
「研究なら、どこでもできる。」― 大学院を諦めた日、恩師からもらった余白 ―
大学4年の春、私はとうとう体調を崩した。
心理学を専攻し、教職課程と研究、そのすべてを完璧にこなそうと、毎日を「やるべきこと」でぎゅうぎゅうに詰め込んでいた頃だった。大学院進学という目標を目前に、その道は唐突に閉ざされた。
進学を諦めると決めた日、指導教授の研究室を訪れた。積み重ねてきた時間も、努力も、すべてがここで終わってしまうような気がして、私は情けなさと悔しさでいっぱいだった。
静まり返った研究室で、恩師は穏やかに言った。
「研究なら、どこでもできるよ。」
一瞬、その言葉の意味がわからなかった。研究とは、大学院という特別な場所で、論文や実験室の中で行うものだと信じ込んでいたからだ。
恩師は私の固く閉じた心を見透かすように、言葉を続けた。
「環境は確かに大事だけれど、研究すること自体は、大学の外でもできる。仕事をしながらでも、子育てをしながらでも。大切なのは、問いを持ち続けることなんだ。」
その言葉は、私の胸の中に小さな空白を生み出してくれた。「もう終わりだ」と力んでいた心が、ふっと軽くなるのを感じた。
あれから十数年。私は図書館司書として働きながら、日々の業務や子育ての中で、人の行動や心理にまつわる小さな「なぜ?」を拾い集めている。ある利用者がなぜその本を探しているのか、子どもがなぜ同じ質問を繰り返すのか。かつての「研究」が、論文という形ではなく、本を通した企画や文章の中に生きている。
研究は、机と論文と実験室だけのものではない。暮らしの中にこそ、問いと発見は隠されている。
あの日、恩師の言葉がくれた、人生の「余白」。それは、私の視界を今も広げ続けている。
喜木 拝