系を選んだ。

    志望校や学部を決めるのも苦しかった。進路指導のパンフレットには、興味のある業界や仕事はなに?これから学んでみたいことは?どういうキャンパスライフを送りたい?といった質問が並び、どれもピンとこなかった。

    中3のときに学校でやった探求学習で接着剤を調べたのは面白かったかも?と、自分が興味ありそうなことを思い出し、当時通っていた塾の先生に相談したところ、「それは材料科学という分野だね」と大学をいくつかすすめてもらった。

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    ざっくりとした進路の流れ

    大学入学後、学部4年で研究室に配属され、そのまま大学院に進学して修士課程を2年、博士課程3年を過ごしている。進路選択は必ずしも純粋な自分の意志だけで行われるのではなく、環境や周りの人々も大きく影響する。その環境によって、自分自身も大きく変化してきたように思う。マイノリティ環境と自分の変化「馴れ」について振り返っていきたい。


    学部時代|石の上にも三年

    大学に入るまで、理系進学の女子比率が低いことを全く知らなかった。

    自分が通っていた高校は理系志望が文系よりも多かったため、志望大学のオープンキャンパスに行ってはじめて、理系(特に理工系)の女子率が極度に低い(10%程度)ことを知っておどろいた。とは言え、それで進学を諦めたわけではなく、やりたいことをしようと大学に入学した。実際、女子校からの環境の変化は大きかった。それでも、例えば学部の頃のクラスは40人程度の中に3人女子がいたし、兼サーしていたサークルでは理系が多いものの文系や女子も10人以上いた。基本的には女子が少ないことを気にする場面は少なかった。

    ただ、自分がいちばんやりたいと思って入ったロボコンサークルは、結果的に同期20人中女子は自分1人だけ。ひとつ上の先輩に1人女性がいたが、途中で辞めてしまった。80名くらいの団体全体でも女子は2人程度だった。ここでは特に、圧倒的マイノリティになった。同性が他におらず、1人きりだったときの難しさがあるなと感じている。

    自分が異分子である感覚

    サークルに入ってすぐ、だんだんと自分の存在そのものが環境に馴染まない感覚に気づいた。自分から見える景色は男子校であり、周りから見れば私ひとりだけが女子だった。

    最初のころ、他の同期同士はすぐ仲良くなるのに、私に対しては挨拶もしてくれなかった。研修室に座るときも、混雑して立ち見が出るほどなのに、毎回自分の隣には誰も座らなかった。自分の発言だけリアクションが来ない、既読無視されることもあった。漫画もアニメもネットミームもわからず、会話についていけなかった。3人以上で会話をしているとき、自分は他の参加者ひとりひとりに「どう思う?」と質問を投げかけて全員が話せるように気を配る癖があるが、向こうからは一切聞いてもらえないということが多々あって、会話スタイルの違いにも衝撃を受けた。人の写真を撮る時も、自分以外に人の写真を撮ろうとする人はいなかったし、代わりに撮ろうかなどと提案する人もいなかった。ああ自分は撮られないんだろうな、自分がいる記録は残らないのかな寂しい、と思った。遊びに行こうと企画を立てても、誰ひとり反応がなく、他の人が立てた企画には来てくれるんだろうなと感じられた。他のコミュニティの話を聞くにつけ、自分には何もないことがつらかった。自分が心を砕いて取ろうとしていたコミュニケーションを無視されているような、自分が自然としている気遣いが全く届かない虚しさを感じた。

    いちばんの恐怖だったのが宿泊行事だ。部屋割りでは必ず1人部屋になる。だいたい重要な会議は雑談の中から生まれるし、それは宿泊行事の深夜に起きてもおかしくない。歓談スペースに残らずに1人で部屋にいても誰からも気にかけられることはなく、連絡も来ないし、隣の部屋で何かが起きるのではないかと気が気ではなかった。ポツンと部屋にいたり、大浴場のお風呂に浸かっているとき、壁越しに楽しそうな声が聞こえてくるとすごく悲しい気持ちになった。

    他のメンバーに比べても自分だけ体力がなく、長時間の活動に疲弊していた。一緒に帰るときも、みんなの方が歩くのが速く、会話にも入れない状態で、そのうえ後ろを振り返らないので置いていかれることがしばしばあった。とにかくスピードについていけないことが多かった。自分は食べるのも遅かったし、歩くのも遅い。食事や移動といった雑談が生まれる時間に一緒にいることができない、余暇の時間を共有できないことがかなり悲しかった。コミュニティに加われないという苦しさがあった。休憩時間は、本来ふっと気を楽にできる時間のはずが、自分の癒しにもならず、より一層周りから置いていかれる緊張の時間だった。

    重いものを持ったり、高いところのものを取ったりといった時にも誰かに頼らざるを得ないことがあった。自分は身長が160cm以上あったので、体格差は大きな問題にはならなかったが、工具の持ち過ぎで手が腫れたり使い物にならない時もあった。夜家に帰ると手が熱を持って腫れてしまう、ということが何度か生じた。言えばよかったのかもしれないが、生理痛でお腹が痛いことを言い出しづらかった。

    舐められたくないという思いもあったように思う。そういう意味では、恋愛話をすることも避けていて、深掘りされないようにしていた。交友関係を理由に怠けているのではと少しも疑われたくなかったので、誰よりも毎日活動場所に行って作業に励んでいた。日誌や記録といったサボりがちな場面でも同期内だけでなくサークル全体の中で一番熱心に取り組んでいたと思う。服装についても黒や紺色の服を選んで長袖長ズボンで髪も短くして、集団の中で目立たないように工夫していた。そうすることで馴染みやすくなると考えたからだ。

    自分のポジションが確立されていないからこそ、毅然とした態度で、自分の仕事を開拓していく必要があった。技術的に優れていることが至高とされていた中で、自分はコミュニケーションや気遣いのスキルでチームをまとめる仕事をやっていくことにしたが、それらの価値を信じてもらうには時間や実績が必要だった。実績を作っていくときは誰もついてきてくれないし、1人でやらざるを得ない状況も多々あった。自分が活動場所に行っても、他の人からは「やっぱり試験勉強で忙しいので行けません」と連絡が来て、結局1人で活動することになる状況がよくあった。

    空回りしてしまう感覚があった。いま冷静に振り返ると、本当はまだ皆そこまで仲良くなったこと、単純に話題や趣味が合わなくて自分にコンテンツ力がなかったこと、目標意識が強く真面目すぎたことが原因だとは思う。でもそこにふと「女子だから輪に入れないのかな」という疑念が湧いてきてしまうのだった。

    そうやって「これって自分が女子だからなのかな」と思いはじめると、自分自身が女性であることは変えられなくて、自分で自分の根本を否定している気持ちになってくる。普段は性差を綺麗に忘れているけれど、似たような状況が繰り返されていると感じた瞬間、何度でも思い出して悲しい気持ちになってしまう。他の人が悪いわけではない、自分の考え方を変えなくてはと自責の念に駆られていた。この時期はよく「感情がなかったらいいのに」と考えていた。そもそも、性別の違いで起きたことなのか、自分には今でも判別できない。ただ、ここでやっていくには環境に適応する必要があった。

    オシャレをすることを楽しみの一つに思っていたのに、あるとき「おしゃれしたいと思えない」時期が来た。びっくりしてショックだった。素敵な服を着たり、イヤリングをつけたり、装飾品を身につけることに楽しさを見出せなくなった。毎日服を選ぶのが辛かったので、サークル活動に行けない日も決まった作業着のような服をローテーションしていた。あの時期は体力的にも精神的にもキツくて、家に帰ってはほぼ毎日お風呂で泣いていた。サークルのメンバーはもちろん、一緒に住んでいた家族から心配されるのも嫌だったので、泣いたことは誰にも言えなかった。朝から終電まで毎日作業場に行っていた。睡眠時間を含めても、活動場所より家で過ごす時間のほうが短かったと思う。さすがにまずいなと思って、月に一度は休みを取るようにした。

    もともと1人で作業することへの抵抗感や徒労感があった。深夜までひとりで作業することにも、ひとりでご飯を食べに出ることにも慣れていなかった。それでも、「おひとりさまに慣れる」という目標を掲げて、悲しいやら寂しいやらの気持ちをコントロールしようと奮闘してきた。その後の大学院では国際学会に1人で行けるくらいになった。気づけば誰かと一緒に行きたいというより、ひとりで行く方が気楽だと思えるようになってきた。

    慣れる、という変化と戦略

    ここまでやろうと思ったのは、サークルで何としても達成したい目標があったからだ。自分はロボットを作っている仲間たちが本当に好きで、彼らの頑張りがどうにかして報われて欲しいと思っていた。そこに自分も居たかった。はじめて出場した対外大会で、所属チームが優勝した姿を見たとき、単純に嬉しかったというより、メンバーが喜んでいる姿にすごく安心した。チームメンバーをすぐ近くで見てきて、彼らが準備してきたことが喜びに変わって本当によかったと思った。「技術が好きで開発が楽しくて勝ちたい」と思っている人たちと一緒に優勝を目指したいと思った。絶対にもっとできることがあるし、自分だから見えているものや提供できるものがあるという確信があった。

    だから、辞めるという選択肢は存在していなかった。サークルの外の友人たちからは「ちゃんと寝てね」と、応援されつつも常に心配されていた。「ロボコンサークルはブラックだから絶対やめた方がいいよ」と強く止めてくれた先輩からのアドバイスに従って、苦しくなったときの保険で兼サーをしていた。おかげでここ以外にも居場所があると思えたし、たまに愚痴を聞いてもらったりもしていた。孤立無縁だったわけではなく、別の帰れる場所があったのは支えになったと思う。あたたかく見守ってもらっていたと思うし、そういう理解のある友人や家族に恵まれたのは幸運だった。

    2年くらい経つと周りも自分も環境に慣れてくる。違和感を感じづらくなる。異分子としての感覚は1,2年経ったら薄まって、それ以降はほとんど感じなくなった。「石の上にも三年」というが、本当に三年かかるんだな、三年あれば慣れるんだなという実感を持った。その後も「ロボコンよりは辛くないな」と一つの基準になっていて、自分の自信にもなった。

    大学に入って自分が一番変わったと思っているのは、躊躇せずに飛び込むようになったことだ。

    自分から挨拶したり、話しかけて会話の糸口を探ったりするのに慣れた。恥ずかしいとか悲しいとかは思わなくなった。周囲で人気なアニメや漫画にも触れてみて、有名な少年漫画も3巻までは読んでみるようにした。結局自分の好みではなかったが、ネタについていけるようにはなった。もともと小中高と本ばかり読んでいて漫画にほとんど触れてこなかったのもある。その中でも、いくつか好きになれる作品にも出会い、自分の興味の幅を広げてくれたとも思う。

    自分はそれまで定性的な話し方をする傾向があり、それを同期にすごく指摘されたので、定量的に話せるように気をつけた。意見を出すときは根拠を示したり、どうやって数値で表せるか考えたり、前提を詳しく共有したり、論理的に表現したりするようになった。この癖をつけたのは研究室に入ってからとても役に立ったと思う。自分のまわりで多かった否定から入ってしまう癖や冷笑的な反応にも慣れ、言葉の裏を憶測するのを辞め、言われたことは素直にポジティブに受け取るように気をつけるようになった。

    無視されてもめげずに、遊びに誘われるのを待つのではなく、自分から積極的に誘いにいくようにした。反応が悪かったとしても、誘わないことで遊びに行けなくて不利益を被るのは自分なので、誘うことでチャンスを得られる。自分から積極的に色々な役割を担って、自分の居場所や強みになるようなこと、他の人があまりやらないけど自分は嫌だと思わずにできる仕事を探していた。「各人が得意なことをやるべき」という考えが胸に刻まれている。

    継続したことで、先輩からも仕事が認められ、同期からの信頼も得て、一緒に仕事をしていくのが楽しくなった。自分自身、小学生の頃から親に「オタクのオタク」と評されたように、何かに熱心に取り組んでいる人たちが報われるのを見るのが大好きだ。そういう方向で自分を活かそうと思ってか、自然な流れかはわからないが、広報活動に参加するようになったり、記録を残す活動をするようになった。例えば、歴代のチームリーダーを分析する記事を書いたり、これまで噂されていたけれど明文化されていなかったことを文章にする仕事にも取り組んだ。誘われてロボコンの同人誌も出したし、先輩に引き入れられて新人大会の運営にも携わった。気づけば「同期で一番信頼できる人」と言われるようになった。引退後も後輩から色々な相談を受けてきた。

    長々と「大変だったこと」を書いてみたが、これらの経験は身の回り数世代の間で共通しているものが多いと感じる。女性の後輩と話していても「最初は馴染めないからね、夏までは我慢かな」などと"あるある"として語られていた。サークル引退後、新人大会運営メンバー内で他大学のロボコンサークルで活躍してきた女性たちと交流する機会があったが、そこでも障壁とそれを乗り越えた経験が、"あるある"として盛り上がった。個人の体験ではあるが、すごく特殊なものとは言えないのかなと感じている。

    学部時代の経験は、はじめての文化へ同化しただけではなく、マイノリティである自分の価値の出し方を探っていったと言えるかもしれない。この経験は自分の大きな自信になっているし、その後の工学部や研究室生活でも「ロボコンができたのだから」と思って一歩踏み出す後押しになっている。


    修士課程|自分はロールモデルなのだろうか

    女子学生をやっていると、いろんなチャンスが回ってくる。

    例えば、女子限定のイベントに参加できた。女子学生が少ないために、女子限定の新歓があったり、交流会があったり、ハッカソンのような工学系に興味を持ってもらうためのイベントがあったりした。研究室に入ってからも、学科の研究ワークショップに参加できたのは、分野と性別のおかげもあると思う。少人数の中でも男女比を気にして、1人くらいは日本人の女性を入れようと考えがちだ(留学生の女性は結構いるが、日本人が少ない)。自分から手を挙げる必要はあったものの、いろいろなチャンスに恵まれてきたと思う。

    得をしていると感じる居心地悪さ

    学科進学後に呼ばれるようになったのが、ロールモデルとして説明会などで講演してほしいという依頼だ。

    新歓、学科説明会、学部説明会、学科パンフレット、男女共同参画委員会、女子中高生向けの工学部オープンキャンパス企画、親御さん向けの博士進学キャンペーン、中高生向けの工学部アウトリーチ企画、女子向けパンフレット、テレビの理系大学院生特集など、いろいろな機会に出演したり講演したりしてきた。呼ばれるのはありがたいなと思うし、自分のいい経験になるかなと思って参加することにしている。

    こういう機会に一度でも参加すると、先生や事務の方に名前を覚えられて、次の機会でも呼ばれるようになる。顔を売り込むことになって、会ったら挨拶してもらえたり、目をかけてもらったり、先生たちと話す機会が増えるので教員や大学運営の事情がだんだんわかってきたり、いいことも多い。

    その一方で、男女問わずホモソーシャルで生きづらい人の話や、人間関係やハラスメントで悩む人の話、マイノリティ環境が原因で工学の道に来たことを後悔する人の話を聞くと、お得かも?と思っていること自体が申し訳ない気持ちになる。男性ばかりの職場で働く方が「一人で吠えてるような気分になる」とおっしゃっているのを聞いたこともある。男性の立場から「女子率を上げようとか、学生であるあなたが考えなくてもいいんじゃない?」と気にしていただいたこともある。女性であることで、一生こういう話を聞いて過ごしていくんだろうなと思うと、なんとも言えないやるせない気持ちにもなる。同時に、チャンスに感謝したり、自分が"強い女子"と区分されることに引け目を感じたり、複雑な思いを抱いている。

    後輩が入ってきて、昔の自分と同じようにショックを受けているのをみてハッと気付かされたことがあった。コミュニティに適応していくにつれ、自分がちょっとした下ネタとか、偏見とかに傷つかない、気にしないようになっていた。昔は自分から声を上げて指摘して、ひとつひとつ直してもらっていたが、それもやらなくなっていた。自分は痛みを感じなくなって快適ではあるものの、後輩が感じられる、本当の悩みや痛みに鈍感になっていたことに気づいた。ほんとうは自分も、ちゃんと立ち止まってみると、確かに傷ついているし、不快に思っていることなのに、やり過ごせてしまっている。女性である自分ならセクハラかどうかわかる、と無意識に思っていたところもあり、気づかなくなっていたことがショックで自分が怖くなった。適応したからといって、問題がなくなったわけではないのだ。

    また、自分の例が先にあることで、後輩にプレッシャーや反発を与えているような気もした。苦労したことやネガティブな感情を他の人や後輩に伝えるのはとてもむずかしい。環境のネガキャンになってしまう可能性もある。悩んだことを話したら「コンプレックスとかあったんですね!?」と4つ下の後輩から言われて、かっこよく見せてしまっている自分と、後輩からの見え方にドキッとした。あくまで自分の体験は自分のものであり、自分の意見が女性の代表ではない。自分自身、ネガティブな感情に向き合うのは気が進まなかったり、うまくいったことだけを見たくなってしまう。自分の記憶すら、元の自分の考えや苦労を書き換えてしまっていないか不安になった。

    「こういうことって自分だけが感じるわけじゃないんだな、以前もあったんだな」と思えると少し気が楽になる。だから、サークル内で公開されている日記には当時の奮闘が書かれているし、自分が欲しかったものや苦労したことはできるだけ記録に残したつもりだった。それでも、自分の気持ちやポジションを守るために書けていなかったこともあるなとは思う。誰かへの批判と受け取られてしまわないか、希望を持って入ってくる後輩にショックを与えてしまわないか、という疑念があった。どこまでが自分の責任で、どこからが環境からの影響だったのか切り分けられないとも思った。それ以上に、辛かったことを語るには傷がまだ乾いていなかった。

    代表ではなくサンプルである

    参加しているうちに、自分は本当にロールモデルなのだろうか、と思うことが増えた。イベントのたびに「工学部へ進学する女性率UP!」と掲げられ続けて、自分の気持ちとズレがあることに悩んだ時期もあった。後輩から「先輩がいてくれたから〇〇に参加しました」とか「先輩に憧れてて...」と直接言われることもたまにあり、複雑な気持ちになった。自分は工学部に進んでよかったと思っているし今も楽しく過ごしているけど、確かに辛かった時期も悩んだこともあって、純粋な気持ちでおすすめすることはできない、と思った。完璧な笑顔で「ぜひ工学部へ!」とお薦めするのは気が引ける。それに、自分は何か突出した経歴があるわけでもなく、自分なりに楽しく学生生活を過ごしてきただけだ。

    女性の先生とお話しする機会に恵まれて相談してみたところ、「工学部は楽しい」というメッセージを伝えるだけでいいのではないか、と言われて「そうかも」と腑に落ちた。それなら自分にもできそう、と思えるようになった。工学部女子を「代表する」ことはできないけど、自分が良いと感じていることなら伝えられる。こんな自分がここにいることを伝えるだけでいいのかもしれない。それをロールモデルと呼ぶなら、自分にもできそうだ。大学入学直後に自分が先輩に憧れたように、もしかしたら誰かには素敵に見えるかもしれない。

    だからこそ、自分がしゃべる意味は何か、何を期待されて呼ばれたのかを確認するのが大事だと思っている。「ひとつのサンプルとして」伝えることを意識している。"自分が"何をして、"自分が"どう思って、"自分が"どう考えたのか、という言い方にする。自分の思いや考えがないと話す意味がなくなってしまう。そうでなければ統計情報を見ればいいことになる。

    そうして、「自分だから伝えられること」を意識してアウトリーチ活動に参加するようになった。講演の切り口を考えるとき、コンテンツのアイデアを出すとき、今ここにいる自分だから作れるものはなんだろう?と考えることにしている。特に、研究内容について発表するときは「世界にはもっと詳しいひとが…」「自分がメインでやってる研究じゃないし…」と逃げたくなってしまう気持ちもあった。人前に立っていることがものすごく不安になる。でもこの先、毎回そう言って逃げ続けるわけにはいかない。それでも、繰り返し挑戦することで、自分もその分野に再度詳しくなれる楽しさや、この内容をこのひとたちにうまく伝えられるのは自分しかいないと思えるようになって、慣れていける気がする。こうしてブログを書くのも、自分の整理や記憶ためでもあるし、ひとつのサンプルとして記録を残すのもいいかなと思っているからだ。

    完成された成功者は、ラベル化されて、説明可能で、消費しやすい。でも自分が好きなのはまだ揺れている人、悩んでいる人、途中にいる人。その途中過程は観測されづらく、本人も気づいていないことが多い。でも後から振り返って無意識に一番糧になっている気がするのは「過程」だ。記録を見返して初めて「あの時こんなことを考えていたのか」と気づかされることがある。自分自身ですら忘れてしまうような日常の繰り返しが、貴重な気がするのだ。


    博士課程|自分の価値基準をつくる

    そもそも、博士課程まで進む学生は少数だ。自分は研究室で初めての日本人博士進学者だった。

    進学を決められたのは、これまでに培ってきた「自分から飛び込む姿勢」も影響しているのかもしれない。研究テーマだけでなく指導教員との相性がよかったし、卒論でできなかったことがいっぱいあってすごく悔しくて、修士の2年間では満足できそうにないと思った。研究や研究者が好きで、研究という営みが知りたかったし、その近くにいたかったのかなという気もする。

    博士課程というマイノリティ

    大学院も後半になると、新しい友人をつくるのは難しくなる。研究室のコミュニティで閉じてしまうからだ。自分で意識して友人との関係を維持する必要が出てくる。

    学科や専攻には知り合いになれた博士の先輩がいたのはよかったなと思う。「生きていけるんだ」と思えた。アウトリーチ活動や専攻内の交流会などに積極的に参加していたおかげで何回か一緒になって話すようになり、知っている先生たちの話や、ラボの雰囲気、「この時期は忙しいんだなぁ」みたいなイメージが持てたような気もする。具体的なロールモデルではないが、居ることそのものがうれしかった。

    研究室に学年の近い先輩はいなかったため、ラボの雰囲気や先輩の役割をなんとなく全部背負っているような感覚になって、ぼんやりとした負担感があった。ちょうどラボのメンバーの人数自体も少なくなっている時期で、居室で雑談をはじめる人がいなかった。会話の糸口というか、発端になる人がいなくて、すごく寂しい雰囲気だった。だから自分が後輩に話しかけないといけない、と責任感を勝手に感じていたのだと思う。特に論文を書いている時期は、その負担感に自分の作業を邪魔されるようでストレスだった。先生からも「後輩くんは元気?」と聞かれたり、「後輩くん最近元気なさそうで心配なんだよね〜」といったことを言われたりして、なんとなくプレッシャーに感じていた。とはいえ、先生からのコメントも雑談程度で自分もそんなに深く重く捉えていたわけではないし、気楽にやっていたのだが。今になって助教が入ってきてくれて、ラボのメンバー人数も増えてくると、自分が担っている役割が分担されているように感じて気持ちが軽い。

    後輩から、「博士課程に進むか迷っていて、どうやって決めましたか。SNSを見ると苦しそうな院生ばかりが流れてきて悩んでいます」「博士課程に行く自信がなくなってしまって...」と相談されたりもした。研究室に長くいると、一人で考え続けることや、指導教員との独特な関係性や、将来への不安を抱えながら研究することを当たり前だと思うようになる。博士課程まで進んだ人たちは、その環境に適応できた人たちでもある。だからこそ、自分たちにとって当たり前になったものが、本当に当たり前なのか時々わからなくなる。「工学部の女子」というのに慣れてきた次に、「大学の博士課程学生」というマイノリティに慣れていく自分を感じていた。

    自分を取り戻す

    自分の生活ペースをつくることが意識できるようになった。

    ロボコンをやっていたときや研究室に入ったばかりのときと比べて、ご飯を時間を決めてちゃんと食べたり、家族やプライベートの時間をきちんと確保したり、早く帰れる日を意識的に作ったり、遅くとも終電までには必ず家に帰ってベッドで寝るんだと心に誓ったり、休みの日を設定したり、体調や心地よさの部分にも気をつけられるようになった。特に家族や親しい人との付き合い方が変わった気がする。甘えて適当にするのではなく、自分と相手との関係性を維持するにはそれなりの努力やコストがかかり、お互いがそれを引き受ける必要があるのだと考えられるようになった。

    どうしても、学内で会う先輩や先生方は、ほとんどが男性だ。友人も男性が多い。キャリアの考え方は、同期の女子から聞く考え方と、男性も混じった会話では異なっていると感じる。たとえば同じ結婚に対しても、男子学生からは「このままで結婚相手が見つかるだろうか」、女子学生からは「これからのキャリアの中でいつ結婚したらいいか、そもそも自分は子供が欲しいのか」といった話が出る。立場が違うからこそ、どうしても話が合わないこともある気がする。女子だからというだけで仲良くしていたわけではないけれど、やっぱり女子同士は話しやすかった。恋バナもキャリアの話も、自分と近い体験をしていたり、近い感情を抱いていたりする人の方が相談しやすい。プライベートの話になればなるほど、相違がある人とは話しづらくなるし、気を遣ってしまうから本音が言い出しづらくなる。

    その上で、男性と話す方が気楽なときもあった。属性が近すぎると、キャリアプラン、長年付き合った相手とキャリアを合わせていくにはどうすべきか、といった人生の責任を伴う話題になりがちだ。お互いに事情が違うからこそ、責任や現実の話をあまり出さず、純粋に「自分が何をやりたいのか」という視点で話せることがあった。最近はよく「女子校出身っぽくないですね」と言われる。

    博士課程に進んだ後輩から言われた話題のひとつは、周りから「婚期が遅れるんじゃない?と言われた」「恋人を作ったほうがいいですかね」といった話だった。皆がどのくらい気にしているかはわからないが、「この歳なのにまだ学生をやっている」とか「希少な道を歩んできてしまった」という引け目やマイノリティ感は少なからず持っている気はする。その結果か、全員に道を切り開くポテンシャルやバイタリティを感じる。本人次第でどうとでもなりそうな強さを感じる。ここまで来ると「強い女性」にならないと居続けづらい環境だったという生存者バイアスかもしれないが。

    一方で、女性の先輩に「組織で働いたこともなければ、妊娠・出産・育児もしたことないならわからないよね…」と、がっかりしたように言われたことがある。まさにその通りだが、仲間に入れてはもらえないのだな、と感じた。女性研究者はまだ少ない。自分の専攻でも、これまで2人しか女性教員に会ったことがない。まだ学生だからこそ、見えていないものも多いし、気楽に考えている部分も多いだろう。当たり前のことだが、近い属性だからといって同じ経験をしてきたわけでも、同じ考えを持っているわけでもないのだ。

    「多数の男性に対する女性」という構図が染み付きすぎていて、女性であることを意識せざるを得ない状況になっている気はする。女性というラベルだけで自分を定義されたくない。アウトリーチ活動などで触れる機会のあった「理系女子率向上」といったジェンダーの話題をどこでしてもいいのかはずっとわからなかった。一言でも口にしたら批判されるのではないか、標的になったらどうしようと考えてしまう。「女子率向上には男性側のメリットがあまりないよね」と言われて戸惑った経験もある。やっぱり、個人の範囲を超えたものに踊らされているような感覚がある。

    自分の道でどう生きるのか

    自分は、研究だけに集中することは性に合っていなくて、副専攻を取ったり、アウトリーチ活動に参加したり、同人誌を制作したり、研究以外の世界を積極的に見て回ってきた。

    ディープテックスタートアップの講義(ディープテック起業実践演習)、科学コミュニケーションの副専攻(科学技術インタープリタープログラム)、大学での教育力向上を学んだフューチャーファカルティプログラム(FFP)の受講、学部共通授業として開講されていた特許の授業など、研究に直接関わらないプログラムに参加したことで、いま思うと修了後のさまざまな選択肢を見てきたとも言えるかもしれない。自分は純粋に面白そうだったから参加していたし、いろいろな機会をいつも探しているタイプだった。

    その中で、「そんなことばかりしないで、もっと研究に集中して実績を作りなさい」と言われたことがある。周囲は応援してくれていたが、自分自身でも「こんなことをしていて大丈夫だろうか」と不安になるときもあった。大学にいるのはアカデミアの中で生き残ってきた人が多く、進路もメーカーかアカデミアかの二択というイメージが強い。結局、自分は研究職に就く予定はないが、ここでもまた王道から外れてしまったような感覚がある。また、大学の中でもアウトリーチ活動には研究軸で評価がされづらいのを実感してきた。分野が違えば評価されるようなことでも、大学の中の価値観では認められない感覚がある。研究成果は論文という形になって評価されるが、人と人をつないだり、後輩を支えたり、社会との接点を作ったりする活動は評価されにくい。自分はそうした活動にも意味を感じていたが、それをうまく説明する言葉を持てなかった。

    そうすると、自分はどこに行ったらいいのだろう、とよくわからなくなってくる。自分が大切だと思うことと、大学で評価されることは必ずしも一致しない。

    研究職といっても、女性の先輩は仕事も生活もどちらも両立しているイメージが強い。仕事だけしていてその他の生活はままなっていない、というようなイメージは女性では思い描きづらい。アカデミアの若手の男性は、子供が生まれる日だけ休んでそれ以外は普通に過ごしているという噂も聞く。もっと女性のキャリアが自然と目に見えたらいいのになとも思う。子育てもして研究もして、と両立している例しかないのは、それはそれとして狭い気がする。

    また、「自分の観測範囲では博士出て文系就職してうまくいっている例は男性しか聞かなくて。キャリアを止めるのが必須じゃないからゆとりを持っていられるのかな」と後輩に言われた。独身だって、アカデミアじゃなくたって、博士課程まで進んだ理系の女性はいるはずだ。ちょっと寂しいなと思った。

    博士課程に進んでみて、これまで自分が無自覚のまま不満や疑問に思っていたことを自覚するようにはなった。研究でも、それ以外の活動でも、「あなたはどう思いますか?どう考えますか?」と聞かれているような感覚が出てきた。「今ここにいる自分には何ができるか」「自分は何が作りたいのか」「自分の出せる独自性は何か」を考える癖が、段々とついてきたような気がする。


    適応は成長でもあり、自己変形でもある

    環境が自分におよぼした影響は何だったのだろう、と考えながら振り返ってみた。実際のところ、学部時代の環境への適応がジェンダー起因だったのか、性格・文化・組織のすれ違いだったのか、自分でもはっきり区別することはできない。大学院に進学して、今度は博士学生として環境に適応していった感覚がある。自分は工学部女子の代表ではない。博士課程学生の代表でもない。ただ、ある環境に長く居続けた結果、少しずつ適応していった一人のサンプルである。

    適応は成長でもあり、自己変形でもある。生き延びるために、無自覚に自分の感受性を書き換えてきた部分がある。その上で、居場所を自分で作る方向で生存戦略を考えてきた。それができたのは、自分を支えてくれる別の足場がたまたま少しずつ存在したおかげだ。ほんとうに幸運なことに、いま自分はこの環境が好きだと思えるし、工学系に進んで楽しかったと心から思えている。

    大洋に浮かんでいる人をイメージする。たしかにボートなり板切れがあった方が過ごしやすい。なんなら帆を張りたいし、釣竿やナイフがあれば食料だって手に入りやすくなるだろう。でもそれらは、現時点で我々の手には存在しないものたちかもしれない。それでも我々はこの海を泳いでいかないといけない。そのためには持っている荷物を捨てて身を軽くするかもしれない。

    泳ぎきった先に「もっと」があるような気がしている。岸に着いたら、次に大海に出るときにはボートに乗った方がいいと、木を切り出してくるかもしれない。でもそれは泳いでいる最中にやれることではない。それに、泳がなかった人、泳ぐ必要がなかった人、泳げなかった人もいるだろう。実は泳がなくてよかったはずの部分もあるはず。途中で大事なものを捨てる決断を迫られることもあっただろうし、そのとき捨てなくてもよかったものもあるかもしれない。

    適応の先に残ったもの

    自分で自分を認めるしかないけれど、生き延びるために無意識に自分を変えてきたことが、良かったのかはわからない。

    一人で行動することに慣れたし、論理的な話し方も身につけた。傷つくことも減った。それでも振り返ってみると、意外なほど変わらなかったものもある気がする。仲間が喜ぶ姿を見たいと思ったこと、記録を残したいと思ったこと、後輩の悩みが気になってしまうこと、環境の中で起きていることを観察し続けてしまうこと。こうして残っているものが、自分自身の核なのかなと最近思うようになった。

    茨木のり子の詩に「自分の感受性ぐらい自分で守れ」とある。時々立ち返る言葉だ。自分の存在を諦めないでいたいな、と思う。

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    工学系大学院生の外部記憶装置。 面白いものを見つけると試さずにはいられない。黄色いあひるがトレードマーク。材料研究、学生ロボコン、広報、本郷キャンパスの話が多いです。 https://sites.google.com/view/rikoko-duck

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