
整ってしまうわたしの、本音の置き場所
読んだ人から「なんだか行儀がいい」と言われてしまう。
そんなお悩みが、放課後ライティング俱楽部に届いていて。
わたしも、文章が整ってしまいがちな人間です。
本音を書いているつもりなのです。
けっこう恥ずかしいことも書いている。
情けなかったことも、うまくできなかったことも、子育てで余裕をなくしたことも、弱さも迷いも、それなりに出しているつもりではある。
なのに、どこかで言われる。
「まだ整っている」
「もっと出してもいい」
「本音は、もう少し奥にあるんじゃない?」
そう言われると、ちょっと困ってしまいます。
いや、こちらとしては、もう見せているつもりなのです。
むしろ、これ以上どこを見せればいいのだろう、と。
けれど、ヤスシさんの記事を読んでいて、少しだけ思いました。
もしかすると、わたしが見せているのは「傷」そのものではなく、手当てをしたあとの傷なのかもしれない、と。
血が出ているところをそのまま見せるのではなく、洗って、消毒して、絆創膏を貼って、
「もう大丈夫です」
と言える状態にしてから、ようやく文章にしている。
だから、嘘を書いているわけではない。
本音ではある。
でも、読んだ人からすると、どこか“処置済み”に見えるのかもしれません。
私はたぶん、書きながら整えてしまうタイプです。
ぐちゃぐちゃの気持ちがあったとしても、文章にする過程で、意味をつけたくなる。
つらかったことには学びを。
情けなかったことには笑いを。
迷っていたことには、仮でもいいから結論を。
それは、悪いことではないと思っています。
書くことで、自分を少し救っている。
書くことで、荒れていた心に輪郭を与えている。
書くことで、出来事を「ただつらかったこと」のまま終わらせずに済んでいる。
だから、整ってしまう文章も、わたしにとっては必要なものなのです。
ただ、読者が「もっと読みたい」と感じるのは、たぶん結論の美しさだけではないのでしょう。
迷っている途中の足音。
まだうまく言えない沈黙。
本当は言いたくないけれど、少しだけ漏れてしまった一言。
きれいにまとめる前の、体温のようなもの。
そこに、人は「ああ、この人も同じだ」と感じるのかもしれません。
では、どうしたらいいのか。
全部をさらけ出す必要は、ないと思います。
文章を書くたびに、心の引き出しを全部開けなくてもいい。
無理に生々しくしようとして、自分を削る必要もない。
ただ、整える前の一文を、少しだけ残してみる。
たとえば、
「今はもう笑って書けるけれど、本当はそのとき、かなり傷ついていた」
とか。
「ここまで書いておいてなんだけれど、まだ納得できていない」
とか。
「きれいな話にしたい私がいる。でも、そうできない私もいる」
とか。
そういう、文章の端っこに残る小さな揺れ。
それだけで、たぶん十分なのではないでしょうか。
本音とは、必ずしも激しい言葉のことではない。
泣き叫ぶことでも、誰かを責めることでも、自分の全部をさらすことでもない。
むしろ、静かに整えた文章の中に、ぽつんと残る違和感のほうが、本音に近いこともある。
「もう大丈夫です」と書いたあとに、
「でも、ほんとうは、まだ少しだけ痛い」
と添えること。
「わかりました」と書いたあとに、
「でも、心はそんなにすぐには追いつきませんでした」
と置いてみること。
そういう小さな余白に、本音は宿るのかもしれません。
私は、行儀のいい文章が嫌いではありません。
読みやすく整えること。
相手に届くように言葉を選ぶこと。
誰かを傷つけないように、一度立ち止まること。
それは、逃げではなく、祈りに近い場合もある。
でも、その行儀のよさの奥に、ほんの少しだけ「まだ片づいていない私」を残しておく。
それが、わたしにできる「本音の出し方」なのかもしれません。
全部見せなくてもいい。
けれど、全部きれいに片づけなくてもいい。
整ってしまう私たちは、たぶんそのあいだで書いている。
肌色の下着みたいに、見せているようで、ちゃんと守っている。
それでいいのだと思います。
ただ、ときどき、袖口から本当の体温が少しだけ見える。
そのくらいが、わたしにはちょうどいい。
しらんけど。
喜木 拝