
あれは旅行というより、わたしたちの「回復」だった。
新婚旅行は、中止だった。
コロナ禍という言葉が日常になって、予定も気持ちも、いったん全部「保留」に。
家族旅行も、なかなかできなかった。
「落ち着いたらね」と言いながら、落ち着く日は遠くて。
未来の予定表には、空白が増えていくばかりだった。
だから結婚1周年のとき、わたしたちは“遠くへ行く代わりに、近くで特別をする”ことにした。
泊まったのは、横浜ベイホテル東急。
あのホテルには、窓の向こうの夜景まで、ちゃんと記念日にしてくれる力がある。
そして、その夜。
わたしの人生で、いまも「最高」と言い切れるレストランに出会った。
「クイーン・アリス」。
フランス料理を前にすると、言葉が少なくなる。
美味しいって、説明するより、ただ頷きたくなる。
お皿の上は小さな宇宙みたいで、
ソースの香りや、温度や、食感の違いが、ひと口ごとに物語を進めていく。
「これが、特別ってことか」
そのとき、ようやく思った。
新婚旅行が消えてしまった穴の形が、少しだけ変わっていくのを感じて。
……と、ここまでなら完璧な記念日なのに。
夜、ホテルの部屋に戻ってから、わたしはやらかした。
夫の隣で、ゲームアプリに夢中になってしまって。
せっかくのホテルの夜、せっかくの一周年。
画面の中のミッションに必死になって、現実の記念日を置き去りに。
あとで思い出すたびに、ちょっと恥ずかしい。
でも、たぶんそれも含めて、わたしたちらしい。
背伸びした「完璧な夫婦」じゃなくて、
生活の延長線に、ちゃんと失態も混ぜてしまう夫婦。
それでも、窓の外だけは、完璧で。
夜の観覧車が、静かに回っている。
海に近い空は、街の光をやわらかく受け止めて、
その光の中に、わたしたちの時間も混ざっていく気がした。
翌日は雨が降った。
「せっかくなのに」
でも、雨のあとの空は、思いがけずご褒美をくれた。
観覧車の奥に、虹が見えたのだ。
雨で残念、じゃなかった。
雨が降ったからこそ、虹が出た。
そういう当たり前のことを、あのとき初めて、胸で理解した気がする。
予定通りじゃない日。
思い通りじゃない時間。
それでも、ちゃんと綺麗なものが残る。
新婚旅行が中止になったわたしたちは、
遠くへ行けなかった代わりに、
「いまここにある特別」を見つける方法を覚えた。
横浜の夜景と、クイーン・アリスの余韻と、
ゲームに夢中になった小さな失態と、
雨の向こうの虹。
あれはたぶん、
“旅行”というより、“回復”に近い一泊だった。
わたしたちの時間が、また歩き出した日。
喜木 拝
#もう30日書けるプログラム
『ここらで、思い出深い旅行の話でも』