
正解が欲しかった私に、上司がくれた「こすい」という救い。
紙の上の文字が、私の名前だけを冷たく、鋭利に切り取っていた。
名指しのクレーム。
その夜、胸の奥で「もうだめかもしれない」が静かに鳴り続けた。
分館勤務だったあの頃、私はたぶん、少しだけ急いでいたのだ。
図書館の仕事は、誰かの暮らしの物語に、そっと指先を差し入れるような仕事で。 返却された本の一冊一冊に、その人の時間が宿っている。
あの日。
再貸し出しの手続きの最中、私は本に挟まっていた栞を抜いた。
「挟みもの確認」という、マニュアル通りの、無機質な作業。
抜き取った瞬間に目が合った。
相手の顔が、西陽が翳るようにムッと曇ったのを、今でも鮮明に覚えている。
栞は、単なる紙切れじゃない。その人が物語と過ごした時間の「足跡」で。それを無機質な「挟みもの」として処理してしまった私の指先が、その時だけは酷く無作法に思えた。 丁寧さが足りなかった。
「次は、気をつけよう」
そう自分に言い聞かせても、紙の上の言葉は刃物のように鋭かった。 自分の未熟さだけではなく、私という人間そのものが、根底から否定されたような気がして、呼吸が浅くなる。 しかもその声は、分館ではなく、わざわざ遠い本館に届けられていた。 直接ぶつけられない悪意が、かえって得体の知れない重みとなって、私を押し潰そうとする。
「私は、間違っていましたか」
「もう、信頼は戻りませんか」
震える声で切り出した私に、上司は静かに理由を尋ねた。 私は、喉の奥に詰まっていた「心当たり」を、絞り出すように白状した。 再貸出のとき、無作法に栞を抜いてしまったこと。その瞬間、相手の顔が険しくなったこと。
「……栞を抜いてしまったのは、私の落ち度です。丁寧さが足りませんでした」
正直に伝えると、上司は小さく頷いた。 「そうだね、その部分は次は気をつけようか」 それは、淡々と事実を受け止める声だった。
上司は手元のアンケートに視線を戻すと、少しだけ眉を寄せた。 それから、私の目を真っ直ぐに見つめて、今度は逃げ場のないほどきっぱりと言った。
「私は、そうは思わない」
たった一言。
落ち度は「技術」として修正すればいい。けれど、この紙に書かれた言葉で、あなたという「人間」まで否定される必要はない。 上司の眼差しが、私の心の中に、鮮やかで力強い境界線を引いてくれた気がした。
さらに、上司はふっと相好を崩して、いたずらっぽく笑った。
「……それにしても。分館に直接じゃなくて、本館に投げ込むなんて。“こすい”よね」
泣きそうだったのに、少し笑えた。
世界の終わりみたいに膨らんでいた出来事が、ちゃんと“出来事の大きさ”に戻っていった。
あれから、一枚の栞の向こう側にある、誰かの時間を想像するようになって。 心が削れそうになったとき、心の中で唱えるおまじないができた。
「私は、そうは思わない」
反省は、未来へ繋ぐためにする。
けれど、あの一枚の紙に、私の仕事の全部も、私の人生の全部も、決めさせるわけにはいかない。
あの上司の言葉は、今も私を“あるべき場所”へと戻してくれる。
図書館のカウンターの、いつもの場所へ。
喜木 拝
#もう30日書けるプログラム
『今も忘れられない上司(先輩)の一言』
