
「理解ある妻」でいたかった。
家族で一緒にいる時間なのに、夫が携帯電話を見ていることがある。
ほんの少し前の私なら、たぶん「まあ仕方ないか」で済ませていた。 仕事が忙しいのは知っているし、責任のある立場で、気が抜けない日もあるのだろうと思う。 実際、夫はよくやっている。家のことも、娘のことも、できる限り手をかけてくれている。 だから、携帯を見ている姿に少し引っかかったとしても、それをわざわざ口にするのは違う気がしていた。
でも最近、その小さな引っかかりが、ちゃんと心に残った。
たとえば家族で食卓を囲んでいるとき。
たとえば娘が、一生懸命に何かを見せたそうにしているとき。
たとえば、ようやくみんなで少し落ち着いて過ごせる時間。
そんなときに夫の視線が携帯に落ちていると、私はうまく言えない寂しさを感じる。
べつに、大げさなことではない。
怒るほどでもないし、責めたいわけでもない。
ただ、せっかく同じ場所にいるのに、ほんの少しだけ置いていかれるような気持ちになる。 その感覚に、自分で自分が驚いた。
ああ、私、嫌だったんだなと思った。
そのことに気づくまでに、少し時間がかかった。
嫌なら嫌で、すぐ言えたらよかったのかもしれない。 でも私は、その前に「理解ある妻でいたい」と思ってしまった。
仕事が忙しいのだから。今は仕方ないのだから。 ここで何か言ったら、相手を追い詰めるかもしれない。 私はわかっているよ、責めていないよ、ちゃんと大人だよ。
そんなふうに、自分の気持ちより先に“いい妻らしいふるまい”を差し出そうとしていた。 けれど、そのやさしさは、少しだけ無理をしていたのだと思う。
理解することと、我慢することは、たぶん少し違う。 相手の事情を思いやることと、自分の気持ちをなかったことにすることも、本当は同じではない。
私はその境目を、曖昧なままにしてきたのかもしれない。
素直に「ちょっとさみしい」と言えたらよかった。
「せっかく一緒にいるんだから、今はこっちを見てほしい」と、ふつうの声で言えたらよかった。 相手の気持ちを汲み取ることが上手な夫だからこそ、きっと言えばわかってくれるはずなのに。
でも実際の私は、そういう小さな本音ほど言うのが苦手だ。 怒るほどではないこと。泣くほどでもないこと。 その“間”にあるグラデーションのような気持ちを、私は昔から後回しにしがちだった。
たぶん、わかってほしい気持ちがあるくせに、わがままだと思われるのが怖いのだ。 自分の寂しさを言葉にした瞬間、それが“面倒な感情”になってしまう気がしてしまう。 だから先に飲み込んで、なかったことにしようとする。 でも、なかったことにされた気持ちは、ちゃんと心の中に残る。
最近、心が少し動いたこと。
それは、夫が携帯を見ていたことそのものよりも、そんな小さな寂しさを素直に差し出せない自分に気づいたことだったのかもしれない。
私は、理解のある人でいたい。やさしい人でもいたい。 できれば、相手の事情を想像できる大人でありたい。 でもそれと同じくらい、自分の心を置き去りにしない人でもありたいと思う。
嫌だった。 さみしかった。 今はこっちを見てほしかった。
そういう言葉を、責めるためではなく、暮らしを守るために使えるようになりたい。 夫婦でいることは、我慢の上に成り立つことではなくて、小さな本音を少しずつ手渡しながら続いていくものなのだと思う。
心が少し動いた、というのは、案外こういうことなのかもしれない。 大きな事件ではない。誰かに話せば「気にしすぎだよ」と笑われるかもしれない。 それでも、その小さな揺れの中には、今の自分が何を大切にしたいのかが、ちゃんと映っている。
私はたぶん、忙しい日々のなかでも、家族で一緒にいる時間を大事にしたいのだ。 同じ部屋にいるだけじゃなく、同じ気持ちでそこにいたいのだ。
そう思えたことが、最近、心が少し動いたこと。
喜木 拝
